傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

身も蓋もない家事の話

 家事分担って、揉めるんだってさ。
 わたしがそのように言うと、夫は完全に他人事の顔で、なるほど、インターネットでもよく話題になるね、などと言った。うち、揉めないじゃん、なんでかなと思って。わたしが訊くと夫は戯画化された西洋人のように肩をすくめ、そりゃ、あなた、八割は子どもがいなくて二人とも健康状態が良好だからですよ、と言った。シンプルに家事の総量が少なくて助けを必要としている人間がいない。将来高齢者になったら揉めるかもわからない。
 それから小さい声で言った。残り二割の話はね、反感買いかねないからおれ余所ではしないんだけどね、カネと能力の問題だと思ってるから。

 「カネ」は金持ちかどうかじゃなくて、家事に課金するかどうかってこと。おれあなたが何かあったとき速攻カネで解決するのわりと好き。かっこいいと思う。ふだんけちだからよけいに。こないだロボット掃除機が壊れたときだって、おれが探してきた10万の掃除機、平気で買ったじゃん、家計で、つまり一人あたま五万で。家具家電の買い替えプールがなくなったところで壊れたから、臨時支出で。あれ、片方が「二万の非ロボット掃除機にして手で半分ずつ掃除しよう」って言い出したらめちゃくちゃ揉めるよ。もうね、愛とか関係ない。揉む。率先しておおいに揉むねおれは。
 つまり双方が数万円程度の臨時支出を許容する稼ぎがある上で、「出す」と判断しているから揉めない。二人とも全自動洗濯乾燥機フル活用だし、その電気代をとやかく言う人間はこの家にはいない。
 カネがもっとうんと少なかったらスペースも減るから、そこもポイントかな。うち、リビングの棚いっこまで、どちらかのもの、または共用、って決まってるよね。共用の部分はなんとなくルールができてるし、相手の部分には口を出さない。これもカネで解決してる系の問題だと思う。口を出さないのは人格の問題でもあるけど。でもまあ自分にとって人格が好ましい人間と一緒になるのは当たり前のことだからなあ、あんま考えてなかった、そのへんは。
 あとは能力。
 家のことでどちらかしかできない部分がない。これはでかい。家計管理、契約や事務手続き、家具の組み立て、スマート家電の設定、引っ越しの手配、あれやらこれやら、住居を確保して生活を成り立たせるすべての仕事について、どちらかしかできないことはない。どちらかのほうが得意なことはあるから、やってあげたりやってもらったりはするけど、それはまあ、あったらうれしいプレゼント、みたいなもんじゃん。
 料理については、おれの生まれた家の影響はあると思う。父母双方の祖父母の代から家族全員料理すんの。食いしん坊の家系で、自分が食べたいものは自分で作るという意識がある。未成年に晩飯を提供するのは、たとえばいつもは母親がやる、父親がやることもある、で、弁当は基本父親、とか。おれなんか高校生のとき中学生の弟に土曜日の昼飯作ってもらってたからね。練習がてら予定がない週は基本やるって言うから、ありがてー、って。
 何か難しいこと考えてやってる人間はあんまいなくて、なんだろ、なーんも考えずに人間が寄り集まって暮らしてみんなで楽しくやっていこうと思ったらそうなった、って感じ。病人と年寄りは体調と相談、子どもは遊んでろ、興味があったら教えてあげよう。作ってもらったら喜んで食って皿を洗え。これがうちの「なーんも考えてない」なんだけど、外ではそうじゃないところも多いって知ったの、わりと大人になってからなんだよな。正直びっくりした。
 あと調理者は調理プロセスで使用したすべての道具を原状復帰するのが当然だというコンセンサスがある。食材調達、調理器具の片づけ、残った食材の管理までを調理者がやるのが当然で、できないのは「料理を教わっている途中の子ども」なわけ。たとえば大人が勝手に食材使ったり片づけが甘かったりしたら、ちょっとびっくりして「何かあった?」くらいの感じ。
 あなたはやたらと料理がうまいし、作り終わった段階で台所がきれいなんだから、そりゃ揉めない。揉むポイントがない。「見守る」という考え方も理解できはするから、料理がぜんぜんできない女の子と結婚したとしてもすぐに揉めるってことはなかったかもしれないけど、でも、かなりのストレスだっただろうなあ。もちろん、意思表示と合意形成の能力がないとどうにもならない。
 結局「能力がある」という身も蓋もない話になっちゃうから、外ではあんまり話さないんだよね。逆にカネですべてを解決してて、うちみたいなのは「貧乏でかわいそう」と思ってる家もあったりするだろうし。

