傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

2010-04-01から1ヶ月間の記事一覧

姿勢と感情

そのころの私には、つま先から頭のてっぺんまでたちの悪い疲労がひたひたに満ちていた。さまざまな種類の、不可逆的に関与しあった、発酵してなにかもっと邪悪なものになりかけた疲労だ。疲労と私のあいだには境目がなく、疲労が私の実体であるように思えた…

個人的でない愛

長期出張から帰ってきた人に向こうでの生活を訊くと、合宿っぽかったよと言う。一軒家をスタッフ三人でシェアして、一緒に暮らしていたのだそうだ。 部屋はひとりひとつだけれども、ほかは共有だから、朝晩顔を合わせる。もちろん仕事もおおむね一緒にやって…

機械としてあつかって

コンビニエンスストアに入ったら、おばあさんがレジの人に話しかけていた。何時までこうしてお勤めになるのかしら。こんなに遅くまでねえ。感心なことねえ。 私たちはおばあさんの隣のレジで買い物を済ませて外に出た。さっきの店員さん、困ってたねえ、と彼…

世界に対する負債の感覚

高校生のとき、電車に乗っていて、後ろから頭をたたかれた。そんなに強い力ではなかった。驚いて何秒か動けなかった。振りかえると男性がいて、私がとにかく悪いという意味のことをまくしたて、おそらくはそれで私の頭に接触した鞄を何度か私の目の前に突き…

平安時代のようなかなしみ

最近彼女と別れまして、と彼は言った。私は、まあまあ、飲みますか、とワインのボトルを差しだし、このせりふはちょっとおじさんっぽいな、と思った。それから彼の話を聞き、さらにおじさん的に、それも人生だよ、などと言った。 私の考えるおじさん的な反応…

作文が終わらない

七つの女の子と話をしていたら、作文が終わらなくて困っているという。彼女は小さい子にしては要領よくしゃべるんだけれども、なにしろ七歳は七歳なので、話がくどい。しかもしょっちゅう脱線する。最後まで聞いて推測するに、どうやら何を書いて何を省くか…

彼は何をしゃべっているんだろう

彼女は結婚して一年になる。ちかごろの生活はどう、と訊くと、ちょっとしたトラブルをおもしろおかしく話してくれてから、そうそう、とつけ加えた。そういえばね、彼、ひとりでしゃべるの。しかもシャワーを浴びてるときに。お風呂で鼻歌を歌うのはわかるん…

価値を感じることができない

そのとき私は十七歳で、スーパーマーケットのレジ打ちをしていた。その店には万引きを示す暗号があって、「まるいち」というのだった。それを伝言ゲーム式に伝えるのだ。私がアルバイトをしているあいだにその暗号を聞いたのは一度きりだった。私はなんだか…

十五歳までにしておくべきこと

私が中学生だったころ、誰かとつきあっている女の子は、ときどき自転車に乗らずに学校に来ていた。男の子の自転車の後ろに乗せてもらって帰るためだ。彼女たちは少しはずかしそうに、でもどこか誇らしげに、幼い「彼氏」の肩に手をかけて河川敷を走っていっ…

行かないかもしれない

台湾料理屋の前を通りすぎて、彼は言う。台湾かあ。行くかな、これから。私はこたえる。行くかなあ、行かないかもしれないね。 それから私は小さい声で言う。ちかごろ、世界のいろんなところに、私は行かないかもしれないって、そう思う。ほんのちょっと前ま…

嘘の副作用

仕事で嘘をつくから、ちょっとつきあってくれないかな。そう言われて休日に中古車を見にいった。彼は中古車屋の店主と話し、乗用車についてあれこれ訊いて、にこやかにそこを出た。 覆面でさまざまな商品の調査をするのが、彼の仕事だ。中古車のあとはハイブ…

涙袋

カフェで本を読んでいて、隣のテーブルの女性が落ちつかない様子をしていることに気づいた。 彼女はおずおずとあたりを見回し、ウェイトレスを目で追い、でも声はかけずに、窓の外を見たりうつむいたりしていた。見たところ四十代半ば、少し面やつれしている…

青いひよこ

最初に生き物が死ぬのを見たときのことを話そう、と彼は言った。 あなたは何が死ぬのを見た?鳩?鳩がからすに捕食されているところを見た。なるほど、それはドラマティックだね。 僕はひよこだった。僕らが子どものころに縁日で売ってた、色のついたやつ。…

花と花のかたち

花の咲いた公園で待ちあわせをすると、彼女は先に来ていた。そのペンダントいいね、と私は言った。よく似合ってる。 うん、これねえ、もらった、と彼女はこたえた。それからすごく不思議そうに、あのさあ男の人って仲良くなるとなんでものをくれるのかな、と…

すずめの明日

すずめって明日とかあるのかな、と彼は言った。なあにと私は訊いた。 すずめはあんまりお利口そうではない。ああいう生き物には過去の記憶がないと聞いた。それなら明日も昨日もないだろう。行動は条件に対してプログラミングされていて、思考はしない。記憶…