疫病が流行しているのでよぶんな外出を控えるようにという通達が出された。それから三年、大学の授業はほぼ対面に戻る。なし崩しに制限のなくなった生活の中、感染症は再流行するだろう。社会での扱いが変わったからといって病気がなくなるわけではない。死ぬ人がいなくなるのではない。後遺症がなくなるのではない。もちろん。
しかしそれはそれとして大学に学生がいっぱいるのはいいものである。新学期、とわたしは思う。
研究業界の就職のしんどいことはインターネットでもよく言われている。それでもわたしは自分が期間の定めのないアカデミックポジションを取れる確率は八割と踏んでいた。抜きん出た才覚や業績があるからではない。研究者としては並である。
わたしはいわゆる教育大学で要求される多様な仕事をこなすことができるし、「こんなの自分の仕事じゃない」とか思うことがなく、必要ならハードな交渉をする。「これ教えられますか」と言われればハイハイと勉強して翌年度から授業する。北海道から沖縄まで引っ越しOKだし、山の中だろうが都心だろうが文句なく着任する。だからまあアカデミアのはしっこのほうでやっていけるだろうと、そう思っていた。
小さな学校法人で大量の授業を担当しつつ雑務に走り回り、夜中に自腹で研究しながらときどき科研費の小さい予算を取ってしょぼしょぼと論文を書き、ぱっとしないまま定年までやっていく、そんな教員になるだろうと思っていた。そういう人生はわりと楽しそうだなと。
しかし現在のわたしは、複数の職場を経てほどほどのブランド力のある大学でテニュアを取り、昇任を済ませ、科研費もずっと持っている。予想外である。スーパーラッキーである。ずっとスーパーラッキーなまま労働している。
そのあいだにけっこうすごいことも言われた。女性だからポジションがもらえて、とか、何採用ですかとか(何って、公募である)、要するに「お前はどんな小ずるい手段で過大な評価を得たのか」というようなことを、複数回言われた。
気持ちはわからなくもない。自分より劣っていると感じる人物が自分より良いように見えるポジションを得ていたら気分が悪くなることもあるだろう。
でもアカデミックポジションは研究能力がすぐれているから手に入るのではない。この業界のマッチングは求人ごとに細かく異なるから、自分よりマッチ度の高いライバルが応募したら、自分の方が論文本数を積んでいても負けである。業界内では「書類を見たらすばらしい候補がいて絶対採用だと思っていたのだが、面接の結果とんでもない人物だということがわかり、別の凡庸な候補が繰り上げ当選した」というような話も聞く。一定の水準を超えたら、採用は運とタイミングなのだ。
いつもはそう思っている。でもときどき、なぜ、と思う。たまたまだとわかっていてなお、思う。たとえばわたしよりずっと研究能力があったのに心が繊細でプライドが高くて就職に苦労して業界を去った友だちの写真が出てきたときなんかに。
わたしよりあの人が残ったほうが有益だった、と思う。そのほうが正しい、と思う。わたしがここにいることは相対的に有益でなく、相対的に正しくない。そう思う。
自信なんかいつだってない。ただ、わたしには、自信がないから動けませんと言って立ち止まることのできる環境が与えられなかった。死にたくないから動いていた。それだけのことである。それだけの人間だから、わたしはときどきさみしい。相対的に無益で、相対的に不正だから。
そんなとき、わたしは蟹座のことを考える。
少女のころにギリシャ神話の本を読んだ。自分の星座のお話はどんなだろうと思ってページをめくると、「英雄ヘラクレスに踏まれたカニが星座になった」と書かれていた。よく戦ったのかと思ったらそんなことはなく、ただ踏み潰されただけだった。
踏まれたカニ。
なんで、と少女のわたしは思った。十二個しかない星占いの星座ポジションの一つが、踏まれたカニて。よそにまだなんぼか見栄えのするもんあるやろ。
でも踏まれたカニはずっと蟹座をやっている。少女のころのわたしのような人間に「いやあんた踏まれたカニて」とかつっこまれながら、文句も言わずにやっている。立派なことである。わたしはそう思う。蟹座の自分も蟹座のように働こうと思う。
学生たちのマスク越しの笑い声が響く。自分を踏まれた蟹のように思う学生はときどきいる。そういう学生に気づいたら、蟹座の話をしようと思う。