傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

2012-01-01から1年間の記事一覧

弱者の様式

槙野さんは相変わらずサムライだなあと言って彼は笑った。私は最低限の愛想をいやいやながらに添加した顔を傾けた。私はこの人を好きではなかった。ふだんはたいした接点がなく、親しくもないのだから、崩れたことばを発すべきではない。そう思って、口を利…

その欠落を微分せよ

彼はそのとき彼の欲していたものを理解した。彼は自分のからだがそれをうしなっていかに緊張していたかを感知した。肩こりが治りそうだと彼は思った。世界に生きた人間がいると定期的に言い聞かせてやらないとたぶん僕はだめなんだ。 彼の結婚生活は六年で終…

墓荒らしの量刑

あなたは私に気を許してなんでも無防備に見せている、それが気持ちいいから私にはあなたのことがわかると誇示したかったんだと思う。彼女はそのように話す。とても醜い欲望だよ、許されないのも承知の上で私はそれに負けた。だからしかたがないんだよ。 彼女…

メンテナンスの日

奇数月の最後の日曜日、彼女は友だちにメールを送る。今日なにが食べたい。少し間を置いてそれは戻ってくる。ぱりぱりのパン。あとなんか酸っぱいもの。了解と彼女は書いて送る。友だちがたんぱく質の欲求に鈍いことを彼女は知っているので赤身の勝った牛肉…

幽霊と住む

彼はそのとき高校三年生で、近くの薬科大学を受験するつもりでいた。親戚が市内で小さい薬局をやっていて、僕が資格とったらこの店をおくれよと言ったら、ああやるよと言われたのだ。それに薬科大は家から近い。 薬剤師になろうと思ったのは理数系だったのと…

幽霊を書く

それにしてもあれはほんとうにいい話だったねえと私は言った。それはよかったと彼はこたえた。彼は私にとてもよい話をし、私はそれを自分のブログに書いた。それから、あれは嘘だよと彼は言った。そのほかのもろもろも嘘だよ。 私が何度かまたたきすると、嘘…

あなたの不潔な感情

私たちのメールには赤青黄色の信号がついている。文頭あるいは末尾に。たいていは青だ。本題から一行あけた数文字の信号。たとえば「槙野です。新米おいしい」「羽鳥です。明日から大阪」。OK、私たちは無事に生きている。私たちのやりとりは月に一度か二度…

辻斬りガールと無害でお利口な大人

マキノさんなんでしばらく予約取れなかったのと彼女は言う。予約という物言いが可笑しくて私はすこし笑う。受けたといいたげな顔で彼女は目をぴかぴかさせている。週末の半分は仕事で残り半分に数少ない親しい人たちとの予定をぎゅうぎゅうに詰めこんでいた…

あらかじめこぼれ落ちているものたちのために

彼はなんということもなく、友だちがシェアした写真を観ていた。それはすでに彼の習慣のなかに組みこまれていた。みんな撮るし、みんなアップする。彼は仕事の合間に、妻と小さい息子との食卓が一段落したあとに、通勤の無聊に、それを閲覧した。それらはす…

成就されないことによる愛の非暴力性について

二十二歳の春、彼は静かにそこに落ちた。それは彼に浸透し彼の組成を不可逆的に変化させた。それは痛みのように自明だった。幼児は転んで泣いて周囲からああ痛いんだねと教わるけれども彼はあらかじめそれを本で読んで知っていた。これがそうなんだなと彼は…

高所部の濃密な退屈

私たちは高いところが好きなのでその集まりに高所部という名前をつけた。私は高いところから足元を見下ろして吐き気に似た恐怖で頭をぼんやりさせるのがなにしろ好きだ。インターネットでそのように話すと何人かが熱くそれに同意し、同好の士を集めてガラス…

あなたの上書きを許可する

美しく整えられた取り皿を受け取りながら、こんなことしてくれなくていいのにと私は言う。こんなにいろいろしてもらったら申し訳ない気持ちする、デートじゃないんだし。彼は可笑しそうに、デートじゃなくたってする、とこたえる。彼女じゃなくても、女の子…

私たちはいけすかない

マキノさん今日誕生日なんだよねと上長が言い、はい三十四になりましたと私はこたえた。おめでたいのでビールを飲むと良いというせりふとともにグラスが手渡される。残業していたら上長がああやめ、もうやめ、仕事はやめだ、と宣言し、ふだん話す機会の少な…

正解、正解、正解、正解?

