傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

オマエ ヨクハタラク オレ シッテル

 疫病が流行しているのでよぶんな外出を控えるようにという通達が出された。それで僕の職場でも重い腰を上げて部分的にリモートワークを導入し、紙とはんこの文化を一部刷新した。というか、せざるを得なかったのだと思う。だって取引先はみんなとうにやってるんだから、最低限は合わせないと先方のワークフローに影響する。「この業務では電話の使用を差し控えていただきたい」とか、その程度のレベルの要求でも僕の会社では一大事なのである。
 この会社には年長者が多く、ITに対する関心の低い社員が多い。能力はそこそこあるので、PCくらいは使える。しかし、仕組みをがらりと変えることにはきわめて消極的だ。新しいシステムを覚えるのは面倒だからなるべくしたくない、という雰囲気に充ち満ちている。Zoom導入で一騒動、Slack導入でまた一騒動、僕は担当してないけど給与明細の電子化あたりも相当大変だったらしい。
 疫病前は紙の明細を出していたのかって? そりゃもう出してましたよ。なんなら経費精算の一部が現金でしたよ。経理が茶封筒に入れてくれるんだよ、小銭まで計算して入れて封筒の入り口をステープラーでぱっちんと止めてくれるんだ。世の中にはそういう会社がまだまだあるんだ、まじで。ちなみに給与明細はステープラーではなくのり付けで、そのへんもおおいに謎だった。たぶん「昔からそうだったから」というだけの理由でそうしていたんだ。

 そんな中、僕は(比較的)「若いから」という理由になっていない理由で諸々のツール導入を主導する立場になり、当然元の業務もしなければならず、疫病流行から半年は死ぬかと思った。半年後に手伝い要員が配置されて一息つき、一年後に業務調整がおこなわれて過労ではなくなった。遅い。何もかもが遅い。
 そんなわけだから長きにわたる(本来担当でない)IT化業務の報酬はゼロだった。ふだんならぜったい文句言ったと思うんだけど、もともと以前の評価で昇進したばかりだった。それも結構な昇格だった。そこまで行かないで定年を迎える人もいるような立場になったばかりだった。
 だからなんていうか「そうはいっても昇進のあとだしな……」みたいな恩義でずるずるやっちゃって、一年後くらいにようやく腹がたった。

 疫病下で突然いろんなことを変える必要が生じた。だからみんな大変だった。それは事実。僕は前年度までの業績で評価してもらってかなりの待遇アップがあった。それも事実。
 でもさあ、昇進は昇進、イレギュラー対応はイレギュラー対応でしょうよ。なんで「やって当然」みたいな流れになってるんだよ。けど今更何をどこに要求すればいいのか。

 そう思いながら数ヶ月、給与明細を開いたら(例のようやく電子化した明細である)、特別手当が二万円ついていた。人事に問い合わせたら「電子化関連を兼務されるかぎり毎月この手当がつきます」ということだった。
 やっとか。一年半たって、やっとか。遅い。うちの会社はなにもかもが遅い。

 遅いが、でもちゃんと見ててくれたんだな、そしたらまあいいかな。僕はそう思った。
 二万円でごまかされるなんて、ちょろい、とは思う。今までやってきたことを考えると安すぎるとも思う。さかのぼって報酬をくれてもいいと思う。でもそれはそれとして、誰かが、たぶん直属の上司が僕の仕事を見ていて、経営陣がそれを認めたということはたしかだ。そしてそれが弊社の亀のような人事評価プロセスを経てようやく給与明細に反映された、それもたしかだ。

 オマエ ヨクハタラク オレ シッテル

 直接しゃべったことのない渡辺さん(社長)の幻がなぜか片言でそう言う。僕の想像のなかで言う。そして僕は思う。じゃあまあ、いいかな。苦労したけど、わかってくれたみたいだから。