タマのこと

 タマは近所の猫である。ムギとクロという二匹の同居猫と一緒に暮らしている。緑がかった灰色の目の、非対称のハチワレの、小柄で静かな猫である。夕刻になると、白髪をゆるやかに編んだ、緑がかった琥珀の瞳の、どことなくタマに似た女性が、猫たちに家の中から延びるリードをつけて引き戸をあける。すると猫たちは建物の外の線状の敷地に出てしばらく過ごす。敷地と道路の境目はあいまいで、道路には車通りがほどんどない。
 わたしは犬を飼っている。四歳の雌の柴犬である。タマ家の前はこの犬の散歩エリアに含まれる。ひとつの散歩コースを好む犬も多いと聞くが、わたしの犬にはまったくそのような性質がなく、わたしがコースを決める日以外の散歩では、自宅から直径五キロ範囲の道路を制覇するかのように毎日ルートを変える。その中にタマ家の前の道路がある。わたしの都合で猫たちが出てくる夕刻に散歩する日は少ないのだが、犬はその機会をのがさず「今日はこちらに行きますよ」と意思表示する。
 わたしの犬は猫をたいそう好きである。じゃれつくとか獲物として狙うとか、そういう「好き」ではない。猫を前にしたわたしの犬のようすは、アイドルファンの友人いわく「アイドルの握手会に来たオタク」だそうである。相手が許すギリギリの距離までそっと近寄り、うっとりと眺める。
 すべての猫はこの犬のあこがれの生き物なのである。ときどき遭遇する地域猫からは会うたびに威嚇されているが、この犬は相手が威嚇した段階でぴたりと止まり、おすわりして威嚇を拝聴する。ふだんはソファに寝そべっている飼い主を踏んで自分の席を確保するような図太い犬なのだが、猫ちゃんの前ではたいへん繊細な気遣いを見せる。
 そのようなわたしの犬であるから、タマのことはそれはもう大好きである。もちろんムギもクロも好きなのだが、タマは気が向くと犬に鼻を寄せてくれるほど(猫としては例外的に)犬が嫌いではないのだ。犬はたいへん嬉しそうに、慎重に自分の鼻を差し出す。差し出す勢いが強すぎるとタマは猫パンチのそぶりをする。すると犬はあわてて身を引き、きわめて恐縮したようすを見せる。でもその場を離れようとはしない。帰るときはわたしにリードを引かれ、振り返りながら不承不承歩く。アイドルファンの友人は「引き剥がされている」と言っていた。
 白髪の女性の説明によれば、ムギとクロはフリでなく、本気で猫パンチをする。彼女はわたしの犬を撫でながら、犬に向かって話す(動物好きはしばしば、動物が言語を解さないと承知の上で、動物に長々と話しかける)。ムギ、クロ、猫パンチ。わんちゃんより速い。シュッ。痛い。血が出る。わかった? ムギクロにはこれ以上近づかないのよ。そこにいるぶんにはOKみたいだから。
 犬はおすわりして幸せそうな顔で猫たちを見ている。

