傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

疫病が流行しているのでよぶんな外出を控えるようにという通達が出された の検索結果:

もうどうでもいいや あるいは老いについて

疫病が流行しているのでよぶんな外出を控えるようにという通達が出された。それから三年が経過したので、わたしたちの犬も三歳である。夫はずっと飼いたがっていたし、わたしだって犬は大好きなのだが、わたしが誓いを立てていて、それでずっと飼わずにいたのである。 わたしは七歳のときから犬と暮らしていた。耳が半ば垂れていて、耳と目のまわりが茶色の、ちょっと短足の犬だった。そのころ父の事業の景気がよくて、わたしたちは庭のついた二階建ての家に住んでいた。都心に近い場所のわりに立派な家であったよう…

知人の選択 あるいは老いについて

疫病が流行しているのでよぶんな外出を控えるようにという通達が出された。それから三年あまり、わたしの連絡ツール各種にはすでに誰だかわからなくなったアカウントが大量にある。 わたしは今年三十三歳で、この世代の中では比較的長期にわたって感染リスクを重く見ていたほうだったかもしれない。しかし極端に人づきあいを制限しつづけたわけではない。最初の緊急事態宣言があけてからはひとり二人と会うことはしていた。もともと大勢よりサシのつきあいが好きなタイプだから、それほど強い不自由を感じてはいなか…

父の揚羽蝶

疫病が流行しているのでよぶんな外出を控えるようにという通達が出された。そのためにわたしの帰省は二年ストップした。わたしの出身地は大きな地方都市だが、それでもやっぱり「東京から娘が帰ってくるとなると人目が気になる」と母が言ったものだから。 だから今年は年始のほか連休にも帰省した。いつもは盆正月だけだから、久しぶりに五月の故郷を訪れたことになる。 そのためにわたしは久しぶりに蝶々の羽化を見た。わたしの父は毎年春にアゲハチョウの卵を採取して育てる習慣を持っているのである。 父は昭和…

わたしの大切な不安

疫病が流行しているのでよぶんな外出を控えるようにという通達が出された。流行は三年に達し、直接の知り合いが幾人も罹患した。わたしもかかった。そのために周囲でにわかに注目を集めたのが保険である。症状が重かったので医療保険がおりて助かったという人もあれば、生命保険も含めてプランを棚卸ししたという人もあった。 わたしはといえば、めちゃくちゃ呆れられた。民間の保険というものにひとつも入っていなかったからである。ずっと労働しているが、医療保険にも生命保険にも、これまで一度も入ったことがな…

一人であること、あるいは機嫌のいい犬

疫病が流行しているのでよぶんな外出を控えるようにという通達が出された。そのために人々の楽しみが減り、数少ない疫病伝染性の低い娯楽に注目が集まった。その筆頭がキャンプである。 僕もご多分に漏れず毎月ソロキャンプをするようになった。子どもが中学生になって生活の世話や送り迎えが減り、勉強も塾まかせになった。パパとのお出かけなんか年一回もあればいいという感じだ。そんな中で疫病がやってきた。 僕は自然豊かな場所にアクセスしやすい郊外に住んでいて、自家用車を持っており、アウトドア経験があ…

缶詰課長の巨大な欲望

疫病が流行しているのでよぶんな外出を控えるようにという通達が出された。それから三年たった春、給湯室に「缶詰課長」の段ボールが復活した。 缶詰課長は総務課の課長である。もちろん本名ではない。年のころなら四十路の半ば、若いころ老けて見えるタイプのようで、わたしが入社して以降、十年ほど同じような容貌のままである。元陸上選手で今でも走るからか、中年太りには縁がない。 缶詰課長は常時半袖である。体温が高いから、というのが本人の言で、ほとんど一年中、襟のついた半袖の、ネイビーブルーのシャ…

人生のピットイン あるいは老いについて

疫病が流行しているのでよぶんな外出を控えるようにという通達が出された。それから三年あまり、わたしの「ピットイン」はほぼ完了した。 三十歳とか三十五歳とか四十歳とか、節目の数字で自分の年齢について考える人が多いようだ。人間は成長期を終えたらずっと老いているので、どこかで区切らないと老いに向かい合いにくいためだろう。 わたしはそのように節目の年に考える戦略を採用していない。わりと激務が好きなたちなので、いざ節目の年になって「このように変わろう」と思ったって仕事がそれを許さない。そ…

