傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

育ちの良い女の子を見抜く方法

 疫病が流行しているのでよぶんな外出を控えるようにという通達が出された。そのために恋愛や結婚の相手を探すプロセスも大幅に変化したようである。わたしはいま現在新しく相手を探す必要を感じないが、人生には何があるかわからないのだし、昨今はどうなのかしらと若い人に尋ねたら、共通のコミュニティで相手候補を紹介しあうようなことは減っていて、アプリで個別に出会うほうが主なのだそうだ。
 そりゃいいねえとわたしは言った。仕事が絡んだりすると面倒だものねえ。仲間うちでごたごたするのもねえ。
 若者はうなずき、しかしですよ、と言うのだった。アプリにはいいところもあります。でも困ったこともある。まずマッチする人が多い。東京にいて二十代だと候補が多すぎて、スペックで判断するしかない。それで気の合う人に当たるまでくじを引き続けるのはたいへんすぎる。お互い気に入るまでどれだけ試すのかと思うと気が遠くなります。ほんとうに疲れる。昔は合コンとかよくやってたんでしょう、それってどんな感じでしたか?
 わたしは苦笑する。そして言葉を選ぶ。そうして言う。たいして変わらないですよ。

 「それ差し歯でしょう」。
 わたしが数あわせで呼ばれた何度目かの合コンで席に着くなり言われたせりふである。医者と歯医者が来るという話だったので、さてはこいつ歯医者だなとわたしは思った。そしてにっこり笑って歯を見せ、そうです、さすがですね、と言った。数あわせで呼ばれたなりの儀礼はやるが、「きゃーなんでわかったんですか」まではやらない。
 歯医者のツカミはばっちり、他の女の子たちが「きゃーなんでわかるんですか」をやり、男たちはよいアイスブレイクを得て安堵の表情といったところである。
 歯をご覧になれると、こういうときもいいですね。わたしは言う。相手のことわかりますものね。そうなんだよ育ちが出るんだよと歯医者が言う。歯の健康に気を遣うご家庭はきちんとしているから。外見にもかかわるし。そうですねとわたしも言う。付け焼き刃ができない部分の代表かも。育ちの良い女の子を探したかったらそういうところで最初の値踏みをしなくちゃね。

 値踏み、という語は意識的に使用した。わたしは「育ちの良さ」なんかおまえらの好きにやれよわたしゃ関係ねえよと思って生きていたからである。今でもそうだが、当時のほうがもっと強くそう思っていた。
 「育ちが良い」相手を選べば、親の経済的な水準が高い確率が上がる。とんでもない人間が親戚になる確率が下がる。良質な教育を受けている確率が上がる。情緒的に安定している確率が上がる。利用価値の高いコネクションを持っている確率が上がる。さまざまな人に好まれる相手である確率が上がり、ひいては自分の社会的評価に貢献する確率が上がる。だからそういう「育ちの良い」相手を選びたい。しかし見合いはいやで、偶然性が演出するロマンティックなラブもやりたい。だから値踏みする。
 結構なことである。わたしは近寄りたくもないが。

 わたしの歯の半分は作り物である。子どものころの環境がひどいと、十八の段階で口の中の健康はだいぶ害されている。多くの場合、大人になってから自分でお金を作って治療をする。わたしはそうした。歯がぼろぼろで生涯にわたってメンテナンスを要するのは、「虐待家庭出身者あるある」である。
 わたしが「育ちの良さ」について詳しいのは、何のことはない、自分のようでない者が「育ちが良い」とされることを、本を読んで知っていたからである。そういうことに詳しくなりたくて読んだのではない。闇雲に本を読むので、たいていのことは探さなくても出てくるのだ。
 わたしは「なるほど」と思い、そして、自分は育ちの良さが欲しかっただろうかと考え、それはない、と思った。恵まれた環境があるのは良いことだ。一方で自分は悲惨な環境(ほんとうに悲惨だった)を生き抜いたからこの人格になったので、それ以外の人格だったらもうそれはわたしではない。起きてしまったことでわたしはできている。「育ちのよいバージョンのわたし」などというものは存在しない。おまけに「育ちの良い女の子」を好きになるタイプの人間にも関心がない。だから関係がない。

 あれこれ思い出して、いやあ若かったねえ、と思う。そしてもう一度苦笑する。目の前の若い人に言う。アプリでも合コンでも、スペック競争のつらさはそんなに変わらないように思いますよ。母数がすごく多いから、その点はアプリのほうがたいへんだろうとは思うけど。アプリで会うとどんな感じなの?
 若い人はおもしろおかしくその話をする。わたしは楽しくそれを聞く。