傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

2013-01-01から1年間の記事一覧

信号待ちの交差点で受刑者を見た話

駅から職場まで歩きながらその日に済ませるべきことを頭の中で並べるくせがいつのまにかついていた。シャワーを浴びるあたりからそれらはぼんやりと私の中にただよいはじめ、けれども歯を磨いたり朝食を摂ったりするあいだはもっとずっとやくたいのない空想…

山手線の中で悪魔に会った話

毎朝と毎週と毎月、その後の一日と一週間と一ヶ月について彼は想定する。想定には一から百の目盛りがついている。百の日、と彼は思う。完全な日曜日。彼はわずかに震え、人に変に思われない程度にほほえんだ。百、すなわち目盛りのいちばん上を使ったことは…

あまい真綿

彼は仕事でへとへとに疲れて、彼女に連絡すると言ったことを忘れる。起きると彼女からメッセージが入っている。昨夜どうしたの?具合でも悪い?彼は返信する。だいじょうぶ。ごめんね。だいじょうぶならよかったと彼女は送りかえす。そのようなことが何度か…

あなたの可愛い可愛い部下

最初の皿が来ても、まだだ、と判断する。それが半ば以上空いて、しょっちゅう会うわけでもない私たちのあいだの空気の凝りがそれなりにほぐれたところで、私はそのことばを口に載せる。それは私の内側で注意深く削られているからとても軽い。ねえ、何か、い…

彼は必ず満足しない

たいていの人や状況に対して執着がきわめて少ないのが自分のいいところだと彼女は思っていた。仲良くなる相手はだからちょっとラッキィだねと、そう思っていた。適度に親しげに、感じよくふるまうことについて彼女には自信があったし、彼もそれを享受してい…

歴史をあけわたす

そうそう、このあいだフジモリさんからFacebookの申請が来てねえ、びっくりしたよ。私がそう言うと彼女はちょっと眉をあげて首をかしげた。フジモリさん、と私はゆっくり繰りかえし、発音しながら首の後ろのある部分がちりりと痺れたことを自覚する。そこは…

正しい愛

抜栓する夫の手つきを彼女は好きだった。だからほほえんでそれを見ていた。彼は彼女のグラスとそれから自分のグラスの前でボトルを傾けた。ありがとうと彼女は言った。夫は上機嫌で彼女も同じくらい機嫌がよかった。それは久しぶりに彼らの双方が翌日に仕事…

透明な欲望を汲みだす

かれしが、と彼女は言う。新しい彼氏、と私は訊く。彼女はこっくりうなずく。以前つきあっていた男の子と別れてだいぶたつので、よかったねえと私は言う。あんまりしょっちゅう恋人をつくるタイプではないのだ。この若い友人にはほとんど必ずいつも薄い不安…

透明な要求を捨てる

癒されるねえ、と彼は言う。なにそれと彼女は訊く。なにって、つまり己の身の裡の回復が亢進し快いですね、という意味です。彼はそのように説明し彼女はからだの半分で寝返って皮膚でもって壁の温度を吸う。視界を走査する。たっぷり泳いだあとのシャワーの…

警告と避難と生還

片足を引いて自宅に戻る。良くない兆候、と彼は思う。バランスが崩れている。彼はこの十年ばかり、月に五十キロメートル程度を走っていて、腫れるほど足を捻ったことは二度しかない。彼はなにごとにも慎重だし、無理をするたちでもない。子どものころは丈夫…

彼らに見えない物語

人と会うことのはしごをしたために、私のその日ふたつめの待ち合わせ場所で彼らは顔を合わせた。彼は彼女に会釈し、彼女は彼に会釈して、私は彼らふたりの紹介をごく簡単にして、それから彼が去って、彼女は残った。彼氏。独特の、軽く投げ出すような口調で…

愛された子の副作用

残業が長引いて駆けこんだ私を、中腰になり片手を挙げて彼はとどめた。走ることなんてないのに、室内で、快適で、お店の人も良くしてくれて、だから急ぐことなんてないのに。元同級生であるだけの私を相手にしても、遅れた待ちあわせに走ることを咎めるよう…

あなたの欠如のかたちのお菓子

そんなふうにいろんな女の人のあいだをふらふらしたってものごとは解決しないんじゃないの、と私は言う。あなたが失ってきつい気持ちになっているのは、恋の様式だけを引き写した気楽な関係ではないし、穏当で安定したパートナーシップでもない。以前の恋人…

砂糖菓子のお城の王さま

愛に飢えているのですよと彼は言った。嘘だねと私はこたえた。あなたが飢えているのは愛じゃないよ、どう考えても。それから私たちはなんだか可笑しくて笑った。日常語でないと言われる語彙を、私はわりに平気で口に出すけれども、誰にでもというのではなく…

あなたの手持ちのすべてのカード

彼女は彼の求めに応じてアドレスを示した。ありがとうと彼は言ってにっこりと笑った。彼女はひどくうれしくなって、それから、こんなにうれしいのはおかしい、と思った。もしかして私はこの人に一目惚れしたのだろうかと二秒間検討し、いや、それは、ない、…

