祖父母の代から同じ家に住み、場所が下町なので、東京の人間にしては近所づきあいがあるほうだと思う。近所に大量の顔見知りがいる。
わたしの家ではわたしが子どものころから犬を飼っている。わたしも、犬を飼う人間としては若くして(ギリ二十代だ)自分の犬を手に入れた。わたしが中学生のころに家に来た母の犬(老犬なのでカートに乗せている)とあわせて二頭を連れ、毎朝公園に行く。朝から出社する日は早く、リモートワークの日は遅い。
遅い日に顔を合わせる犬友の中に、昔からの顔見知りでもある高齢男性(わたしの家では「爺さん」、腹立たしいときには「ジジー」と呼称する)がいる。この爺さんは去年三代目の犬を亡くしたあと、八十すぎの身で子犬を迎えた。同居する犬好きの息子一家がいるからできることだ。愛犬家としてはもっとも恵まれた老後といえる。
その日の朝の公園には働く女の飼い主が三人いた。商店主と弁護士とわたしである。彼女たちはわたしよりだいぶ年長で、たがいの犬をかまいながら「いくつまで働くか」という話をしていた。なるほど、二人とも定年のない仕事である。そしてわたしの会社も、順次待遇が変わるが、最長七十歳まで働くことができる制度がある。
七十までやっちゃおうかなあと弁護士が言い、何もしないとヒマだしねえと商店主が言う。わたしにとってはまだリアリティのない話だ。
すると別の男性と話していた爺さんが振り返り、大きな声で「あんたらはそんな年寄りになるまで働かなくていいんだ。亭主を死ぬまで働かせろ」と言う。商店主が「またはじまったわあ」とつぶやく。
この爺さんの頭は昭和で停止しており、女が働くのは(今ふうに言えば)社会貢献や自己実現のためだと思っている。「世の中には女がいなくちゃいけない場所があるからな。立派なことだ」などとのたまう。
そのようなジジーが、商店主、弁護士、わたしの順に顔を見て、わたしと目が合うとちょっと気の毒そうな顔をした。
ジジーはわたしの家の祖父と父親がいずれも若くして亡くなったことを知っている。そしてわたしのことを「なんだか長々と大学にいたあげく、三十路を控えて彼氏もおらず、どうやら結婚できなさそう=ワケあり枠の女」だと思っている。工学系で修士卒なんて珍しくもなんともないっつーの。好きで独身やってんの。ものを知らないジジーだよまったく。
余計なお世話ですー、うちの人にはさっさと引退して長生きしてもらうんですー。弁護士が言う。流石の切り返しだ。いいぞもっとやれ。
かああ、とジジーが言う(言うっていうか、鳴き声って感じである)。ったくよう、こんなだから世の中おかしくなるんだ。男ってのは、エライんだ。死ぬまで稼ぐんだからよう。それがおまえ、最近の男は、何だ。男らしくねえな。
弁護士がにやりと笑って言う。それじゃあ伺いますけど、犬を可愛がるのは男らしいおこないなんですか?
ジジーはぐっと詰まって、それから言う。しょうがねえだろ、女房が可愛くねえんだからよう。嘘よお、と商店主がつぶやく。奥さん最近具合悪いもんだから、四六時中おろおろしてんのよあの人。
ジジーと話していた男性はジジーの視界に入らない角度に移動し、腰を曲げて笑いをこらえている。男性の犬が楽しそうにわんと吠える。
あのジジーほんとしょうがねえな、と思う。「女もフルタイムで働け、子どもを産め、家事は九割女がやれ」みたいな令和式男尊女卑に比べると首尾一貫してはいるが、当然、ダメである。
ダメであり、かわいそうである。
わたしが幼かったころ、わたしの父の葬式にあのジジーが来て、引くほど泣いた。ジジーは甘いものが好きで、年末には皆に自分が好きでお取り寄せしている菓子を配る。ジジーは子どもが好きすぎて引退後の不動産投資収入を孫の進学資金と子ども関連施設への寄付に回している。秋になると犬の散歩のついでに落ち葉の美しいのを探して持ち帰る。押し葉にして食卓を飾るのだという。
ジジーは台所に入ったことがなく、入る気も一切なく、伴侶が具合を悪くしてからは悄然として息子の配偶者の手料理を食べているのだそうだ。なぜ悄然としているかといえば近ごろ息子が失業し、「嫁に家のことをしてもらうのが申し訳ない」からだそうである。
涙もろくて甘党できれいなものが好きで、無類のおしゃべりで、子どもと動物をかわいがりたくて、それでもって「男」であるのは、昔はさぞかし生きにくかったろうと思う。
そんなだから、わたしも近所の皆も、あのジジーをそんなに嫌いではないのである。ダメなジジーだが。