 僕は思うんだけど、組織の中で特定の個人に負担がかかったとき、いちばんしんどいのは誰にも見てもらえないことだ。報酬はもっともらっていいと思うけど、たとえちょびっとでも「忘れられてはいないんだ」「感謝されているんだ」と思えることがだいじなんだ。気持ちの問題だけじゃなくて、人事評価の積み重ねの一部としても使える。
 だからたかが特別手当二万円で僕は今後もこの会社にいることにした。

 とはいえ、弊社は遅いだけじゃなく、無口にすぎる。これがイケイケのベンチャーとかだったら、まずは「上層部はきちんと評価している」「少しでも報酬を上乗せするつもりだ」というメッセージがあると思うんだ。給与明細にだけ語らせるってなんなんだ。照れ屋か。

だからきみはずっと二番手

 疫病が流行しているのでよぶんな外出を控えるようにという通達が出された。僕はちょうど子どもの病気がわかって手がかかるようになったところで、疫病をいいことに彼女と会うことをやめた。ちょっと飽きがきてたし。

 自分がダメなやつだという自覚はあるんだけど、僕はほとんどいつでも二番手の彼女を必要とする。今なら結婚してるから不倫相手ってことになるかな。でも人の倫に悖る!みたいな大仰な感じじゃないんだよな。ちょっとした気晴らしっていうか、バランス取りたいなーって感じ。
 人間と真剣に向き合うのは疲れることだ。ちゃんと見てなきゃ相手のことはわからないし、そうなると色恋の甘ったるい良さが感じられなくなっちゃったりもするし、より親しくなれば相手だけじゃなくてその周辺のことも考えなきゃいけない。結婚すれば家同士の関係までマネジメントすることになる。とにかく疲れる。でも僕は妻と息子に対してはそうしたいと思っている。疲れてもそうすると決めているんだ。
 仕事して家庭をやって、良き社会人で良き夫で父で、そんなのしんどいじゃん。そんで思うわけ、彼女ほしーって。
 この「彼女」は恋人という意味ではない。独身時代の妻や、その前の歴代彼女のことではない。同じように「彼女」と呼んでいても、意味がまったく異なる。

 二番手の女たちは個別具体的な理解を必要としない。彼女たちは外見も性格も異なるのに、テンプレートが通用する。なぜなら彼女たちの内面には一つの共通したマグマが煮えたぎっているからだーー「自分は上等な人間のはずだから、上等な男から愛されるはずだ」という。
 なんでだろうね。別に平凡なのにね。彼女たちも僕も。

 僕はなかなかのスペックを誇る。勤務先と学歴と育ちと外見と「センス」のいずれにおいても上級。大富豪とかじゃない。でもハイスペ。評価軸におけるどの要素を取っても上位であることは彼女たちーー二番手の女たちにとってはきわめて重要なことだ。センター試験方式。今はセンターって言わないんだっけ。
 そして僕は彼女たちを「理解」する。この「理解」というのはすなわち「きみは特別だ」という肯定だ。僕は「センス」のいいことばで彼女たちを肯定する。ただ受験勉強ができただけじゃない、文化的な見識も豊かな人間が発する「特別な」ことばで。
 もちろん僕は僕のハイスペらしからぬところを彼女たちに見せることはない。彼女たちが見たいものだけを見せる。そうすれば彼女たちは僕に夢中になる。

 疫病を言い訳に会わないことを伝えると彼女は恍惚と悲しんでいた。彼女は僕から放っておかれることを「大切にされている」と受け取るのだった。僕の言いくるめが上手だからじゃない。彼女がそう言ってほしいからだ。びっくりするほどテンプレート。以前の二番手の女に同じせりふを言ったら同じ反応だった。ほんとに別の存在なのかよと思うくらい。
 二番手の女たちは受動的な悲劇が大好きだ。自分のことを愛している相手から大切にされていて、でも彼はどうしても家を捨てられない事情があるから(この事情というのはもちろんまぼろしである。僕は僕の意思で結婚して婚姻関係を継続している、ザッツ・オール)、自分たちは引き裂かれてしまう、そういう美しい悲劇を、ことのほか愛している。