 わたしも猫ちゃんを好きである。世間には「犬派」「猫派」などという区分もあるようだが、わたしにはぴんとこない。「猫ちゃん」の発音が「ン゙ン゙ン゙猫ちゃぁぁぁん」になるくらいには好きである。猫を飼っている友人もわたしの犬をかわいがってくれているし、飼うほど好きならだいたい両方好きなのではないかと思う。
 そんなわけでわたしもタマ、ムギ、クロにはお世話になっている。猫ちゃん成分を補充させてもらっているのだ。わたしはしゃがんで彼女たち(三匹とも雌である)に存在を許容してもらおうとする。ムギはちらりとわたしを見る。クロはたいていそっぽを向いたままだ。タマはだいぶ近いところにいて、わたしと目をあわせ、ゆっくりと三度またたく。犬にも同じことをする。飼い主さんいわく「知りあいだとわかっていて、あいさつしている」とのことである。うれしい。
 犬は毎日二度散歩する。二度目の散歩はたいてい夜になる。三匹の猫のいない時間帯だ。それでも犬は、週に一度はタマ家の前を通りたがる。そして猫たちのくつろぎゾーンに鼻先を入れて地面をかぐ。気の毒なほどの片思いぶりだが、それもまた人生、否、犬生である。
 タマは窓辺で長いこと外を眺めるのだと、飼い主さんが言っていた。あの窓よ、と指さした、三階建ての三階の端の小さい窓には、たしかにときどき、切り絵めいてあざやかな猫のシルエットがうつるのだった。タマだよ、とわたしは言う。犬の視力ではわからないだろうし、シルエットの概念を理解することもないだろう。大脳新皮質が未発達だからね、とわたしは言う。そして大脳新皮質が未発達であるがゆえの狭いひたいを撫でてやる。切り絵のタマのしっぽがゆっくりと振れる。

男女の友情

 「男女の友情はありえるか」という議論があるのだそうだ。
 ふーん。ないと思う人にはないんじゃないですか。
 僕はそのように思う。
 というのも、僕には高校生のときから仲の良い、同い年の異性の友人がいて、僕もその友人も恋愛対象は異性で、いずれも性愛をやるタイプの人間なのだけれど(ちなみに僕より友人のほうが活発な傾向にある)、お互いその対象ではない、という確信を持っているからである。「そうはいっても男と女、きっかけがあれば」などという言い方をされたこともあるのだが、たいそう不快だった。きっかけがあればやっちゃうでしょってことだよね。やんねえよ。親きょうだいとやんないのとおんなじ感覚ですよ。ていうか、なんで赤の他人の俺らの性欲を第三者が決めてかかるんだ。シンプルにキモい。
 僕らは夜中じゅう飲んでしゃべってどちらかの家に泊まるし、二人で海外旅行したこともあるけど(目的はもちろん旅行だよ。気の合う友だちと旅行するのって楽しいよね)、全然まったくそんな感覚は芽生えなかったからです。実績に基づくたしかな友情。あ、セックスつきの友情だってあると思いますよ。でも僕らはそうではない。

 無関係の人に理解されないのはまあいいんだ。その人にはその人の世界がある。僕には僕の世界がある。余計な口出しをされたら「あの、その口出し、いらないです」と言えばいいだけのことである。
 問題は自分たちの彼氏彼女だ。どちらかが異性との友情をNGとする相手とつきあっているときには、この友人との連絡はなくなる。僕も友人も恋愛をそれなりに大事にするタイプで(僕より友人のほうがより大事にする傾向にある)、天秤にかければ恋愛の相手を取るのである。
 でもそういう恋人と長期間うまくいったことがない。
 僕には他にも、それなりに親しい女の友だちが何人かいて、家族ぐるみみたいな感じの友人夫婦もいて、仕事帰りに飲みに行く女の同僚もいる。そのぜんぶがNGという相手とはつきあえない。あとはグラデーションの問題である。「異性の友人と二人で泊まるのはやめてほしい」くらいの相手が落としどころかなあというのが、二十代後半までの僕の認識だった。