マスクを着ける要件

疫病が流行しているのでよぶんな外出を控えるようにという通達が出された。それから三年あまり、世界的な緊急事態宣言が解除され、日本でも他の感染症と同じ扱いになった。この数日のことである。 それでわたしはマスクを観ている。人々がどのようにマスクを扱うかを観覧している。それで何をするというのでもない。急速に広まった習慣の急速な変化は何かをあらわしているようで興味深いという、ほんとうにそれだけの理由で見物している。 もちろん、疫病はなくなったのではない。今後もばんばん感染の波が来るだろ…

山田専務はきれいなおじさん

疫病が流行しているのでよぶんな外出を控えるようにという通達が出された。わたしの勤め先でもリモートワークが導入され、大勢が集まる対面の会議はぐっと減った。そのさなかにやってきたのが山田専務である。疫病禍を受けた組織改革の要としての、鳴り物入りの引き抜きだったと聞いている。 とはいえ、それなりの規模の企業では、そこいらの社員と専務に業務上のやりとりはほぼない。わたしが専務とはじめて口をきいたのは仕事に関係のない場面だった。階段部に勧誘されたのである。 久しぶりの大規模な対面会議の…

雑な家族は平和に暮らす

疫病が流行しているのでよぶんな外出を控えるようにという通達が出された。そのために家にいる時間が増えて、いわゆる行動制限が解除されたあとも疫病前よりは家にいる時間が増えた人が多いように思う。リモートワークが定着した企業も少なくないし、まだ用心している人もあるためだろう。年をとったこともあって、人に会うときランチやお茶を選ぶことも増え、飲み会は遅くても終電解散、最後にレイトショーに行ったのはいつのことか思い出せない。単純に疲れちゃうのである。 そうして家にいる時間が増えると、周囲…

春の滋養 あるいは老いについて

疫病が流行しているのでよぶんな外出を控えるようにという通達が出された。それから二年ほどで料理の腕前に磨きがかかった。食いしん坊に外食を禁じたら自炊に力を入れる。自然な成り行きである。 今年はいわゆる行動制限がすべてなくなったが、料理の腕は残った。年をとって外食はちょっと重いと感じることも増えた。家で好きなものを作って食べるのは快適なことである。ことに春は好きな食材が多い。 春キャベツと春にんじんの、半ば甘酢漬けのようなコールスロー。新玉葱は生も好きだけれど、オーブンで焼くのが…

蟹座のようなわたしの労働

疫病が流行しているのでよぶんな外出を控えるようにという通達が出された。それから三年、大学の授業はほぼ対面に戻る。なし崩しに制限のなくなった生活の中、感染症は再流行するだろう。社会での扱いが変わったからといって病気がなくなるわけではない。死ぬ人がいなくなるのではない。後遺症がなくなるのではない。もちろん。 しかしそれはそれとして大学に学生がいっぱいるのはいいものである。新学期、とわたしは思う。 研究業界の就職のしんどいことはインターネットでもよく言われている。それでもわたしは自…

欺瞞の誕生

疫病が流行しているのでよぶんな外出を控えるようにという通達が出された。それからいくらかしてわたしの家にテレビが導入された。わたしも夫もテレビを観る習慣がなかったのだが、出かける機会が減って退屈になり、家で映画を観るために購入したのだ。そうして週に一、二度、リビングで映画やドキュメンタリーを流している。 昨日はその画面に「橋の欄干を乗り越える人」が映った。高所から飛んでグライダーで着地するスポーツをやっているのだった。するとわたしの脳裏に陽気なわたしの声が響いた。おお、最近のゲ…

いつもどっか行きたい あるいは老いについて

疫病が流行しているのでよぶんな外出を控えるようにという通達が出された。それ以来ずっとがまんしていたことがある。海外旅行である。 このたびそれを解禁した。三日ばかり台北で遊んできただけなのだが、それでもなにかこう、生き返るような心地である。 海外旅行好きには二種類あるように思われる。たとえばリゾート島で心ゆくまで休むとか、本場のテーマパークを堪能するとか、日本には巡回しない美術や建築物や自然を鑑賞するとか、そういうのを求める人々である。目的がある旅行、とでもいいましょうか。私も…

広場と安心

疫病が流行しているのでよぶんな外出を控えるようにという通達が出された。それから三年が経って、いわゆる行動制限が緩和され、実質的に何をしてもよいということに、政治の上ではなっているのだけれど、かといって疫病自体がおさまったのではなくて、みんななんとなく左右を見ながらおおむねマスクをつけて暮らしている。 この間についた習慣が住居から徒歩十五分ほどの大きな公園への散歩である。 疫病流行当初は県境を越えてはならないとされており、商業施設や飲食店も早々に閉じてしまうので、休日の気晴らし…