 疫病の感染者が大きく減った。それで彼女のSNSをのぞいたら、相変わらずポエムが書き連ねられていた。彼女の世界の中ではそうやって「耐えて」「尽くして」いれば「愛されて」「幸せになる」のである。
 だからもちろん僕は彼女に連絡する。いいかげん良き社会人良き夫良き父であることに疲れてきたところだ。
 きみはほんとうに素敵だ、と僕は言うだろう。きみだけが僕を理解してくれる。でも僕のために人生を犠牲にしないでほしい。僕が耐えられないから。そう言うだろう。そして彼女はそれをうっとりと聞くだろう。
 もちろん彼女は僕のために人生を犠牲にする。具体的には既婚の男の都合に合わせて雑に扱われるセカンドの女として数年間を過ごす。それが人生の犠牲とはとても思えないんだけど、まあそれが犠牲だと思うのが好きなんだ、彼女たちは。特別な男に愛されている特別な自分がそこらの凡人にはわからない愛をつらぬくっていうのが好きなんだ。だから僕は二番手の彼女がとても好きだ。苦労して考えたりしなくていいテンプレで何でも僕の都合に合わせてくれて、とっても素敵だと思うんだ。

王子さまたちの国

 疫病が流行しているのでよぶんな外出を控えるようにという通達が出された。その状況が長引くにつれて増えたのがペットの飼育である。わたしもご多分に漏れず以前から計画していた犬の飼育を前倒しし、フルリモート中に子犬を育てた。
 疫病の流行からはや一年半、わたしの犬はすでに成犬し、けっこうな時間の留守番ができる。おかげで短めの出社とリモート日を組み合わせて幸福なドッグライフを送ることができている(たまに壁紙を剥がされながら)。朝晩みっちり散歩してさえいればおおむね機嫌のいい、扱いやすい犬である。

 夜の十時過ぎに近所の公園に行くと、犬がうようよいる。勤め人たちが連れてくるのである。わたしの犬は成犬してもまだ犬同士の取っ組み合いや追いかけっこをやるのだが、相手をしてくれるのは八割がた子犬である。小学生に混ぜてもらう中学生みたいな感じだ。かしこそうとは言いがたい。楽しそうではある。
 そんなわけで飼い主であるわたしも必然的に子犬の飼い主と多く話すようになる。疫病下での犬飼育はまだまだ増えているようだ。
 そのなかの一頭にジュノがいる。ジュノはとても小さな、おそらくチワワと何かのミックスのオスで、若い男性ふたりに連れられて夜の公園にやってくる。
 ジュノは月齢のわりに落ち着いていて、とても気位が高い。取っ組み合いはしないし、わたしの犬がボールをくわえて行って挑発してもめったに乗ってこない。わたしがジュノの前にボールをそっと差し出すと「では遊びましょうか」という感じで転がしたりする。
 その場にいる飼い主の誰かがおやつの袋をあけると、犬たちはすばやく寄っていく。気が強くて食い意地が張った者(わたしの犬とか)はぐいぐいとセンターを確保し、めちゃくちゃ背筋の伸びたおすわりでアピールする。でもジュノはそんなことはしない。スンと座っている。そしておやつを持った人がよその犬をかきわけてジュノの口元まで持って行くと「では頂戴します」という感じで食べる。
 ジュノはよその飼い主が差し出すものは何でもおいしそうに食べるのに、家ではフードもおやつもあまり進まないという。それでわたしはジュノのフードを少々預かっておやつ代わりにあげている。ジュノはおいしそうにそれを食べ、わたしの靴のあいだにからだを滑り込ませて「撫でてくれてもかまわないのですよ」というような顔をする。
 他の犬を怖がる子犬も多いのに、ジュノは大型犬が鼻を寄せても逃げない。わたしの犬が周囲をびゅんびゅん飛び跳ねても怖がらない。いつだって小さなからだで堂々としている。王子さまみたいな子犬である。

