傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

僕の目下の男

 疫病が流行しているのでよぶんな外出を控えるようにという通達が出された。それから三度目の冬が来て、僕はつくづく「目下の男」のありがたさを実感しているところである。

 「目下の男」というのは、僕が特別仲良くしている同性の友人を指す。僕の以前の彼女がつけた名前で、わりと気に入っている。単にいちばん仲が良い友だちというだけでないニュアンスがあるんだけど、うまく言えない。
 僕には同性愛の経験はない。「女の子と恋愛をしたことがある。でも男女両方が色恋の対象になる可能性をナシだと決める理由はない」と思って素敵だなと思ったゲイの男性とデートしたことはあって、でも女の子みたいに好きになることはないなと感じた。たまたまその人と恋に落ちなかっただけかもしれないけれど、まあともかく、今現在までの僕は異性愛者男性ということになるんだろう。
 「目下の男」も恋愛の対象ではない。性欲とか独占欲とか、身体が近しい感じとか、甘えたい感じとか、自分が相手にとって最優先であってほしい感じとか、そういうのがない。
 それでも「目下の男」は他の友だちとは違う特別な相手だ。よく「きょうだいみたいだね」と言われる。でも本物のきょうだいよりよく会うし、よく話す。そしてそれが当然だと感じる。ちょっとした頼みごとをよくするし、される。ちょっとしてない頼みごとも必要になったらすると思う。相手の役に立ちたい気持ちと頼りにしたい気持ちが強くある。そいつの前で僕は油断していて、リラックスしていて、でもときどき格好つけたくなる。僕はそいつと仲良くなることに苦労しないし、そいつも出会ってすぐのころから僕を特別扱いする。
 それが僕の「目下の男」である。
 「目下の」がつくのは、僕の人生にはしばしばそういう男がいて、そして季節が変わるように相手も変わるからである。永遠の存在ではない。だから「目下」。

 保育園のときからすでにそういう相手がいた。小学校に入ってすぐ交代して、その子と五年生くらいまで続いて、六年生は少し孤独、中一から中三にはまた別の同級生と仲が良く、高校一年から二年まではすごく孤独だった。高三で出会って大学を出るまで仲が良かったのは予備校で出会った男である。
 「目下の男」がいないとき、僕はとてもさみしい。彼女がいないときより、ずっとさみしい。彼女はいたら楽しいけど、いなくてもわりと楽しくて、どうかすると何年も平気で彼女なしで過ごしたりする。でも特別に仲の良い同性の友だちはいつもいてほしい。
 そういうのってみんなにはないんだろうか。

 僕は同世代の男の集団がちょっと苦手だ。同じ集団でもいろんな人がいればOKで、女の子とか外国人とか、十歳以上年が離れた人とか、そういう別の属性を持つ誰かがいたほうがラクにおしゃべりできる。
 競争は嫌いではない。職場で業績を争うのとかは得意なほうだ。でも同性代の男同士の、くるくる移り変わる微妙な力関係みたいなのをうまく乗りこなせない。その中でえらそうな顔してるやつを好きになれたためしがない。
 そんな人間を見つけて良くしてくれるのが、たぶん僕の「目下の男」なのである。
 僕の「目下の男」たちはみんないいやつで、勉強や仕事ができて、顔かたちも整っていて、同世代の男たちからも好かれるほうなんだけど、でもきっとどこかで集団に飽き足らなくて、一対一の友情を必要としていて、それで僕を選んでくれるんじゃないかと思う。

 現在の「目下の男」とは、就職のために東京に出てきてすぐ、趣味仲間の紹介で知り合った。お互い海外旅行が好きなんだけど、疫病のために行きにくくなったので、腹いせのように互いの家によく行き、隙を見て国内旅行をした。
 このたびそいつが疫病流行以来初の海外旅行を敢行する。そうして、現地で今の彼女にプロポーズするのだそうである。めでたいことだ。彼女もとてもいい人で、二人の結婚が楽しみである。
 楽しみなのだが、結婚しても僕と遊んでくれるだろうか。

 僕はそれがちょっと心配である。ライフステージが変わると友情も変化するというからねえ。僕もう全然、料理とか子守とか得意だし、だから彼らに子どもができて忙しくなったらサポート部隊として名乗りを上げるつもりだし、きっと役に立てると思うんだけど。

 でももしかすると疎遠になってしまうのかもしれない。特別でない、たまに行き来するだけの、普通の友だちになるのかもしれない。それはそれでしかたのないことだ。何しろ彼は「目下の」男なのだから。