 だからそういう意味でも今はほんとうにありがたいと思っているんだよ。
 僕がそのように説明すると、彼女は変な顔をして、それから言った。ふーん。
 僕はこの二年すこぶる快適に過ごしている。今の彼女とつきあって、後半は一緒に住んでいるからである。この人は自分も男の友人と二人で出かけたり、仕事のために親しい仲間と長時間一緒にいたりするので、相手がそれを嫌がるタイプだと面倒なのだそうだ。恋人のいやがることはしませんが、と彼女は言う。そうはいっても相手も同じような感覚のほうが、気は楽だね。相手の好意を笠に着て一方的ながまんを強いているんじゃないかという疑いを持たなくて済むから。
 彼女の恋愛対象は男性だけではない。「別に誰でもいいわけじゃないけど、女性を好きになることもあるので、たぶん男女とは別の何かで恋愛対象が区切られているんだと思う」とのことである。「何によって区切られているかにはそんなに興味はない」「セクシュアリティに名前をつけることにも個人的に興味がない」とのことなので、僕も彼女のそのような性質を何らかのカテゴリ名で呼んだことはない。過去の恋人たちについてはひととおり聞いていて、「そうなんだー」と思っている。みんな素敵な人だったそうで、よかったね、と思う。その中で今現在、俺がトップにして唯一であるので、ふふん、と思う。
 そんなわけなので彼女は「恋愛やセックスの独占関係をおびやかすものとして異性を想定する」という発想が世間にあることは知っているが、自分ごととしてはぴんときていない。だって自分は女と浮気するかもしれないから。
 なんというか、変わってはいるけどわかりやすい人である。ただ性別その他を問わず浮気はしないでくださいよ。俺もしないから。そういう約束でつきあってるんだからさ。

 「男女の友情はあるか」。
 彼女はつぶやく。そういう話題を好んで、「男女の友情はない」と言う人って、世界には男と女がいて、男と女は恋愛やセックスをする、という考えかたなんだよね。片方が無理強いするケースは論外として、極端な話、第二次性徴後の男と女を配置すればセックスする、みたいな発想なのかな。どうしてそう思うんだろうね。

飛行機の夢

 空港へ行く。半日ほど空を飛ぶために行く。そのあと現地の国内便に乗り換えるので、まる一日移動している勘定である。
 チェックインカウンターへ行く。オンラインチェックインのシステムがダウンしていて、何度ためしてもできなかったので、久しぶりのカウンターである。
 チケットが発行される。わたしの番号は窓際である。
 荷物は手持ちの布鞄と小さめのキャリーケースで、ふたつとも機内に持ち込む。

 エコノミークラスの狭い席に詰め込まれて半日過ごすことが、わたしは嫌いではない。まったく嫌いではない。なにしろ飛行機の中では何もできないので、完全にぼうっとしていられる。何かあればスタッフが指示をくれる。だからわたしはすべてのセンサーを切り、眠りの海に落ちたり浮いたりしていてよい。
 これはとても安心なことだ。機内の安全を保つための行動様式がインストールされている人間なら、何も考えなくてよい。何をどれだけ考えてもよい。わたしには何の役割もなく、何の期待もされていない。こんなことってなかなかない。
 だからわたしは飛行機でよく眠る。座った姿勢で眠れるのかといえば、実によく眠れる。このたびはちょっとしたうたた寝のあと機内食の時間を過ごし、それから三時間眠り、目を覚まして機内サービスの映画を観ようとしてやめ(『Poor things』、外科手術が大きな役割を果たす映画で、わたしは人の皮膚を切る描写がとても苦手だ)、中篇を一本読み(電子書籍読み放題サービスでダウンロードしておいた『ハンチバック』)、一時間半眠り、手洗いに立って、その後また三時間眠った。最後の眠りではベッドで眠ろうとしている夢を見た。ベッドは最高だね、と夢の中のわたしは言った。なにしろ平たいからね。

 乗り換えの空港に着く。チェックインカウンターへ行く。オンラインチェックインのシステムがダウンしていて、何度ためしてもできなかったので、久しぶりのカウンターである。
 チケットが発行される。わたしの番号はない。
 番号がないよと言うと、オーバーブッキングで今から割り当てられるからゲートへ行けと言われる。
 こういうちょっとしたイレギュラーがあるから海外旅行は好きではない、という人がいた。わたしは好きである。わたしはいつも、自分の乗り込んだ乗り物のチケットが、ほんとうはにせもので、事務的なチェックのあとに追い出されるのだと、どこかでそう思っている。だから「あなたの席はない」とか「あなたの部屋はない」とか、そう言われるのがふんわり好きなのである。それがほんとうだ、とどこかで思っている。