 ジュノに「おすわり」と言うと、ちょっと困った顔をした。飼い主である男性二人が「sit down」ときれいな発音で言うと、さっと座る。失礼、コマンドは英語でしたか。わたしがそう言うと彼らは顔を見合わせて笑い、そうなんです、と言った。家庭内インターナショナルスクールなんです。
 なるほど、この二人と一匹は家庭をやっているのだ。

 ふたりのうち一人は会社員、ひとりはフリーランスの在宅仕事なのだそうだ。同僚にも彼の話をします、と会社員のほうが言う。Zoom会議で生活音が入るので僕も彼の話はときどきします、とフリーランスのほうが言う。そうなんですね、とわたしは言う。彼らは彼らの犬にどこか似ている。彼らの家庭。インターナショナルスクールのある、王子さまたちの国。

 ところで、夜の公園では飼い主同士の家族関係がしばしば話題にのぼる。カップルや親子で散歩している人もいるし、ときどき交代するケースもあるからだ。わたしも以前は「こないだご主人と来てたんだって?」などと訊かれて、そういうときはあいまいにほほえんでいた。わたしはわたしの主義主張により法律婚をしない。でもそんなことまで話すような仲ではないから、あいまいにしていた。
 しかし最近は公園メンバーに「犬の飼い主と一緒に生活している人間は『ご家族』『パートナー』と呼んだほうがいい」という合意が形成されたらしく、わたしもその恩恵にあずかっている。快適なことである。だって、わたしが一緒に暮らしている人間は、わたしのご主人ではない。昔ふうの言動の年配の男性から「あんたのパートナーは」などと言われるとちょっとおもしろい。

 疫病下で犬を飼い始めたからわたしはすべての飼い主さんたちの顔を半分しか知らない。わたしたちはマスクをつける。わたしたちは犬を連れ出す。わたしたちはたがいの王国から来た使者のような犬を撫でる。

自炊人間と全裸人間

 疫病が流行しているのでよぶんな外出を控えるようにという通達が出された。そのために僕の勤務先でもリモートワークが導入され、この一年半のあいだは週三回程度出社し、二回程度在宅勤務をしていた。
 僕は食生活に重きを置く人間である。当然のように料理ができる。何はなくともメシがまずいと人生の意味がわからなくなるからだ。ふだんは「人生に意味などない」と威張っているので、「人生の意味とは」などと考えはじめる段階でよほどの重症である。
 とはいえ僕もまた長時間労働が常態化した現代日本の会社員であり、休日はともかく平日の晩飯作りにかけられる時間は一日平均三十分程度である。スーパーマーケットへの買い出しの時間を入れるともっと必要だ。リモートワークが導入される前は休日や夜中におかずを作り置きしていた。「召し上がれ今日の俺」と感謝の意を述べて食い、「ごちそうさま一昨日の俺」と言って食事を終えるのである。
 その生活には満足していなかった。冷凍庫はいつもパンパンだったし、繁忙期に作り置きのおかずを腐らせては膝から崩れ落ちていた。自炊してるのに作りたてが食えないこともしんどかった。冷たい常備菜ならともかく、主菜において作り置きで作りたてに勝てる調理者はなかなかいない。
 なんというひどい会社。なんというひどい労働文化。すべては社会が悪い。ああ、俺の人生って何なんだろう。そう思っていた。

 そうしたところがリモートワークの導入である。週二回も家で仕事ができるのだ。僕はあっというまにその生活に適応した。リモートの日は交通時間のぶんベッドでダラダラする。昼休みには近所のランチを開拓し、帰りにスーパーに買い出しを済ませる。仕事が終わったら大量の米を炊きつつ数日分の副菜と二日分の主菜を作り、作りたてを堪能する。
 こうしておけば出社日にどんなに忙しくてもコンビニのおにぎりを腹に入れておけば帰ってからまともなものが食える。冷蔵庫にいつも副菜のタッパーがあるのは素晴らしいことだ(ちなみに今のラインナップは蕪の葉とシラスのゴマ炒め、山形のだし、キャロットラペ)。冷凍庫に常にベストな状態の冷凍米があるので心はさらに安らか、仕事でいやなやつに頭を下げているときだって「今日のメインは牛肉とセロリのオイスターソース炒め。帰宅後十五分で完璧な食卓ができあがる」と思えばどうということはない。

