傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

いつもどっか行きたい あるいは老いについて

 疫病が流行しているのでよぶんな外出を控えるようにという通達が出された。それ以来ずっとがまんしていたことがある。海外旅行である。
 このたびそれを解禁した。三日ばかり台北で遊んできただけなのだが、それでもなにかこう、生き返るような心地である。

 海外旅行好きには二種類あるように思われる。たとえばリゾート島で心ゆくまで休むとか、本場のテーマパークを堪能するとか、日本には巡回しない美術や建築物や自然を鑑賞するとか、そういうのを求める人々である。目的がある旅行、とでもいいましょうか。私も目的を定めて旅行することはある。
 でも私にとってそういうのはおまけだ。時代を象徴する名画より、完璧なリゾートより、ただ「いつもとちがうところ」であることが重要なのである。その「ちがう度」が高いというだけで海外が大好きなのだ。ふだんはつましい生活をし、一週間の休みがあればどこかの大陸に行く。「くさくさするなあ」と思ったら格安航空券を探してアジアのどこかに行く。それが私の「生活様式」だった。

 疫病が流行しはじめた年に会社を辞めた若い後輩があって、優秀な人材だったので上層部が引き留めたのだが、「あの、こんなご時世で、でもどっか行きたくて、わたし、いつもどっか行きたいんです、それで、新しい仕事の話が来て、その仕事だと、どっか行けるので」という本音を聞き出したらみんな諦めた。どっか行きたいのか。それじゃあしょうがない。
 生まれつき「いつもどっか行きたい」人間がいるのだと思う。私もそうなのだと思う。

 そんな人間でも年をとると動きが鈍くなる。それに気づいたのは三十四歳のときだった。疫病のことなど誰も想像していなくて、いつでもどこかへ行けると、私自身も思っていた。
 私は移動を苦にせず、複数の地方都市に住んだことがある。それを知っていた当時の上司から、博多に行かないかという提案があった。昇格、海外とのコネクション、広いオフィス、住みよい町に美味しい食べ物、キャリアを積んで三年ほどで東京に戻ってもらう。どうだい、悪い話じゃないだろう。
 いいなあ、と思う気持ちと、いやちょっと、と思う気持ちが同時に観察されて、私は自分に驚いた。
 でも都市を移るとゼロからいろんな人と知り合わなければならない。いや、仕事以外では「ならない」ということはないんだろうけど、私は誰とも話さずに生活するのはいやなので、いくらかの知り合いと友人を作る必要がある。お気に入りの週末の過ごし方を新しく構築して、そして。
 それが楽しかったはずなのだ、三十代の前半までは。

 年をとった、と思った。
 私の場合、動きが鈍くなったのは「ライフステージ」とやらの問題ではない。仕事は変えず、子どもも持たず、パートナーとは永続的な同居を約束していない(お互い「どっか行きたい」人間だと承知しているから)。第一に体力の問題、第二に現在の心地よい生活に対する未練である。
 若いころはばかみたいに元気だった。私のたましいには宿命的な陰鬱さが刻まれており、しょっちゅう「あー、あした世界が終わればいいのになー」などと言っていたが、それでも身体はものすごく元気だった。具体的には平日仕事して週末災害ボランティアをしたりしていた。それがちょっとしんどくなってきた頃合いの博多オファーだった。
 私はその話を辞退した。
 あのとき私の「いつもどっか行きたい」には一つの歯止めがかかった。私にとってそれは、人生のある段階で緩めなければいけないものだった。私は死ぬまで全力で放浪できるタイプの人間ではなかった。そのことが残念で、でも誇らしくも思うのだった。

 それでもなお私は旅行をするし、もう一回くらい移住をしたいと思っている。今の私の「老後ドリーム」は定年退職後に地方都市で知人の会社を手伝いながら夜は飲み屋でバイトするというものである。そして知らない人と話すのだ。楽しそうである。
 そのためには何はなくとも体力、そして経済力である。私はジムに通い、定期預金の一部を運用に回し、自炊して栄養のあるものを食べている。
 たしか沢木耕太郎が、あるとき旅先で「ここにはもう来られないかもしれない」と思って、自分の年齢を感じた、というエピソードがあって、それを読んだとき私は若かったから、そんなものかと思ったんだけど、四十代の今、そうは思わない。よう沢木さん、と私は心の中で言う(私にとってたくさん本を読んだ作家は空想上の友人なのである)、あのころの沢木さんくらいになったけど、あたしはまだやるよ、まだ「来たくなったらまた来よう」をやるよ、まあ、たいした旅行してないからってこともあるけども。