 キャリーケースを引いて歩く。
 キャリーケースは名を長嶋さんという。もとの持ち主の姓である。二十年ほど前、長嶋さんは羽振りの良いビジネスパーソンであって、羽振りよく結婚した。そして新婚旅行用として結婚相手にこのキャリーケースを贈った。長嶋さんはもちろん羽振りよく浮気していたため、ほどなく離婚が決まり、キャリーケースはたった一度使われたきりで長嶋さんの手元に戻った。彼の「彼女たち」は全員その引き取りを拒否した。
 そして長嶋さんは会社にキャリーケースを持っていき、「これきみの彼女にあげなよ」と、部下に渡した。その「彼女」がわたしである。へんなの、と当時のわたしは言った。もらっておけばいいのに。
 浮気相手には浮気相手のプライドがあるんだろう、と彼は言った。きみにはわかるまいよ。何がどうなっても浮気相手をつとめるタイプではない。
 そんなことはない、とわたしはこたえた。この国を軍事政権が牛耳り、男たちは戦場に追いやられ、女たちは国内産業と人口の維持のため奴隷のように働き産まされる時代が来たとしよう、そしたらわたしは国内でぶいぶい言わせてる将校の愛人になる。なにしろ魅力的な愛人だから、社交の場にも連れていかれるわけよ。そうしたらわたしは同じような女たちと愛人ネットワークを形成して機密情報を盗み出し、国際情勢を研究し、やがて民主化革命を起こす。
 彼はげらげら笑って、救国の英雄じゃん、と言った。そんなだったら愛人をやるね、とわたしはこたえた。かっこいいじゃん。
 そんなわけでわたしのキャリーケースの名は「長嶋さん、あるいは救国の英雄」になった。
 昔の話である。

 ゲートに着く。名前を呼ばれる。再度の事情説明があり、待っていろと言われる。待つ。チケットが再発行される。このたびはシートの番号がついている。
 わたしは少しだけがっかりする。経由地でしかないつもりだった、たくさんの小説に出てくる大きな都市に置き去りにされる夢を、後ろ手でそっと捨てる。

壁を塗りに来ないか

 壁を塗りに来ないか。
 そのように誘われたので行くとこたえた。変わった誘いにはとりえあず乗っかるたちである。中古の一軒家を買って自分で壁を塗っているからやってみないかと、そういう話だった。
 往路の電車で友人が作成した作業解説動画を閲覧する。大切なことだけれど、と画面の中の彼女は言う。このペンキは水性だから臭くない。動画を三十秒を残して電車が駅に着く。
 通されたのはリビングと思われる広い部屋で、まだ空っぽだ。真ん中に大きなブルーシートが敷いてあり、友人の小学生の娘がいっぱしの手つきで木箱を塗っていた。聞けば「一年生のときに選んだ色に飽きた」のだそうである。床材は友人のパートナーがその仲間たちと張ったという。ビーバーみたいな家族である。