 そういう話をしたら、親しい同僚が完全に引いていた。引いていたが、そいつはリモートワークの日には基本的に全裸で過ごしている。もともと自宅では裸族なのだ。「裸でいることが自然な状態、服を脱げばだいたい幸福、着ているとうっすら不幸」というのがやつの言である。まったく意味がわからないが、全裸でいれば謝罪メールを書いていても心の負担がないというのは、まあ少しわかる。僕はしないけど。
 裸族は極端な例だと思うけど、週に五日、場合によってはもっと、働いているあいだじゅうどこかの誰かが作った「正しいふるまい」をやらなければならないなんて、よくないことだったんだな、と思う。しかたないことだと思っていたけれど、リモートワークでも仕事がぜんぜん滞らないことを考えれば、しかたなくはなかった。なんならリモート導入で会社に対する愛着が増した。昼休みにスーパーマーケットに行ける生活をさせてくれる会社なんて好きに決まってるじゃないか。

 さて、そのような生活にすっかり慣れてしまった現在、僕のもっとも大きな懸念事項はフル出社に戻らされることである。「感染リスクが下がったと政府が言っているから全員出社させろ」と言っている管理職が複数いるのだ。なんでだよ、今のままでいいだろ。
 僕がそう言うと、全裸同僚はこう言った。あのさ、家にいてメシ作ったり裸でいたりするような、なんていうか自分を慰撫するおこないができない人間がこの世にはいるんだよ。そいつは家にいてもぜんぜんおもしろくないの。会社に行きたいの。部下にも全員出社してほしいの。業務だけが回っていればいいとは思えないの。なんでかっていうと部下が自分を気にして萎縮したり反発したりするのが楽しいからなの。露骨にご機嫌とるような部下もいるけど、それだけが必要なんじゃなくて、自分の影響力を日々実感することが重要なの。
 僕は仰天して、なんで、と言った。全裸同僚は、ずっと服を着ているからだ、と断定した。いやそれはぜったいちがうと思うけども。

お父さん、どうかそのままで

 疫病が流行しているのでよぶんな外出を控えるようにという通達が出された。現在はワクチンが供給されて接種が促されている段階である。
 僕の父親は今どきの感覚ではそれほど高齢というわけではないが、PCを使ってワクチン接種の予約ができるとは思われなかったから、僕が代わりに申込みをした。「ワクチンの予約を取っておいたから」と言うと、父親は電話越しに僕を怒鳴りつけた。想定内である。

 父親は誰かに何かしてもらうとだいたい「余計なことを」という態度でいる。正確には「してもらった」状態が顕在化されると不機嫌になる。たぶん、父親の世界では、川が流れるように自分に都合のよい状態が整えられているべきなのである。「できないだろうと思って代わりにしてあげた」という僕の態度は親に恥をかかせようとしているようなもので、言語道断なのだ。
 父親は年をとって、あるいは疫病禍の影響でそういう気質になったのではない。それが通常営業というか、僕が覚えているかぎりはそういう人間である。母親はいかに父親の気に入るように父親の世話を焼くかということに腐心して、十年前に人生を終えた。平均寿命よりかなり早く人生を畳んだのは、四六時中父親の不機嫌のタネを探し回って先回りして対処していた、その心労が祟ってのことではないかとも思う。
 思うが、だからといってそれについて父親を恨んでいるのではない。母親は父親から離れて生きることも可能だったのにそうしなかったのだから、本人がそのように生きたかったのだろうと思う。本人はぜったいにそうは言わなかったけど。ていうか、選択するとか意思を持つということを、たぶん一回もしなかったんだと思うけど。

