傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

自分ひとりの皿

 仕事やめたんだあ。
 友人が言う。皆が一斉に失業保険について質問する。もうやったか。自己都合退職でももらえる。手続きはこう、必要な書類はこう。
 その場にいる全員が失業保険の申請をしたことがある、または申請方法を調べたことがあるのだから、就職氷河期世代とはせつないものである。資格職外資大学院入りなおし中途採用公務員、そんなのばかりである。
 しかし、五十近くともなると職が落ち着き、転職がぐっと減った。だから仲間うちで仕事を辞めたという話が出るのは久しぶりなのである。
 退職したという友人は、失業保険ねえ、とつぶやく。めんどくさい。
 皆がいっせいに、もったいない、と言う。もらえもらえと言う。

 しかし、よく考えればこの女には昔からそういうところがあるのだ。
 彼女はふだんはパワフルだ。早くにできた子どもが二人いて、若くして配偶者を亡くし、親類や友人や、もちろん自分の能力と時間も含め、手持ちのリソースをフル活用して子育てしながら労働する、丈夫な働き者だった。子どもたちの教育費も自分の稼ぎでまかない、下の子が高校生のころまでは毎日のお弁当も作っていた。そうしておしゃれで、おしゃべりで、たいへんな料理上手で、外食も好きで、友だちが多く、地域のバレーボールサークルの主力でもあった。エネルギーの総量がとても高い。
 でもこの人は突然何もかも面倒くさくなることがある。何年か前、上の子が独立し、下の子が修学旅行に出ていて一人だというから、自宅に遊びに行った。すると彼女は午後三時にカップ麺の素うどんを食べていた。素うどんが悪いとは言わない。わたしも家でよく素そばを食べます。でも午後三時がその日最初の、おそらく最後の食事なのは健康的とはいえない。
 めんどくさいんだよう、と彼女は言った。あなたの言う素そばって、乾麺をゆでるんだよね。えらいなあ。

 めんどくさくなるときって。考えながらわたしは言う。自分だけのときだよね。
 彼女はしばらく視線を斜め上にやる。それから、そう、と言う。受け答えの速度までいつもより遅い。
 それからつぶやく。下の子も大学を出て独立したし、もう、いいよねえ。

 それからわたしたちに「これ要る?」と何枚かの写真を見せる。いくぶん高価そうなかばんがいくつか、ゴールドやプラチナのアクセサリー。これよくつけてたじゃない、と誰かが言う。うん、と彼女は言う。なんか、もう、めんどくさくて。
 装いをこらし、美味しいものを作り、友人たちに、たとえば「上海蟹の季節だから食べに行こう」と呼びかけてツアーをやる気力はもう出てこないのだというようなことを、彼女は言うのだった。そうして、幸いみんな元気だしねえ、とつけ加えた。
 そういえばこの人がイベントを企画するのは、誰かに何かあって少し元気がなかったり、気分転換を必要としているときだった。わたしの知らない他のコミュニティの友だちに対しても、そうだったのかもしれなかった。子どもたちに対しても、教育やケアが必要な時期だったから、あんなに細やかだったのかもしれなかった。

 これからは自分を楽しませたら、いいのではないの。誰かが尋ねる。彼女はそれに直接回答しない。うーん、しばらく無職やって、あとは自分の食い扶持だけ稼げばいいかなーって思う。食事? 大丈夫。カップうどんを箱買いしてる。
 カップうどん、好きすぎだろ。わたしがそう突っ込むと、だって、と彼女は言うのだった。美味しいものって、疲れるじゃん。情報量が多いっていうか。ひとりでそんなの食べてもしょうがないじゃん。

 わたしは衝撃を受けた。わたしはひとりで凝った料理を作って食べるのがとても好きである。一人旅も好きだし、読みたい本も無限にある。もちろん人に何かを振る舞ったり一緒に楽しむのも好きだが、基本的に自分のために何かしている。
 この人はそうではないのだった。
 それは才能だよ、と彼女は言う。わたし、ひとりで何がしたいかって訊かれたら、寝てたい。おなかがすくのもめんどくさいからできるだけ空かないでほしい。

 思い返せば彼女はいつも、誰かのために何かをしていた。そうして今、子どもたちは立派な大人になり、両親は感じの良い老人ホームに入っている。友人たちも元気で安定している。経済的にも困っていない。
 それはとても、いいことだ。彼女の人生の果実だ。
 でもわたしたちの寿命はきっと長い。この人はその年月に飽いてはしまわないだろうか。そう思って、少し怖くなった。彼女抜きで友人たちと会議をしようと思う。彼女には何かが必要だ。食べたいものを選んで皿の上に盛りたくなるような、何かが。