 友人に借りた作業用の上着を羽織る。
 わたしはまったく知らなかったのだけれど、塗る時間より塗る準備をする時間のほうがずっと長いのだった。ペンキを塗る面のキワにマスキングテープを張り、さらにビニールつきのテープをはって、そのビニールをのばしてマスキングテープで床に貼る。養生というのだそうだ。まっすぐに貼れるとうれしい。そういえば手作業なんてせいぜい料理くらいしか、近ごろはしていないのだった。
 「『塗装は養生が九割』という新書を出そう」とわたしは言う。友人が笑う。わたしは即興で「ない新書」のカバー折り返しを読み上げる。著者、渡辺二三男。株式会社ペイントユアドリーム代表。大手証券会社を経て実家の内装会社を継ぐ。着任当初は空回りするばかりだったが、この仕事を理解したいと地道な養生作業に精を出す姿に、ひとりの老職人が目を留める。SNSで話題沸騰。四回泣けます。QRコードから特典をダウンロード。
 小説っぽいな、と友人が言う。もっとトクしそうな内容じゃなきゃ売れないよ。
 休憩してお茶を飲んで、いよいよペンキ塗りだ。壁を大胆に汚す(汚してるんじゃないんだけど)なんて、なんだか愉快だし、やっているうちに刷毛の動きにリズムができてきて、気持ちがいい。「みんなやればいいのにね」と友人が言う。わたしはまた「ない新書」のタイトルを口にする。『教養としてのペンキ塗り 現代のビジネスパーソンに必要なたった一つのこと』。いいぞ、と友人が言う。売れそうだ。彼女は脚立に乗っていて、壁の上半分を塗っている。わたしは下半分の担当である。わたしは刷毛を動かしながら、ぺらぺらと「ない新書の折り返し」を読む。
 著者、アンドリュー・デイヴィス。コンサルティングファームを経て自身の納得のいくペンキを開発する会社を設立。少数生産ながら世界中に熱烈なファンを持つブランドペンキ企業に成長させる。独特の哲学を語る人気Youtuber。チャンネル登録人数200万人突破。
 よし、アンドリュー、前書き。友人が言う。
 わたしは語る。情報過多の現代、わたしたちの脳はとても忙しい。真面目なビジネスパーソンほど、頭の中を情報でいっぱいにしてしまう。でも、それはまさに「息づまり」そして「行き詰まり」なんです。新しいアイデアは急流からしか生まれない。だからマインドフルネス? ええ、流行りましたね。あなたの習慣になりましたか? お答えいただかなくてもわかります。あれを習慣にするのはとても難しいんです。なぜならそこには快感がないから。うっとりと眺めて手で触れたくなる美しいものがないから。ーー大丈夫です。あなたにはペンキがもたらされます。あなたは壁のあるところに住んでいますね? OKです。さあ、刷毛を持って、本文へ進みましょう。
 友人は脚立の上で爆笑している。

 どう、いい感じじゃない?
 二度の塗りを終えた壁を見て友人が言う。自分の塗ったところにムラが目立つ気がするよ、とわたしはこたえる。乾けば目立たなくなるし、ムラも味のうち、と友人が言う。それから眉を上げて、言う。
 どうだい、アンドリュー。
 わたしはこたえる。
 パーフェクトだ。これは君だけのパーフェクト。誰かのではなくて。
 友人は爆笑する。いそう、資産家に見えないラフな格好で自然の中の気取らない一軒家に住んでリモートワークしてそう。実は守銭奴で冷酷に社員の首を切ってそう。

 友だちが来てペンキを塗ると、子どもの教育にも良い。駅まで送ってくれながら、友人が言う。なんで、とわたしは訊く。「ない新書」の話とかしてバカ笑いしてるのに?
 大人になってもペンキ塗って愚かな話をして笑っていていいんだと理解するからだよ。友人が言う。意味のあることばかりを良しとする大人にはできればなってほしくないんだ。

改姓とわたし

 パートナーから法律婚の話を詰められたとき、サブ議題として提出されたのが改姓の話だった。
 彼は自分の姓に愛着があり、しかし自分の感情以外に「変えてくれ」と依頼する根拠を持たなかった。そして彼は、「カップル間での完全なイーブンはまぼろしだが、それでもフェアネスを追求したい」という方針を持っている(いい男である)。それで「法律婚を了承してくれるのであればできるかぎりのことはします」というのだった。
 一方、わたしは自分の姓にまったく愛着がなかった。育った家がろくでもないところで、とくに父親(姓を変えずに結婚した側の人間)がさまざまな点でアウトな人物だった。そんなわけだから、自分の戸籍を見るたびに「自分がああいうろくでもない人間の下にくっついてるみたいな記載で超キモい」と思っていた。
 そもそもわたしは名前自体に対する愛着が薄い。R2-D2とかでもかまわない。これもおそらくは生育環境に由来していて、親の愛情を称揚するための「名前は最初のプレゼント」みたいな言説が嫌いだからだと思う。あなたのすてきなお名前があなたの素晴らしい親御さんからのプレゼントであることに異論はないです。しかし、わたしのはそうじゃないんです。わたしのはやむなく使用している型番です。そういう感覚がある。
 戸籍制度、婚姻制度、婚姻における強制改姓にはそれぞれ言いたいことが山ほどある。制度変更が必要だと思う。しかしわたしは「好きで一緒にいたい人に去られたくない」という欲求を優先して、やむなく法律婚を了承した。
 だから姓を変えたってかまわないとわたしは言った。でもわたしだけが面倒な目に遭うのは納得いかないな。
 彼はそれを聞いておおいに喜び、わたしの手数を肩代わりする工夫をし、改姓にかかわる費用は家計から支出し、手続きが終わった段階でわたしの慰労会を開いた。