 母親が死んでから父親は近所のスナックのママに身のまわりの世話をさせていたが、疫病を理由にして彼女も去ったようである。退職して家も売りはらってマンションに越してしばらく経つから、いよいよ金がなくなったのだろう。そうなったらスナックのママにとっても父親の世話をするメリットはない。
 そんなわけで父親は悲憤慷慨し、近ごろは宅配弁当(もちろん僕が手配したものだ)がまずいと言い張って業者さんに迷惑をかけている。僕は恐縮して業者さんに謝って宅配停止の申し入れをしたが、担当さんが天使みたいにやさしい人で、「そうは言っても召し上がっているようですから」「今からご自身でお食事を用意するというのは現実的でないでしょうから」と宅配を継続してくれている。

 父親のこういう性質を「昔の人だから」という親戚があるが、昔というほど昔の人ではない。父親の世代でも自分のことは自分でやる人間なんかいくらでもいる。僕の父親は身のまわりのことができないのではない。「目下の誰かが自分の身のまわりの世話をすべきであって、そうでないなんて間違っている」という考えを捨てられないのである。
 父親はたぶんワクチンを打たない。道に迷っても人に尋ねられないのだ(母親が生きていたときは母親が道を尋ね、母親のナビゲーションが悪いと怒鳴っていた)。ワクチン接種会場でおろおろするなんて絶対に嫌だろう。
 でも僕は父親を迎えに行って接種会場まで付き添いしようとは思わない。健康で長生きしてほしいなんてとうの昔に思えなくなった。残念ながら僕の父親は威張り続けていないと死ぬタイプの生物だった。そして、愛さなくちゃいけないと思いこむほどのかかわりもなかった。
 僕は僕の母親と違って父親から威張られることを生きる手段にしようと思えない。父親におもねっていれば経済的にはもっと楽ができたかもしれないが、どうしてもその気になれなかった。父親のああした性質の要因のひとつはたぶん「男だから」で、性染色体XYの人間としては「一緒にすんな、おぞましい」という嫌悪感も感じる。もっとも、僕が女だったら生育上もっと強い負荷がかけられただろうし、大人になってからの「世話をしろ」というプレッシャーはさらに強かっただろう。男に生まれてよかった。

 そういうわけで「お父さんが心配じゃないの」と電話をかけてきた親戚には「心配じゃないです」と言いたい。実際には「僕もできるかぎりのことをしているのですが」と答えたんだけど、その実態は「世間からギリギリ『息子さんも気にしてあげてたんだけど』と免罪される程度のことをしています」である。僕がいま守っているのは父親の命ではない。自分の最低限の評判である。
 今更父親が改心したりしたら面倒だなと思う。僕の感情を動かさないあの性質のまま、天寿をまっとうしてほしいと思う。お父さん、どうかそのままで。

ここから出たくない

 疫病が流行しているのでよぶんな外出を控えるようにという通達が出された。それから一年半、わたしはかつてなくラクな日常を送っている。生きるってこんなに気楽な、快いものだったのかと、誰にも言わないけど、毎日そう思っている。

 その状態を「不安」と名付けたのはわたしではない。わたしにとってそれは常に感じるものであり、デフォルトだった。子どもだったからそんな言い回しは知らなかったけれど、でも「不安になりやすい」と名付けられたときにはひどく驚いた。だってわたしはいつもそうだし、内面がのぞけないけれど実際にはみんなそうなのだろうと思っていた。
 わたしは不安な子どもであり、不安な思春期を過ぎて、不安な大人になった。子どもだから、思春期だから不安なのだと言う人もいたけれど、彼らは何もわかっちゃいないのだ。これは性分であり、わたしのデフォルトなのだ。

