傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

人生のピットイン あるいは老いについて

 疫病が流行しているのでよぶんな外出を控えるようにという通達が出された。それから三年あまり、わたしの「ピットイン」はほぼ完了した。

 三十歳とか三十五歳とか四十歳とか、節目の数字で自分の年齢について考える人が多いようだ。人間は成長期を終えたらずっと老いているので、どこかで区切らないと老いに向かい合いにくいためだろう。
 わたしはそのように節目の年に考える戦略を採用していない。わりと激務が好きなたちなので、いざ節目の年になって「このように変わろう」と思ったって仕事がそれを許さない。それでイライラするくらいなら、仕事の区切りに人生を変更したほうがよい。わたしは資格職を選んだので、年単位で計画すればそれが可能である。若いころは転職したし、疫病流行下では事務所の共同経営者になった。遊びに行くのも不自由な状態が続き、リモートワークなども可能になった(わたしは書類を見るために出勤してたけど)。
 よし、とわたしは思った。ピットインだ。

 わたしは体力には自信があるほうで、三十代半ばで屋久島の縄文杉コースを歩き、その翌日に太鼓岩コースを歩いた。その程度には身体が強かったのである。しかし四十過ぎたら「もうああいうのはしんどくってできないだろうな」と思うようになった。同時に徹夜がほぼできなくなり、集中力が落ちてきた。身体にもしまりがなくなってきた。単に太るのではない。体重が同じでも、たゆん、としてくる。そして少しずつふくらんでいく。
 たゆん、としてもまあいいやとは思う。それはそれでかわいい。わたしは自分のことをだいたいかわいいと思っているのんきなやつである。
 しかし、ものには限度がある。二十歳のプロポーションに戻りたいとは思わないが、無防備すぎるのもどうかと思う。筋力をある程度維持しないと快適な老後を迎えることもできない。
 筋力以外にもあれこれ衰えてきている。ずっとお世話になっている美容師が「おお」と言うくらい、短期間に白髪が増えた。「産後にばっと出る人なみの増え方」とのことだった。更年期を前にホルモンバランスが変動しているのだろう。バイオリズムによる変動もやけに大きくなって、こちらはほぼ病気の域と思われた。老眼もはじまった。
 わたしはリストを作る。仕事を減らしてでも生活に加えるべき項目を連ねる。食事の見直し、飲酒回数の削減、睡眠時間の確保、筋力トレーニング、歩数確保のための通勤ルートの変更、婦人科と眼科の定期検査、現在の体形をひきたてる服装の開発、白髪をきれいに見せるヘアスタイルの確立、スキンケア用品と化粧品の更新。

 ぱっとしない、とわたしは思う。どれも堅実で有効な施策だ。年単位で見れば相当変わるだろう。しかし、それはそれとして、もっとこう、劇的なやつもやりたい。身体改造をしたい。

 わたしはピアスホールを増やす。わたしは十八から十九にかけて合計三つのピアスホールをあけ、化粧をしない日にもピアスはつけるという生活を送っていて、それはおしゃれというより呪術的な意味合いのもので(護符をつけたような感覚があるのだ)、それを増やすことにした。軟骨にあけるのは痛そうなので、耳たぶの薄い部分の、今までの穴より上のほうにあけた。
 わたしは婦人科で相談してホルモンバランスを調整する。ホルモンを発する器具を入れておいて変動を減らす方法にした。これはわたしの体質に合っていたようで、非常に快適だ。定期的に器具を入れ替え、そのままぬるっと閉経までもっていくつもりである。
 わたしは眼科で相談し、目の中にレンズを入れる手術を受ける。ずっと強度の近視で、うっすらと乱視があり、その上老眼がやってきたので、思い切ってやってしまうことにした。高額な施術だが、やってよかった。なにしろ快適だ。それに、眼が悪いというのは生物としてなんとなく弱い気が、ずっとしていた。

 つまり、とわたしは思う。わたしは強くなりたいのだろう。弱いのがいやなのだ。年をとって弱るのは当たり前だけれど、できるだけ強くいたいのだ。
 職業上はどんどん強くなっているし、精神の安定も右肩上がりである。年をとって強くなった部分はキープ、弱くなった部分はそれなりに鍛えながら折り合いをつけていく。そのためのピットインである。

 やれることはほぼ済ませたあたりで、行動制限が緩和され、マスクの着用も任意とされた。わたしは新しい目標を定めた。六十五までフルで働き、七十までゆるやかに働く。趣味の旅行も再開して、気になっていたダイビングの免許を取る。