 でも多くの人間は生まれたときからの名前がアイデンティティの重要なパーツっていうか、いろんなものを包んだ包装紙の上にかかってる紐みたいな存在なのよ。
 友人が言う。そうだろうねとわたしはこたえる。実際ところ、わたしは自分の改姓に関する感覚を他人にあてはめる気はない。自分がレアケースだという自覚はある。多くの人は名前を変えたくないし、ましてC-3POとかそういう名前になったらすごくイヤなはずである。そんなのは非人間的なことだ。名前は重要である。ーーきっとそうなんだろうと思う。
 ほかにも、と彼女は言う。あなたはいくつも名前があるでしょう。だからあまり「奪われた」感じがないのよ。
 たしかに、とわたしは思う。わたしの職場での名前は変わっていない。給与振り込みの姓だけが変更され、あとはそのままだ。そういう仕事なのである。そのうえわたしは旧姓ともちがう筆名を持っていて、趣味の活動に長年使用している。こちらにはもちろん何の変更もない。
 しかもあなたには著作があるからね。友人は指摘を続ける。旧姓時の本名とペンネームと、両方の著作が。国立国会図書館に行けば、あなたのそのふたつの名前を記載した資料があって、死んだあとにまで残る。今後もその名前で著作を出す。あなたの法律上の氏名は公的機関での記号でしかない。だからあなたは平気なの。パスポートの旧姓併記もできるから、新しい姓との接続を証明することだって簡単。あなたはぐらつかない。

 そうだよねえ、とわたしは言う。
 わたしは改姓にまつわる苦労を背負った人たちに何を言える立場でもないと思っている。制度や規範に変えるべき点があることを前提として、その中で「あなたはそりゃ平気でしょうよ」と言われてもしかたないと思っている。なんなら「自分が反対している婚姻制度を使用したのだから、現状を追認したも同然であって、私利私欲のために悪をなした」くらいの感覚でいる。
 だから目の前の友人の改姓に関する悩みにあれこれ言うことはない。
 彼女には長年のパートナーがいて、彼女の希望で法律婚をしていない。しかし、先方の両親が「あなたにも遺産を残したいから」と結婚改姓してほしがっているのだそうだ。昔の人たちだから、と彼女は言う。「うちの子になってほしい」という気持ちがあるのよ。この年齢で「うちの子」も何もないんだけどさ、赤の他人じゃ心配なんだろうと思う。
 一緒にいたい人と一緒にいたい間一緒にいる、それがいいんだけどな。彼女はそう言う。でもわたしはすでに彼の両親の面倒を見ていて、情もあるのよ。結婚したほうが彼らも安心してわたしにあれこれ頼めるだろうとも思う。でもねえ、そんなのおかしいよ。いろいろおかしいよ。
 そうだね、とわたしは言う。おかしいよね、と繰りかえす。