 ある意味でそれは正しい、とわたしの数少ない友人が言った。今こうして向かい合ってお茶をのんでいてわたしが突然あなたを殴る可能性はある。可能性というのはそういうものだ。何にだって可能性はある。テロ集団が手榴弾を投げつけてくる可能性もある。ダンプカーが突っ込んでくる可能性はもっとある。地震や火事が起きる可能性はもっともっとある。不安になって当然だ。可能性があるんだからね。
 でもあなたみたいなごく一部の人をのぞけば人間はある意味で非論理的な楽観性を持っている。そこいらの人間は自分に危害を加えてこないと思っている。わたしが一緒に暮らしている男なんか高校生の時分まで人を棒で殴ったり殴られたりしていて、えっと要するに剣道部出身ということね、それで平気で暮らしていたのよ、決められたルールの外で人間が自分を棒でたたくことはないと信じているから平気なのよ。あなたはそういうの信じられないでしょう。
 信じられないというか、理解できない。スポーツのルールは理解できるけれど、それを好んでやることは理解できない。恐ろしい可能性が多すぎる。わたしがそうこたえると、うん、と友人は言った。あのさ、わたしはたとえば知り合ったばかりの男の人とデートして相手の家に行くとだいたい「こいつがわたしに危害を加えようとしたらこういう経路で逃げよう」と考えるんだけど、あなたはどう。
 考える、でもみんなが考えないらしいことは知っている。わたしがそう答えると友人はうっそりと笑い、「みんな」じゃないよ、と言った。人間の形をしている存在に危害を加えられたことのある人間はその種の不安が強くなるんですよ。あなたの場合はそうじゃなくて性分なんだろうけど。

 わたしの不安は筋金入りで、「誰かにどうにかしてほしい」などという甘えた気持ちはないので(なぜ赤の他人にそんなことが期待できるのか)、他人に不安感をアピールすることはない。自分なりの対策を立ててさまざまな工夫をこらして社会生活を送っている。
 でもその工夫の八割が突然必要なくなった。疫病が流行したためである。

 会社からも電車からも人間が減った。わたしは幸いにも(ほんとうに幸いにも)週に三日はリモートワークができ、出社時も電車が混んでいない時間帯を選ぶことができる。その上会社にもあまり人がいない。電話対応は特定の番号に集中させたので、不規則な音声もぐっと減った。もう最高である。
 わたしはそもそも物理的に近いところに他人がいることが愉快ではない。不安感を制御したところで不快感は残る。簡単に言うと、パーソナルスペースがものすごく広い。いちばん嫌いなのは狭い会議室である。肩が触れあうような距離感で座る人がいちばんいやだ。混んでいる電車が嫌いなばかりに、雨でなければ一時間歩いて通勤していたほどである。
 しかし人間と人間が近くに寄ることは社会悪になった。夢にも見なかった素晴らしい世界がやってきた。寿命が延びた気がする。

 そんなわけで現在のわたしのもっとも大きな不安は疫病収束後の社会である。ソーシャルディスタンスが廃止されたらどうしよう。いや制定されたわけではないので廃止というのは変だけれども。
 わたしの会社は引き続きのリモートワークを認めてくれるだろうか。狭い会議室に行かなくていいだろうか。

 人がたくさん亡くなってみんなが不自由しているのにわたしはこんなにも今の世界がうれしい。そのことに後ろめたさがないのではない。だからよほどの仲の相手以外には言わない。言わないけど、わたしは今のこの世界から出たくない。

棒で人をぶちたい

 疫病が流行しているのでよぶんな外出を控えるようにという通達が出された。それから一年半、僕はわりとがんばったほうだと思う。知らない人と話すのが好きだから飲み会の代わりにZoom読書会とかに出て、新しい趣味をはじめてそれを発信して趣味のネット友達を作って、同僚との何気ない会話の機会を作るために思い切って何人かを通話に誘ったりもした。
 だから会話の量自体はそこそこキープしている。えっと、それでも足りなくて特別仲の良い友達と彼女と家族にはめちゃくちゃ話を聞いてもらってるんだけどね。僕もともとすごいおしゃべりで、それで会話の相手が減っちゃったわけだから、身内が命綱状態ですよ。毎日毎日、保育園から帰ってきた幼児みたくその日にあったこと全部しゃべってて、この段階でコミュニケーション的に恵まれているとは思うよ、このご時世にさ。
 でももうダメ。僕はもうだめだ。飲み会に行きたいよう。酒が飲みたいという意味ではなくて、複数の人間がざわざわしているところであれこれ話しかけたりしたいよう。