想像上のカウンター

疫病が流行しているのでよぶんな外出を控えるようにという通達が出された。そのさなかにこの町に引っ越してきたので、しばらくは飲み屋に行くこともできなかった。わたしは働き疲れて小さな居酒屋で小一時間飲んでささっと帰るような日が、けっこう好きなのだけれど。 今日は珍しく灯りがついていた。ドアをあけると、彼は自分のためにいくらかのつまみを盛っていて(あきらかに自分向けの、ラフな盛り方だった)、わたしの顔を見ると、お、と言った。入っていい、とわたしは尋ねた。いいよいいよと彼はこたえた。も…

想像上のカウンター

疫病が流行しているのでよぶんな外出を控えるようにという通達が出された。そのさなかにこの町に引っ越してきたので、しばらくは飲み屋に行くこともできなかった。わたしは働き疲れて小さな居酒屋で小一時間飲んでささっと帰るような日が、けっこう好きなのだけれど。 今日は珍しく灯りがついていた。ドアをあけると、彼は自分のためにいくらかのつまみを盛っていて(あきらかに自分向けの、ラフな盛り方だった)、わたしの顔を見ると、お、と言った。入っていい、とわたしは尋ねた。いいよいいよと彼はこたえた。も…

遠い薔薇の日々

疫病が流行しているのでよぶんな外出を控えるようにという通達が出された。それは何度か繰り返され、行動制限と呼ばれるようになった。先だってそのすべてが解除され、しかし感染状況は相変わらずなので、大勢が集まる場はなんとなく左右を見ながらぬるりと再開されている。 私的な集まりが二人から三人、五人、八人と少しずつ大きくなり、勤務先でも三年ぶりに歓送迎会の開催が決まって、出身校の同窓会組織が数年に一度呼びかける集まりもいちおうは「非公式」として実施されることになった。 彼と会うのは十年ぶ…

恨みの要件

疫病が流行しているのでよぶんな外出を控えるようにという通達が出された。何度か出された通達が「いくらなんでももういいだろう」という感じで止まり、いわゆる行動制限が解除されたのがつい最近のことである。 疫病自体はぜんぜんおさまっていないので、相変わらずワクチンを打ったりマスクをしたりはしている。疫病以降に知り合った人とはじめて食事に行くと、「こんな顔で笑うんだ」と思う。顔の下半分を出さずに過ごしていたのだから、そりゃあそうだろう。口というのは表情のけっこうな割合を占めるものなのだ…

恋のような湿度と温度

疫病が流行しているのでよぶんな外出を控えるようにという通達が出された。それから三年、人に会うことに制限はなくなったが、その間についた習慣が消えるのではない。わたしにとってのそのひとつが友人からの通話である。 わたしたちは中年であり、通信量が事実上無制限になって高品質通話が無料でできるときに青春を過ごした世代ではない。それだから若者たちのように通話をつなげっぱなしにする習慣はないのだが、疫病以降、一部の友人からの通話は長くなった。適応、とわたしは思った。 このたびかけてきてあれ…

彼女がいちばんきれいだったころ

疫病が流行しているのでよぶんな外出を控えるようにという通達が出された。それから三年ばかり、久しぶりの連絡が増えている。そうして「実はあのころ」という話を、ぽつぽつと聞く。実はあのころ、子どもが不登校になってね。いいえ、中学校に上がったらけろっとしちゃって。実はあのころ、わたしガンになってね。いいえ、もうほぼ完治してる、ちょっと手術しただけで、予後がすごくいいタイプのもので、たまに検査しに行くだけで、ほんとうにどうということもない。 全部終わったから、言うんだけど。 疫病の流行…

利益つきの友情

疫病が流行しているのでよぶんな外出を控えるようにという通達が出された。通達は何度かマイナーチェンジしながら繰り返され、近ごろ事実上ゼロになった。「行動制限なし」というふうに呼ばれている。 昔の友人から「行動制限もなくなったし子どもたちも大きくなったので、飲みに連れていってほしい」というメッセージが入った。わたしは少し驚いた。 この人に会うこと自体は三年ぶりである。しかし二人で会うことは十年以上前からなかった。友人が子どもを置いて外出することができないからだ。この人が結婚して以…

