傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

缶詰課長の巨大な欲望

 疫病が流行しているのでよぶんな外出を控えるようにという通達が出された。それから三年たった春、給湯室に「缶詰課長」の段ボールが復活した。

 缶詰課長は総務課の課長である。もちろん本名ではない。年のころなら四十路の半ば、若いころ老けて見えるタイプのようで、わたしが入社して以降、十年ほど同じような容貌のままである。元陸上選手で今でも走るからか、中年太りには縁がない。
 缶詰課長は常時半袖である。体温が高いから、というのが本人の言で、ほとんど一年中、襟のついた半袖の、ネイビーブルーのシャツを着て、来客対応や上司との面談があるときにだけスーツを着用する。ジャケットの下はもちろんいわゆるワイシャツである。課長はよほどそれが嫌いらしく、来客が帰るとわざわざ手洗いで着替えて戻ってくる。いつもの服はシャツを七枚、パンツを四枚、スーツは二セット、それぞれ同じものを買うのだと話していた。
 それだけ聞くとスティーブ・ジョブズみたいでちょっとかっこいい。でも彼のあだ名は缶詰課長だ。毎日缶詰を食べているからそう呼ばれているので、かっこいいとは言いがたい。
 彼はランチに出ない。おかずの缶詰と「サトウのごはん」を箱買いし、デスクでそれを食べている。自宅で妻の作る栄養豊富な食事をとっているから、昼はそれで問題ないのだという。
 総務課のメンバーは毎日缶詰ランチを目撃しているので、飲み会では課長の前に肉や野菜を置く。お地蔵さんのおそなえみたいである。課長は延々とそれを食べる。飲みものはコーラである。課長は二時間の宴会で三杯のコーラを飲み、酒を飲んでいる人間より楽しそうに話す。

 わたしは課長は欲のない坊さんのような人なのだと思っていた。彼は異例の若さで課長になり、上にも下にも評判がよく、家庭にあってはまめに子育てをし、犬のように走って、夜はよく眠る。先輩からそのように聞いた。先輩はやや呆れた口ぶりで言った。要するにすごく「いい会社員」「いいお父さん」なんだよな、ちょっと変だけど。欲しいもんとか、ないのかね、あの人。

 疫病流行以来はじめての総務課飲み会が開かれた。課長は相変わらずで、余ったわかさぎのから揚げをわりわり噛んでいた。余ったのじゃなくて新しいツマミも食べてくださいよとわたしは言った。食べてる食べてると課長は言った。でもわたしが見るところによると、課長は「あるものを食べている」のである。
 そう指摘すると課長は笑い、あるものを食うのが習い性で、と言う。飲み会でコーラを飲んでるのも酒が飲めないからじゃなくて、飲まないから。飲んだらぜったいろくなことにならないと思ってるから。

 課長は大学生のころ、「このままいくと破綻する」と思ったのだそうだ。上京、一人暮らし、大学生、奨学金、アルバイト。お金はそんなにない。でも高校生に比べたらはるかにある。そして周囲はだいたい自分より裕福で、いろんな遊び方を彼に見せた。
 あれもこれもいいなと彼は思った。楽しいなと思った。かっこいいなと思った。いくつかに手をつけて、彼は悟った。だめだ、楽しすぎる。頭ふわーってなる。優先順位を決めて箍を填めないとおれはあっというまに夜遊びと旅行と買い物でカネを使い切り、コレクションかギャンブルかアルコールか女の子か、あるいはその複数にどっぷりつかって、大量に借金して、人生がだめになる。

 そう思って箍を填めたわけ、自分に。たとえば昼メシは缶詰にするみたいな箍を。
 課長はそのように語り、わたしはたずねた。おいくつの時ですか。課長はこたえた。はたち。

 若すぎる。いっぺん破綻してもどうにかなる年齢である。
 いやおれは破綻したくないので、と課長は言う。「普通」より手前で人工的に贅沢を区切らないと滑るように破綻する。おれはそういう人間で、そういう人間が「まとも」を指向したら、こうなる。どっかの王子さまなら、二十代のあいだじゅう箍を外してもいいのかもわからないけど、おれは田舎の庶民の子だからね。

 総務課では週三回の出社と二回のリモートワークが定着した。それにともない、フルリモートの時期に姿を消していた課長の缶詰段ボールが復活した。Amazonから直接会社に送られてくるのである。
 わたしはその段ボールを見ながら、ゴーダマ・シッダールタについて考える。子どものころ読んだマンガによれば、ブッダは王子さまとして生まれ、あらゆる贅沢を手にし、それに倦んだあと苦行に入り、苦行も意味ないなと思って悟りを開いた。坊さんみたいな人って、欲が強いからそれを怖れるのかもしれない。