傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

想像上のカウンター

 疫病が流行しているのでよぶんな外出を控えるようにという通達が出された。そのさなかにこの町に引っ越してきたので、しばらくは飲み屋に行くこともできなかった。わたしは働き疲れて小さな居酒屋で小一時間飲んでささっと帰るような日が、けっこう好きなのだけれど。

 今日は珍しく灯りがついていた。ドアをあけると、彼は自分のためにいくらかのつまみを盛っていて(あきらかに自分向けの、ラフな盛り方だった)、わたしの顔を見ると、お、と言った。入っていい、とわたしは尋ねた。いいよいいよと彼はこたえた。もうのれん仕舞っちゃったけどさ、残りもんでよければ。
 一人で飲もうと思ったんだろうにお邪魔しちゃって悪いね。いやいや、一人より二人で飲んだほうがいいですよ、そりゃ。そうお、ふふ。なに、今日はこんな時間まで仕事してたの? そう、ずーっとオフィス、もういやになっちゃう、あ、これおいしいな、ねぎのぬたとホタルイカのやつ、酢味噌がいいのよね、自分でやってもこうはならないんだよな。まあね、たいしたもんじゃないけどね、全部食べちゃっていいよ、あと卵焼きでもやるか。
 あー、わたしも飲み屋になろうかな。いやになっちゃった。わたしが言うと彼は背を向けたまま卵をかき混ぜ、その手を止めて、そう、いいんじゃない、もうちょっとあとでもいいんじゃない、と言った。卵焼き器が音を立てる。まあね、とわたしは言う。仕事は好きなのよ、繁忙期に毎日十一時とかになるのがいやなのよ、家でごはん作って食べたいじゃん。

 彼は飲み屋の店主の顔をやめる。そして夫の顔をして言う。毎年この時期になるとそう言うよね。まあほんとにやめたかったらやめちまえばいいんだよ。どうとでもなるよ。おれなんか二回転職してるし。

 わたしたちは疫病下にこの町に越してきたので、行きつけの飲み屋を作ることができなかった。そもそも飲み屋で知り合うくらい、外飲みが好きなのにだ。
 それで開発したのが「飲み屋ごっこ」である。わたしたちが飲みたくなるのはたいてい週末である。金曜日の夜、わたしが先に帰ってつまみの支度をしていると、帰ってきた夫がのれんをくぐるふりをしながら、「このお店まだやってる?」と言ったのがはじまりだ。以来、先に帰ってつまみを作っていたほうが店主役になって、しばらく飲み屋とその客のふりをして話すのである。
 店主のキャラクターや店の規模もなんとなく決まっている。夫が演じる店主は、おじさんっぽい話し方をするがまだ三十代、独身独居、どうやら大学を出たあと会社勤めをした経験があり、そのあと調理師の専門学校に行き直したらしい。実際の夫は会社員を継続しているので、この店主はおそらく夫の「飲み屋でもやれたらいいのにな」という願望をかぶせたキャラクターなのだろう。
 わたしのほうはもっと今現在の自分から離れたキャラクターとしての店主を演じる。年齢を現在の自分よりかなり上に設定し(「将来ほんとにこうなることも可能」と思いたいから)、「さっぱりした気性で、チャキチャキで口が立って、相手によってはちょっと色っぽくなる、そんなおばさんがいいわねえ」などと願望を乗っけている。

 わたしはカウンターにひじをつく。実際にはいつものダイニングテーブルなのだが、今は居酒屋のカウンターなのである。店主はコンロの前でだし巻き卵を皿にのっけている。いい男、とわたしは声をかける。みっちゃんはメシ作ってくれれば誰でもいい男に見えるんだろ、と店主が笑う。わたしたちはふだん互いを呼び捨てにしている。みっちゃんというのは飲み屋での呼び名なのである。そんなこと、ないよ、とわたしは言う。いや、「みっちゃん」は言う。みっちゃんは普段のわたしよりはすっぱで、店主は普段の夫より照れ屋だ。

 亀田くんはさあ、とわたしは言う。ちょっといいなと思う相手にはやたらと親しげにせず、あえての名字に「くん」づけを継続、これがみっちゃんの作法である。おいしいごはん作ってもらえればいいわけ? 
 夫は爆笑する。もう完全に「亀田くん」ではない。相変わらず、やるなあ、と言う。ほんとにね、ナンパがうまいんだから、俺なんかあっという間につかまっちゃったんだから、ときどき心配になりますよ。ナンパなんか、あなたにしかしてない、とわたしは言う。夫はまた爆笑する。ほんとなんだけどな。あんなことは生涯一度きり。わたし、すごく勇気を出したんだよ。
 内心でだけ、そう言う。そしてただ笑う。