育ちの良い女の子を見抜く方法

疫病が流行しているのでよぶんな外出を控えるようにという通達が出された。そのために恋愛や結婚の相手を探すプロセスも大幅に変化したようである。わたしはいま現在新しく相手を探す必要を感じないが、人生には何があるかわからないのだし、昨今はどうなのかしらと若い人に尋ねたら、共通のコミュニティで相手候補を紹介しあうようなことは減っていて、アプリで個別に出会うほうが主なのだそうだ。 そりゃいいねえとわたしは言った。仕事が絡んだりすると面倒だものねえ。仲間うちでごたごたするのもねえ。 若者は…

女に甘い女

疫病が流行しているのでよぶんな外出を控えるようにという通達が出された。そのために三年ちかく会っていなかった古い友人から連絡があって、顔を合わせたら、年月では説明がつかないほど人相が変わっていた。どうしたのかと尋ねると、恋愛をしたと言うのだった。 その話を簡潔にまとめると、結婚していて子どももいる上司の二番目の女みたいな立ち位置になり、その男から「押し切られて結婚し、みるみる醜くなった妻を愛せないが、子どものために耐えている」というようなことを言われ、「女磨き」をがんばって自分…

人間でない男

疫病が流行しているのでよぶんな外出を控えるようにという通達が出された。そのために友人たちとの集まりも控えていたのだが、近ごろは「いくらなんでももういいだろう」という雰囲気である。疫病以来の帰省、疫病以来の再会、疫病以来の帰国といった話がよく耳に入る。 そんなわけで疫病前は毎年会っていた高校の同級生たちと再会した。皆でお弁当を食べていた仲である。 四十代になっても人生は変化するものらしく、転職したとか、子どもができたとか、彼氏ができたとか、近況報告だけでずいぶん盛り上がった。そ…

僕の目下の男

疫病が流行しているのでよぶんな外出を控えるようにという通達が出された。それから三度目の冬が来て、僕はつくづく「目下の男」のありがたさを実感しているところである。 「目下の男」というのは、僕が特別仲良くしている同性の友人を指す。僕の以前の彼女がつけた名前で、わりと気に入っている。単にいちばん仲が良い友だちというだけでないニュアンスがあるんだけど、うまく言えない。 僕には同性愛の経験はない。「女の子と恋愛をしたことがある。でも男女両方が色恋の対象になる可能性をナシだと決める理由は…

羽鳥先生の静かな正月

疫病が流行しているのでよぶんな外出を控えるようにという通達が出された。それ以来、盆正月恒例の集まりは基本的にオンライン、ときどき対面というぐあいになった。 恒例の集まり、といっても親戚づきあいではない。大学の先輩後輩三名の集まりである。同業で気心知れていて職場が別なので、情報交換に適した人選なのだと思う。いつかの集まりで僕がそう言うと、メンバーのひとりから「ただ友だちなだけでは?」と言われた。そうかもしれなかった。 ただ友だちなだけで盆正月に会うのはおかしいと言われたことはあ…

敏感な世界に生きる鈍感なわたし

疫病が流行しているのでよぶんな外出を控えるようにという通達が出された。弊社ではリモートワークが定着し、勤務先の人々の顔を見る機会が減った。社内に物理的に存在する人間が少ないために、数少ない対面が密室化しやすくなった。そうして、その中で重大なハラスメントが発生したために、上司と部下等の個別面談に関するガイドラインを作成するはめになったりした(わたしが)。 わたしはハラスメントや労働問題の専門家ではない。まったくないのだが、「あの人にやってもらおうよ、人権とかめちゃくちゃうるさそ…

成長は自動で訪れない

疫病が流行しているのでよぶんな外出を控えるようにという通達が出された。そのために多くの学校でオンライン授業が導入されたが、わたしの勤め先の専門学校は比較的早く対面を再開した。 それでも学生たちの生活に影響が出ないはずはなく、休学や退学は増えている。わたしは学校事務をやっているのでその増加が如実に感じられれる。多くがお金の問題で退学せざるをえないので、わたしも一緒に悲しくなってしまう。 その中にはびっくりするようなケースもある。 除籍でいいんだと言っています。わたしはそのように…

やさしさの出力調整

疫病が流行しているのでよぶんな外出を控えるようにという通達が出された。そのために多くの学校でオンライン授業が導入されたが、わたしの勤め先の専門学校は比較的早く対面を再開した。実習なしには成り立たない分野であり、いわゆるエッセンシャルワーカー(疫病後突然人口に膾炙した語である)を育てる場でもあるからだ。 わたし自身はその分野を勉強したのではないし、資格も持っていない。学校事務をやろうと思って就職先を探したら採用してもらったのだ。 対人サービスで窓口業務があるところには必ずヘビー…