2010-02-01から1ヶ月間の記事一覧
職場のアルバイトの学生が就職活動をするというので、休み時間に、どういう業界を受けるの、と訊いてみた。彼は責任感が強くてきちんと仕事をこなす有能なアルバイトだ。他人の状況をこまやかに理解してサポートしてくれる。 彼の見た目はなんというかたいへ…
陽が落ちたので、もう夜ですねと私は言った。そうですねと彼は言い、夕暮れの色は複雑ですねえ、もうすっかり暮れているのに少し色が残っています、空がみんな夜の色にならないと夕暮れが終わらないような気もします、と続けた。 彼はそれから、何時からが夜…
本を作る人のことを考えたことはなかった。 本を読むということに関して、私はたとえば、南の島のわがままな王さまだった。小さい島をてくてく歩き、そこいらになっている果物を物色してもぐもぐ食べ、気に入れば食べつづけて、少しでもひっかかるところがあ…
演奏が終わってしばらくすると、彼は私たちの席に立ち寄った。私をその場に連れてきた友だちは彼にあいさつをし、彼に私を紹介した。友だちはカメラマン、彼はトランペットを吹いたり、曲を書いたりして暮らしている。ふたりはいかにも友人同士らしいくだけ…
ところで、しばらく休暇を取ろうと思ってね、と彼は言う。私はびっくりした。人間としての限界まで働き続けている人だったからだ。 「一段落したんだ。だからしばらく休暇をとって、ひとりで旅行してこようと思う」 彼は何秒か黙る。私は待つ。 「ちかごろ仕…
なにか習いごとしてた、と訊かれて、少し考えてから答えた。近所の住職がボランティアで書を教えてて、毎週通ってたよ、住職は卒塔婆にかっこいい草書を書いててすごいと思ったよ、なんかくねくねしててきれいなの。 彼女はちいさくため息をついてから困った…
何年か前に、骨伝導の音声デバイスを試すための実験を手伝った。携帯電話と接続されていて、相手の身体に直接音声が伝導され、とても近しく聞こえるというしくみだった。 実験者は親しい相手と一組の被験者を集めた。私が手伝ったときには、二十代半ばの男女…
誰かと映画にいきたい、というメールを受けとって、『(500)日のサマー』を観にいった。彼女と会うのは五年ぶりで、もともとそれほど親しいわけでもない。なんで私と映画に行くんだろうと思って、家族と出かけたりしないのと訊いた。 あんまり、と彼女は言…
簡単に穴ぐらに入る熊であるところの彼は、大勢がてんでに話す宴席でペースを乱さずに食事を続けている。彼はぼんやりしているといえば、ぼんやりしている。観察しているといえば、観察している。周囲の話にも加わるし、一対一でも話す。少なくとも不機嫌そ…
彼はつるりとした、フィルムのような瞳をしていた。見たところ四十代後半だけれども、予備知識によればそれよりひとまわり年上のはずだった。だから彼はある側面では老境にさしかかっており、でもそのつるりとした瞳には、大人らしい思惑や警戒心や洗練や保…
仕事の関係者との飲み会で、共通の知りあいの話になった。私はその女性がたいへん好きで、「あの人、綺麗ですよねえ。私あの人が来る会議がたのしみなんですよう」と言った。そうしたら、そこにいた旧知の男性からあきれられた。 「昔から不思議なんだけど、…
彼女は四十一歳になった。彼女はカメラマンで、ふたりの後輩を指導しながら、現場でカメラを回している。回すというのは動画を撮るときの表現で、静止画のカメラマンのことはよくわからない、と彼女はいう。 職業的にカメラを回すというのはどういう種類の経…
会社づとめの中年男性に多いんだけれど、高笑いというのか、大きい声で笑いあう人たちがいる。とくに可笑しい場面じゃなくても、示し合わせたように笑う。たいてい管理職で、特徴のある言葉づかいをし(「まあそこはよしなに」とか「戦略的にいきましょう」…
人間ドックに行ってきた、と彼女は言った。私は行ったことがないので、どんな感じのものなのか教えてもらった。 ひととおり話したあと、でも私えらいわあ、と彼女は言う。 「だって注射針がすごく怖いのに、強制力のない健康診断を受けたんだから。夫がうる…