残弾処理場の述懐

新しいアカウントが出てきて、思い出すのに三秒かかった。本名なら高校の同級生だ。新しく登録したのだろう。このアプリはアドレス帳と連携して知人を割り出す。そう思っていると吹き出しがぽこりと出た。もしかして槙野さん?私はちょっとびっくりして返信…

生き人形の些末な拒絶

あの、ここいいですか。どうぞ。ありがとうございます、待ち合わせですか、えっと、無視ですか、困ったな、超きれいな人がいると思って来ちゃったんですけど。へえ、ナンパってカフェの相席でもやるんですね。ええもう、やりますやります、ありがとうござい…

飛ぶものに変わる

口にしてはならないもの。氏名、所属、住所、電話番号。できるかぎり避けるべきもの。自分に強く関連する誰かやどこかの固有名詞。口にしてもかまわないもの。漢字なしのたがいの名前、簡単に変更でき重要な知人との連絡に用いていないウェブサービスのアカ…

モンスターのための絆創膏

ホームパーティがはけるころ、彼が私の横を通り、グラスのテーブルの端に寄ったのを、手を伸ばして内側に動かす。おとうさんのしぐさ、と私は言う。小さい子が落とさないようにしている。彼はちょっとうつむいて、マキノは三歳じゃないのにな、と言う。たぶ…

花火のあとで

おねえちゃん、今日はなにができるの。家主が訊くとその日のシェフである彼女はひどく気前の良い笑顔で、なんでも、と言った。なあんでもできるよ。わあ、どうしよう、と家主は言って、うれしそうに笑った。私と同い年なのに、七つの子どもの母親なのに、そ…

弱者としてのレッスン

爆発の音がする。グラスを手に空の光を振りかえって、華やかな戦争みたいだ、と彼女は言う。夜になったばかりの空が赤く光り、緑色がかり、うす青く陰る。部屋の灯りは落とされ、やや過密にそこにいる私たちはたしかに、逃げて隠れているようだった。私は少…

私たちの好きな弱者

声が耳に入って反射的に振りかえる。その動作が終わるころになって知っている声だったと気づく。女は私の隣の誰もいない椅子の、その隣に座って、軽く笑い声をたてる。あの人だ、と私は思う。ずいぶんと時間が経っているけれども、間違いない、と思う。 その…

開放されない生態系

お姉さんはお元気、と訊くと彼はふうとため息をつき、理不尽な過程の果てに刑罰を執行された冤罪者みたいな声で、近ごろ姉さんに醒めちゃってさ、と言った。私はひどく感銘を受け、心をこめて、異常だ、と言った。日常語ばかりで構成された短文ひとつがここ…

私を交代する

SNSでもう一人あなたを見つけたと友人が言うので、同姓同名かと訊くと、いや、男の名前、とこたえる。でもあれはあなただと言う。URLとパスワードが送られてきて、そこに入ると、私がIDを持っていないクローズドなSNSからのキャプチャと、別のオープンなソー…

良い恋人と悪い恋人

あーん、と彼は言う。きまじめな顔をして果物を食べている。桃とさくらんぼ、と彼女は思う。ピンクばかりの組み合わせだなあと思う。それを彼自身の口に運ぶよりほかに彼の手は使用されていなくて、もちろん彼女も同じだった。彼らは落ち着くべき年齢で、少…

身動きなんかとりたくなかった

ところで、ついに結婚することになったんだ。彼は晴れやかに言い、私はわあ、すごい、おめでとう、と口にしてから、声が大きすぎやしなかったかと、周囲をそうっと見渡した。それが終わらないうちに続きのせりふが届く。弟が。その報告をしたときのやつの得…

ずっと失敗していたい

落ちちゃった、と彼は言う。だいじょうぶ、と彼女は言う。彼女の体温がほんの少し上昇する。彼の職場の昇任試験が何度受験可能なのか彼女は知らない。彼も言わない。そんなことはどうでもいいとさえ、彼女は思っている。彼女はただ彼に、そのままでいてこの…

いっちゃんとミーコの場合

電話とか返信とかしなくて、いいんですか。そう尋ねると、いいのいいのと彼女はこたえて、どことなくチョコレートとナッツの匂いのする赤いワインをすいすい飲んでいる。年上の女の人にお酒を飲もうと連れ出されるときにいつもそうであるように私は、なんだ…

そして戦争は続く

こんばんは。はいこんばんは。その後いかがですか、おげんきですか。つつがなくやっておりますよ、ところで、もうかけてこないんじゃなかったの。まあそう言わずに、実は新しい仕事が決まったんだ、それでみんなにかけてる。あらまあそれはおめでとう、よか…

どうしてあなたは死ななくていいのか

そのとき彼は動かなかったし、なんにも言いやしなかった。けれども彼はあきらかにどうかしていて、そのことは幾人かの人には自明だった。会議の途中の休み時間で、コールバックしたばかりと思われる電話を、彼は手にしたままだった。誰かが私とあとひとりに…