電話を取ると今ちょっといいですかと彼女は言い、相変わらず実に日本語らしい表現を遣うなあと私は思う。発音は完全ではない。あきらかな英語なまりがある。けれども言いまわしはきわめて自然な口語だし、それを用いるシチュエーションを誤ることも滅多にな…

減点式採点の段階的な廃止

同期のアシスタントについた派遣社員がとてつもないということで、愚痴を聞くために集まった。彼女ははため息をつき、あ−、だりー、とことのほか粗雑なものの言いかたをした。あのさあ、持ち上げるのと小馬鹿にするのを両方やるのって、当人の精神が不安定だ…

忌避される愛あるいは憎しみ

扉が勝手にひらいて彼は凍りついた。反射的に目を逸らし不審にならない程度に彼女の目から離れたところ、彼女の右の耳朶のあたりに視線を戻し、儀礼的にほほえむ。彼女はドアノブを持ったままどうぞと言う。オフィスの入り口の扉だから反対側に誰かがいて同…

こっち向いてよ、ねえ、知ってるんだから

子どもってすぐ熱とか出すよねと誰かが言う。まだからだができあがっていないからと別の誰かが言う。私たちは高校の同級生で、近隣の学年がまとまって集まる何年かに一度の同窓会の、大きな会場の隅のほうにいた。いちばん早い時期に子どもを産んだ元同級生…

氷の海の帆船

ひとりで暇をつぶせないやつは僕の友だちじゃないと彼は言う。教養ある人をあなたは好むと私はパラフレーズする。彼が首をかしげるので私は親切に教えてあげる。教養とはひとりで暇をつぶす技術だと言った作家がいたんだよ。お酒が好きで好きで酔っぱらって…

彼女のかわいい女の子

この子こんな顔して仕事はえぐいんですよ。上司が言い上司の上司が笑い彼女もにっこりと笑う。どいつもこいつも顔に言及しないと私の仕事の話ができないみたいだと彼女は思う。顔で仕事をしているとでもいうみたいに。私の顔、眉の薄い目の丸い栗鼠めいた顔…

彼のやさしい男の子

見合いみたいだと彼は思う。見合いになんか行ったことはないし、目の前にいるのは親くらいの年齢の男だけれど。けれどもこの男は僕の釣書を見ているし、交わされるのは表面的な、そのくせえらく計算高い、だから総じて効率的な、そういう会話だ。 彼は彼の上…

彼女の負債と有罪

私たちは空想上の通帳をあいだにはさんで難しい顔をしていた。空想上のでないものをテーブルの上に置くことはなんだかできなかった。安全のためというより違和感のために、私たちはそれができないのだった。にぎやかな駅の前にはほとんど必ずあるようなチェ…

もう手放しで憎めない

育児休暇中の里佳子さんが赤ちゃんを連れてあいさつに来た。赤ちゃんはなにしろ小さかった。小さいねえ小さいねえと言うと里佳子さんは可笑しそうにだって赤ちゃんだものとこたえた。母子の通された空き会議室には入れ替わりいろんな社員が訪れていた。里佳…

満点の女の子

怒ってるの。子どもの声が言う。ごめんなさいと言う。視覚の認知と聴覚の認知の不調和に私は一瞬だけ眉根を寄せ、寄せきらないうちにここには大人しかいないと再度認識する。 私は彼女を見る。大学の遠い後輩で、ちょっとしたできごとのあと、ときどき話すよ…

そしたらそれははじめからない

山口さんとかどう。彼は不意に彼のありふれた名を呼ばれてぎくりと身をかためる。彼らの会社には彼のほかにもうひとり山口がいる。山口さん。視線を感じて彼は不自然にならない速度をつくりそれを追う。それは二秒と少し前に別の軌道に乗って彼の視界を離れ…

感情を外注する

うれしかったのねと彼女は言う。そうだねと彼はこたえる。それからほほえむ。彼女もほほえむ。いやだったのねと彼女は言う。そうだねと彼はこたえる。それから彼らは眉間に皺を立てる。まったく同じ深さで。それが同じ深さになるまで三年と八ヶ月を彼らは要…

talk to me,

たのしそうに聞くねえと半ば呆れた声で彼女は言う。半ばでなくて完全にあきれた彼女の声が私は好きだから細心の注意をこめてばかの顔をつくる。それから、だってあなたの話はたのしい、と言う。完全なばかの声で。 彼女はくいと首を反らして私の好きな顔をす…

くれてやる笑顔と瑣末で効果的な自尊心の折りかた

部署の中に空いたデスクがひとつあって会議室をとるほどでもないときのミーティングスペースになっている。私はそこで今ふたり組で仕事をしている相手と細かな打ち合わせをしていた。少し厄介な問題があることを相手が告げて、困りましたねと私はつぶやく。…

健康で文化的な最低限度の生活のためのスキルセット(案)

昼食を摂りながらほうれん草の冷凍のしかたについて話していると共通の知りあいが通りかかって、年ごろの男女の話題とは思われない、いいぞもっとやれ、と言って去った。私たちは大学生で、大学とアルバイト先が同じで、それぞれひとり暮らしをしていて、自…

悲鳴として悪は成される

喉の詰まる感覚をおぼえて自席を離れた。なにかがときどき彼の喉に発生するようになって数ヶ月が経つ。何を飲んでも流れないけれども儀式めいてなにかを飲む。自動販売機の前で彼は立ち止まる。梅雨冷えの空気に肌が薄く粟立ち、よく冷えた缶が飲み物に見え…

彼女の悪い趣味

彼女は彼を甘やかすのがとてもうまい。彼女は彼の安い欲望の諸相を熟知している。持ち上げて。連絡して。連絡しすぎないで。呼んだら来て。顔色を読んで。きれいにして。安心させて。優越させて。頼るそぶりをして。好ましい内容で。 彼女はそれを軽々とクリ…