傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

春の滋養 あるいは老いについて

 疫病が流行しているのでよぶんな外出を控えるようにという通達が出された。それから二年ほどで料理の腕前に磨きがかかった。食いしん坊に外食を禁じたら自炊に力を入れる。自然な成り行きである。
 今年はいわゆる行動制限がすべてなくなったが、料理の腕は残った。年をとって外食はちょっと重いと感じることも増えた。家で好きなものを作って食べるのは快適なことである。ことに春は好きな食材が多い。
 春キャベツと春にんじんの、半ば甘酢漬けのようなコールスロー。新玉葱は生も好きだけれど、オーブンで焼くのが最高。うどはスティック状にしておいて、りんごみたいにかじる。スナップえんどうもゆでただけのをおやつ感覚で食べる。そら豆は皮が黒くなるまでグリルで焼いて、焼いたのが余ったらパスタに入れて、豆ごはんも一度は炊きたい。
 週末は自転車で十五分のところにある大きな魚屋に行っておすすめを買う。今週は白ミル貝である。疫病禍二年目の春に貝をあける道具を買って貝好きが加速した。
 年に一度のお楽しみ、オホーツクの毛蟹の取り寄せは先日済ませた。これは人を幾人も呼んで食べるのが楽しい。全員にキッチンばさみを持ってきてもらって、はじめて参加する人には蟹の殻剝き講座を受けてもらう。みんな春酒を飲みすぎてへろへろになるから、先にはさみを入れておく。この会に毎年参加する友だちがたけのこの下ゆでしたのを持ってきてくれるので、酔っ払わないうちにぱっと煮てつまむ。たけのこごはんは別の日にする。毛蟹パーティでは蟹の殻と昆布のだしで〆のかにめしを炊くから。
 たけのこをくれる友人の親御さんが農業をやめる前には、白菜の菜の花(野菜として売られる「菜の花」用の品種を菜花と呼ぶが、それ以外のアブラナ科の野菜でも「菜の花」がとれるのだそうだ)も譲ってくれたのだけれど、今はなかなか手に入らない。あれを少量のバターで蒸し焼きにして食べるのが好きだった。

 さて、本日は白アスパラガスである。食べ方はおおむね決まっている。シンプルな塩ゆでを、卵・オリーブオイル・胡椒のディップとあわせるのだ(ソテーも捨てがたいが、今のところこれがトップ)。問題はゆで方である。
 毎年のことだが、インターネットで検索する。白アスパラガスの皮はどこまで剝くか。いつ剝くか。ダシがもったいないから剝いた皮ごと鍋に入れたまま冷ませという意見もあれば、ゆでたてをとっとと食えとする流派もある。
 わたしは思うのだが、ヨーロッパの寒いほうの人々は春の訪れが嬉しすぎてその象徴たる白アスパラガスの調理を工夫しすぎているのである。工夫しすぎてオカルトじみている(わたしの平凡な味覚ではわからない違いがあるのだろうけれども)。皮のダシまではもういいんじゃないか。
 そういうわけで豪快に皮を剝いてざっとゆでてばばっと食べる。うまい。でもやっぱり皮のダシも試してみようかなあ。来週もまだ白アスパラガスが買えるだろうか。

 うちにごはんを食べに来る人たちも順調に年をとっている。以前の毛蟹の会では一升瓶があいたものだけれど、今年は二合ばかり残ったのが冷蔵庫におさまっている。一人あたりの料理の量も減らした。昔は宴会中盤に炭水化物をはさんだ上で〆も出していたのだが、今やそのようなメニューに立ち向かう戦闘力は誰にも残されていない。すでに〆の炭水化物が入らない者も、アルコールをほぼ飲まなくなった者もいるのだ。脂気を減らして蕗味噌なんかを出したほうが喜ばれる。
 四十代というのはそういうものなのだろうと思う。

 わたしは想像する。身近にたけのこのあく抜きをやる人がいなくなって、もちろん自分もやりたくなくて、しょうことなしに水煮を買うところを想像する。自分で下ゆですると姫皮を食べられるのにねと、誰かに話すところを想像する。でももうやりたくないわ、億劫だもの。ーーわたしの想像上の老いたわたしは、今のわたしとはちがう、昔ふうの女言葉を遣う。
 わたしは想像する。春になっても豆のひとつも買おうと思わず、自転車を飛ばして遠い魚屋に行くこともない、遠い先の、老いたわたしのことを。
 わたしは言うだろう。もう一生分食べたから、いいのよ。

 わたしは生きる目的とかをあんまり考えたことがない。食って寝るために生きている。動物みたいでちょっとかっこわるいような気もする。でもまあいいやと思う。食って寝るのが楽しみなうちはこんなに楽しく生きていられるのだから。