傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

恋のような湿度と温度

 疫病が流行しているのでよぶんな外出を控えるようにという通達が出された。それから三年、人に会うことに制限はなくなったが、その間についた習慣が消えるのではない。わたしにとってのそのひとつが友人からの通話である。
 わたしたちは中年であり、通信量が事実上無制限になって高品質通話が無料でできるときに青春を過ごした世代ではない。それだから若者たちのように通話をつなげっぱなしにする習慣はないのだが、疫病以降、一部の友人からの通話は長くなった。適応、とわたしは思った。
 このたびかけてきてあれこれかきくどいているのは古い友人である。この人が通話をかけてくるときの目的はおおむねひとつである。

 もういやになっちゃって、つくづくいやになっちゃって、だってあの人わたしが予約したレストランが気に入らないからって不機嫌になるし、だからといってどこに行きたいと自分から言うのではないし、他の誰かに会いたいときには自分で連絡しないでわたしに遠回しな要求してわたしが察しないとやっぱり不機嫌になるし、旅行の手配だって全部わたしがやっているのに些細なことで「やっぱり旅行は好きじゃない」なんて言うし、そりゃ誘ったのはわたしよ、だけど「行動制限も解除されたことだし旅行しないともったいないよね、あなた旅行大好きだったのに行けなくてつらかったよね」なんて言うからさ、連れて行ってほしいのかと思うじゃない。

 彼女はかきくどく。わたしはスマートフォンを冷蔵庫のホルダーにのっけて適当に返事をしながら玉葱を刻む。にんじんを刻む。セロリを刻む。にんにくを刻む。今夜はボロネーゼである。休日の夕方にこの人から通話がかかってくると、やたらとものを刻むメニューをわたしは作る。
 なにしろ話題がだいたい同じなのだ。わたしはただ聞いてそうかそうかと言うだけの係である。手仕事でもしているのが良い。不毛な恋愛話を聞くときにはだいたいそうしているように。
 ただし、このたびの通話の相手はそれを恋愛と呼ばない。たぶん誰も恋愛だとは思わない。わたしも思わない。でも「痴話げんか」としか言いようがないのである。
 彼女の話は続く。

 わたしこんなにしてあげてるのになんて思いたくはないのよ。でもあの人、男にはものすごい気遣いするのよ。また例のパターン、ほら、顔を褒められて好きとか言われると一発でのめりこんじゃうやつ、相手に彼女がいるか結婚してるかどっちかのやつ、もののわかった二番目の女になるやつ、相手の男にはぜったい文句言わないでいい子にしてて面倒かけないでにこにこしてるやつ、プライドないのって思う、それでわたしの扱いはこれよ、もういやになっちゃって、ほんとにいやになっちゃって、ねえあの人、クズ男に向ける気遣いの千分の一でも、わたしに向けたことがある? ないよね? ねえわたし文句言っていいよね?

 言いなよ、とわたしはこたえる。でもわかっている。文句を言うときでさえ彼女はその人にすごく気を遣う。察して先回りして気分を悪くさせないように振る舞うフレームから抜けることを考えもしない。自分の夫には率直にものを言うのに、特別な女友達にはぜったいにそうしない。
 わたしは思うんだけれど、彼女と彼女の愚痴の対象である女性はとてもよく似ている。恋のような湿度と温度を持つ相手には徹底して利便性の高い存在のように振る舞い、そうでない場所に「遠慮しなくていい用」の人間を確保している。神みたいな相手を作ってその神殿に供え物を積み上げ、不満を募らせ、同時に自分の感情の特別さを称揚し、とても美しく高尚なものとして扱う。
 一度なら事故、二度目以降は癖、とわたしは思う。神のような相手を作る人には神を必要とする何かがある。「上」の存在を必要とする心。神がセックスの対象かそうでないかも決まっていて、それもその人の心の何かが反映されているのだろうと思う。
 そこまで類似していると、もうぜんぶ「恋」でいいような気がしてくる。神のような男に仕えるヘテロセクシャル自認の女も、神のような女に仕えるヘテロセクシャル自認の女も、みんな恋をしていると思えば、なんだか納得するのである。

 ボロネーゼを煮る。わたしのボロネーゼソースは通常のレシピの二倍の香味野菜が入っていて、たっぷりの挽肉を揚げ焼きにして焦げ目をつけてから煮込む。「わたしの野蛮なボロネーゼ」と呼んでいる。

 もう別れたら、とわたしは言う。別れるって、と彼女は笑う。恋人じゃあるまいし。