傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

成長は自動で訪れない

 疫病が流行しているのでよぶんな外出を控えるようにという通達が出された。そのために多くの学校でオンライン授業が導入されたが、わたしの勤め先の専門学校は比較的早く対面を再開した。
 それでも学生たちの生活に影響が出ないはずはなく、休学や退学は増えている。わたしは学校事務をやっているのでその増加が如実に感じられれる。多くがお金の問題で退学せざるをえないので、わたしも一緒に悲しくなってしまう。
 その中にはびっくりするようなケースもある。

 除籍でいいんだと言っています。わたしはそのように報告した。
 この前の保護者、学生が学校に来なくなったのに面倒見なかったのはどうしてかって怒ってたお母さま、学費払わないって言うから、そうすると除籍になって、今まで取った単位も認められないし、名誉なこととはいえないと思いますよとご説明して、そしたら「除籍は納得がいかない」と繰りかえしていらしたんですけど、事務的な対応に終始していたら「このままでは除籍になると担任の先生に伝えてほしい」というようなことをおっしゃいました。
 担任の先生はわたしの話が終わるのを待ってふうとため息をつき、伝えた、とだけお返ししておいてください、と言った。わたしは話しません。担任教師が保護者に対応する範囲を超えています。

 この先生はふだんは人情派である。今回の保護者が最初に電話してきたときには、なんと一時間もつきあっていた。横で聞いていてもその辛抱強さに感心したものだ。
 それが今回は「話さない」と言う。労を惜しんでのことではないだろう。校長先生が「ここから先は事務的な対応を」と指示したからだろうか。
 わたしがそう尋ねると、担任の先生はそれもありますけど、とつぶやき、それから言った。あのね、それ、いわゆる試し行為ってやつです。そういうのに乗っても何もいいことはないんです。

 試し行為というのは、相手の情愛が自分に向いていることを確認するために自分の危機を示すようなことです。あれですよ、ほら、恋人に「別れるなら死んでやる」って言うみたいなの。自分を人質に取って相手の情愛を確認したいというか、自分が望むリアクションを獲得したい、そういうやつ。
 わたしそういうのって年とったらおさまると思ってたんです。実際聞かないでしょう、十代二十代でそういうことしてた人が、四十五十でまだやってるケース。わたしの友達にも、彼氏ができるたんびにそういうことする子がいたんだけど、あるときすっとなくなった。年とるとけろっとなくなるもんだなーって、感心しちゃいました。
 でもその友達は、恋愛以外のところで成長していたんです。彼女の場合は仕事をする中で人の面倒を見ているうちに、人間が練れてきたのね。自分にばかり関心を向けなくなった。男の人にしがみついてあれしてこれしてと言わなくなったし、認めてほしいばかりに「尽くす」こともなくなった。そうすると彼氏や結婚相手ともうまくいくのよね。そりゃそうよね。
 その精神的な成長や成熟は彼女の試行錯誤と努力のたまものなんです。自動的にやってきたものではない。

 成熟しないまま四十、五十になるとしましょうか。何十年ものあいだ「○○してやる」と脅せば聞いてくれる恋人や結婚相手をキープするのは難しいでしょう。だからね、別の相手に、別の場面でやるの。昔なじみの友達にこう言えば心配してもらえる、自分の親にこう言えば必死になってもらえる、というように。そういうことしてるとまわりからどんどん人がいなくなるんだけど、でもやっちゃうの、そういう飢えた心のままだと。
 あのお母さまの場合は、「おまえたちのせいでわたしの娘が不幸になるぞ」「それがいやならわたしの機嫌を取りなさい」と言っているの。
 あのお母さん、お金ないわけじゃないのよ。娘が除籍になるのを止めるためにわたしたちから連絡してお願いするのを待っているのよ。たぶんそうなのよ。

 先生はそこまで話して、わたしの顔を見た。わたしは信じられなかった。だって、とわたしは言った。自分じゃなくて、娘さんを人質に取っているじゃないですか。そんなのひどいじゃないですか。
 ひどいの、と先生は言った。娘のせいではないからと思って、相手をしたくなってしまうでしょう。あの人、おそらく自覚はしていないけれど、娘を人質にしたほうが有効だと、どこかでわかっているんじゃないかな。
 わたしが黙っていると、先生はちょっと笑って、ただの想像ですよ、と言った。