納豆とわたし

 わたしが納豆を食べるようになったのは二十八歳のときである。
 食べ物の好き嫌いの少ない子どもだったのに、納豆だけはどうしてか強く拒否していたらしい。生家は関東だが、納豆を常食する家ではなく、食べなくてもよかった。しかし、小学校の給食で年に一度だけ納豆が出た(なぜ年に一度だったのかは覚えていないが、とにかく絶対に一度だけ出たのである)。小学校一年生の時分から、わたしはそれを拒否していたのだそうである。
 いわゆる「完食指導」があった時代だ。高学年になるとより厳しくなるようだった。それでわたしは納豆の日だけ仮病を使って学校を休むようになった。ろくに風邪もひかない丈夫な子どもだったが、年に一度の給食納豆の日には「熱がある」と言って家で寝ていた。他の日に仮病を使ったことはない。仮病を増やして「ずる休みだ」と指摘され、その結果納豆を食べざるをえないことをひどく怖れていたように思う。クラスの皆にも担任の先生にもぜったいに納豆を食べられないことを知られたくなかったように思う。知られることすらリスクだというような感覚があったのだろう。

 大学生になると、「為せば成る」という若者らしい(?)勢いで、「食べられないものがゼロだったらかっこいいな」と思うようになった。それで夜遊びの帰りなどテンションが上がった状態で吉野家に入り、小さな納豆パックのついた朝定食を注文した。結果、あっという間にテンションを急降下させ、すごすごと店を出た。どんなに高揚した状態でどんなに勢いをつけても、ひとつぶ以上を食べることができなかった。大学二年生のときに二度、そうした無為な挑戦をしたと記憶している。そして「挑戦心で食べ物を無駄にするのは不道徳である」という結論に達した。
 そんなだから二十八歳のときに納豆を食べたのは自分の意思ではなく、事故であった。
 わたしはリサーチ会社に就職し、なかでも質的調査を得意としていた。クライアントの意向に沿ってターゲットにインタビューをするのだが、中には何度もお世話になる相手がおり、そうなるとわたし自身を信頼してもらう必要が生じる。専門用語でラポール形成という。
 あるとき、地方都市の駅前再開発のためのチームが編成され、わたしの会社もそれに加わった。そしてわたしは地域の有力者に何度も話を聞くことになった。彼らはわたしにたいへんよくしてくれて、立派なおうちで手料理などご馳走してくれるのだった。その席で納豆和えが出た。刺身をヅケにして納豆で和えた料理である。
 ノー・納豆・ノー・ラポール
 わあ、おいしそう。わたしは反射的にそう言い、食べた。
 それが本当に美味しかったのだ。「魚は地元の新鮮なやつだけど、納豆は普通のおかめ納豆だよ」とのことだった。
 狐につままれたような気持ちでその地方都市から帰ってきた。そして恐る恐る納豆を食べはじめた。やはりまったく平気で、普通の食品として食べられるのだった。今ではむしろ好物である。

 もともと納豆以外に「食べられない」自覚した食材はなく、あちこちに海外旅行をしても食べられないものはほぼなかった。スパイスや変わった調理法、組みあわせもどんとこいである。ドリアンは進んで食べる気にならなかったが、あれも新鮮ならくさくないと聞くから、いけると思う。まだ本来の、素晴らしいドリアンに出会っていないだけなのである。
 加齢とともに食べる量(とくに脂)は減るが、食べられるものの数は増えるのではないか。子どもの味蕾は苦味を強く感じ、その後はどんどん鈍くなるので、大人になると野菜などが食べやすくなる、という話も聞いたことがある。年を重ねて経験が増えれば「これもいける」という気にもなるだろう。

 いや、年をとるごとに食の幅を狭くする人もいる。
 友人が言う。それからかわいそうなものを見る目でわたしを見る。あのね、世の中の大多数の人は、そもそもそんなに食べ物に拘泥していない。あんたはもうちょっと自分のマイノリティ性を自覚したほうがいい。たいていの人にとっては、納豆なんてマジでどうでもいいの。同じものばかり食べて生きているのが人類の多数派なの。何だよ、「食べられないものがゼロだったらかっこいい」って。
 そうかなあ、かっこいいと思うけどなあ。わたしは自分がランダムに世界のどこに放り出されてもおいしいごはんを作って食べられる人であるといいと思うよ。強そうじゃん。