 Zoomとかアプリで話すと言語と表情くらいしかやりとりできない。最初はそれでじゅうぶんでしょと思ってた。それほど親しくない相手なら物理的に目の前に存在している必要はないんじゃないか、くらいに思ってた。セックスするわけでもないしさ。
 ところが物理的存在というのは実に雄弁なのだ。情報量が段違い。久しぶりに対面で親しくない人間と雑談したとき俺泣きそうになっちゃったもん。相手はとくに好きでもない上司で、彼のフィジカルを個人的に好ましく思ったことは一度もないのに、目の前にいて話していることが無性に嬉しく、「ああ人間と話している」「感情をやりとりしている」という感じがした。内容は業務上の些末な話なのに。
 僕はおしゃべりで、自分の状況や気持ちを言葉に乗っける能力は高いほうだと思うんだけど(それやらないと友達できないから。友達いないと死ぬんじゃねえかっていうほどおしゃべりなんだよ)、でも言葉とモニタにうつった表情だけでは、伝わらないんだ、と思った。何がって、うまく言えないけど、存在?

 存在。
 僕の趣味の一つにアナログゲームがあって、同じルールのゲームをオンラインでしてもどうもしっくりこない。オンラインゲームも好きだけど、アナログとは別物だと思う。
 存在。
 オンラインにだって人間の言葉や(カメラオンなら)表情が存在しているのに、僕はどうやらそれだけでは人間の存在を強く感じられないみたいだった。

 そのようにうっすらと鬱屈を抱えてしばらく思案していたら、ある日朝起きたとたん「人を棒で打ちたい」と思った。顔を洗ってダイニングに行って彼女にそのまま話したら「え、引く」と言われた。まあ聞いてくださいよ、引きながらでいいからさ。
 僕は小さいころから高校を出るまで剣道をやっていた。礼と所作が身につき体力がやしなわれるので大人受けは非常によかった。でもそれはそれとして、僕がやっていたのは週に何回も棒で人をぶったりぶたれたりすることだった。こういう言い方すると関係者にめっちゃ怒られそうだけどまあいいや。
 棒は堅くて人に当たると痛いです。防具がついているから痛くないだろうと思っている素人さんも少なくないんだけど、防具って金具がついてない部分はただの革ですからね。脳天にバチーンと打ち込まれたやつが脳しんとうを起こして倒れたりするんですよ。
 僕は剣道のそういうところが好きだった。他人とおおむねうまくやれておしゃべりで元気で成績もよくて問題のない子どもにだって、魂の中に薄暗い部分がある。僕は陰鬱な小説を読みつつ棒で人をバンバンぶったたくことで自分の魂と折り合いをつけていた。たぶん。

 大学生ともなると棒で人をぶたなくても他者の(なんていうか「存在」と)接する機会はいくらでも作れる。もっと大人になって経済力がついたら未知の場所に旅行することだってできるーーうまく言えないんだけど、旅行は「存在」と接する場のような気がするんだよな。僕がやってた旅行がバックパッカー系だからかもしれないけど。
 でもそれらはうしなわれた。少なくとも当分のあいだ、僕は知らない人と話し込んだり大人数と雑談したりできない。だから僕はまた道場に行くべきなのだ。そして棒でぶったりぶたれたりするのだ。
 そのように力説すると彼女はメイクしながら生返事をし、野蛮、とつぶやいた。野蛮な男はお嫌いですかと訊くと、つまらなそうに、好きですよ、とこたえた。