傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

マスクを着ける要件

 疫病が流行しているのでよぶんな外出を控えるようにという通達が出された。それから三年あまり、世界的な緊急事態宣言が解除され、日本でも他の感染症と同じ扱いになった。この数日のことである。

 それでわたしはマスクを観ている。人々がどのようにマスクを扱うかを観覧している。それで何をするというのでもない。急速に広まった習慣の急速な変化は何かをあらわしているようで興味深いという、ほんとうにそれだけの理由で見物している。
 もちろん、疫病はなくなったのではない。今後もばんばん感染の波が来るだろうし、今日も人がたくさん死んでいる。しかしそれが長期化し、ワクチン接種などの対応がひととおり整えられ、しかも根絶できるようなものでもないので、日常に組み込まれたと、大雑把に言えばそういうことである。
 こういうとき、人は左右を見る。きょろきょろする。そして自分のマスクをどうするか決める。疫病に関する科学的な事実に変化はないので、どうするかを決めるのは「気分」である。その気分を決めているのは、きっと疫病前からある何かである。わたしはそれを観覧している。

 人混みでなく、誰かと話さないのであれば、屋外ではマスクをつける必要はない。感染症対策としては流行当初から一環してこの事実があり、この一年ほどは政府もそのようなアナウンスをしているのだが、それでも最近までは、マスクをつけていることがデフォルトだった。わたしは疫病流行当初から、人混みでないところをただ歩くときにはマスクを外すので、それを目撃した同僚から「マスクつけたら」と言われたことがある。「変な人に絡まれてもいやでしょ」とその人は言った。とくに女性はそうした目に遭いやすいとのことだった。
 さもありなん、とわたしは思った。弱者はしばしば「ルール」「マナー」を厳密に守れというプレッシャーをかけられる。なんなら弱者専用の「マナー」もいっぱいある。国会議員は屋内でマスクを外してカメラの前をうろうろしてもよく(疫病下ではしばしばそうした姿がテレビに映った)、わたしは二メートル以内に誰もいない道端でも外してはいけない。
 こうした不思議な「許される」「許されない」という感覚を、わたしは「被客体化感覚」と呼んでいる。マスクにかぎらず、その人が感じる「許されない」事項が多ければ多いほど、その人は他人の基準に合わせて生きている、すなわち決める側でなく決められる側にいる。わたしはそれを弱者と呼ぶ。
 マスク着用要件そのいち。相対的に弱者であること。

 わたしの勤務先近辺のエリアには公的な団体の建物が多く、いわゆる堅い仕事の人々が行き交っている。そういうところではどうやらマスクをしたままでいることが良しとされている。みんなずっとつけているし、ここ数日も外している人をあまり見ない。
 一方、週末に歓楽街に出かけると、行き交う人はけっこうな割合でマスクをしていない。酔っぱらいはとくにしていない。こみあった街中でマスクを外して話している相手に身体を近づけて大声を出し、笑う。自宅近辺は勤務先近辺よりいくらかマスクなしが多い。歩くときにはつけず、またはずらしておき、商店などに入るときにつける形式が定着している。
 マスク着用要件そのに。「きちんとしている」こと。

 ところがこの世には職業上の理由でマスクをつけたくてもつけられない人もいる。対面サービス業でお客と話をする(つまり感染リスクがある)のに、「接客にあたっては笑顔が大切だからマスクを外すように」との指示があったりするのだそうだ。
 個人の判断でつけるつけないを選べるときにも、対面での会話においてマスクを外すのは感情を見せたいときである。この感情が売り物になることもある、ということなのだろう。
 わたしもこの三年間、感情をより伝えたいとき、かつ相手が外しているときには自分もマスクを外すことがあった。家族の前ではもちろん外しっぱなしである。親密な相手の口元がずっと見えなかったらきっとすごくさみしい。ある種の感情的交流は感染リスクより重い、とわたしは思っているのだろう。
 マスク着用要件そのさん。感情をより強く詳細に伝える必要があること。

 疫病はこのまま流行しつづけ、人が毎日死ぬだろう。人々はずるずるっとマスクを外すシチュエーションを増やすだろう。わたしもそうするだろう。そのよん、以降の要件が出てきたらメモしておこう。