傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

わたしのいくらかの信仰

 伝統宗教にも新宗教にも属していないという意味では無宗教だが、だからといって自分に信仰心に類するものがないとは思わない。たとえば和室のある家に入ったら畳の縁は踏まないし、自宅の箸や茶碗はメンバーごとに専用のものを使うという感覚がある。
 わたしは、科学的な根拠のない習慣と宗教の区別を、最後の最後でつけることができない。超越者の存在を信じるか否かで区別していたのだけれど、仏教のお坊さんの中には「頭にぶつぶつがある、あの仏さまが実際に存在すると思っているのではない」と断定する人もいたし、他の宗教の聖職者ポジションの人も同様のせりふを言っていた。そうなると生活習慣と宗教の区別が、わたしにはつかないのだった。
 そう、慣習やタブーの意識は、わたしにとって宗教に近い。
 箸なんか洗ったらきれいになるので、家族のものを使ってもまったく問題はないはずなのだが、試しにやってみようとするとなんともいえない居心地の悪さがある。そういうものを、ここでは広く「信仰」と呼ぶことにする。

 若い時分はそういうのはぜんぶとっぱらっちゃえばいいんじゃないかと思っていた。科学的根拠のない習慣のすべてに対して、「その文化圏でうまくやりたければ同調しなければならないが、内面化する必要はない」と思っていたのである。
 そのように考え、愛についても検討した。たとえばわたしは対等な一対一の恋愛関係を指向するが、これだって幻想である。べつに三人で恋人同士になったっていいだろう。
 しかしわたしは排他的な二人一組の幻想を、どうやら信仰しているのだった。その信仰がたしかであるのか検証するには三人でつきあってみないとわからない、とも思ったが、その機会はなかった。
 「対等」にいたってはそれ以上に幻想の度合いが高い。経済的な背景などがないと仮定して、当事者全員の自由意志による隷属の何が悪いかと問われれば、「悪くないです」としか言いようがない。自由意志をもって誰かのセカンドポジション(愛人とか)をやったりハーレムを形成したりするのもその人たちの自由である。「おまえもそうしろ」「一対一? だせえ」などと言われるのでなければ、わたしは黙っていたらいいのである。

 三人でつきあってみるのは、相手が見つからないという意味で難しいが、畳の縁なんか踏んでもいいと決めて実行するのは容易で、おそらくすぐ気にならなくなる。
 しかしその調子ですべての科学的根拠のない慣習を手放すと、わたしは少しずつ、この世から遊離してしまうのではないか。そんな気がするのである。法律だってそういう慣習をもたらす信仰的な何かを取り入れて作られているのだから、真のノー幻想パーソンになったら、法律を守る動機づけも減るだろう。わたしは、無法者をやれるほど強い人間ではない。
 だからわたしは、いくらかの信仰を持っていよう。そして他人の信仰には口を出すまい。
 そう思う。
 同時に、他人が自分の信仰に積極的に口を出してきたら、戦うことも必要だ、と思う。個人的な「宗教戦争」をやるべき時はあると。

 たとえばわたしは「女性は結婚すると幸福になる」という幻想が提示されたら、拷問されてもうんとは言わない。法律婚は任意に締結する民事契約である。幸福とは関係ない。自分が女性とされていることに特段の異議はないが、それだって「そういうことになっているらしいですね」という程度のもので、そもそもそんなに区別する必要もないと思っている。
 わたしはそのような信仰を持っており、しかし一方で結婚を「聖なるもの」とする人もたくさんいる。そして彼らの中には、自分の信仰にしたがわない人間にひとこと言わずにはいられない人がけっこういるようなのである。彼らはわたしに「結婚しているのか」と問い、結婚式や新婚旅行の検討すらしなかったことや結婚指輪をつけないことをいぶかしがって、「まあともかく、結婚できてよかったね」と言う。
 したくてしたのではない。住宅ローンの都合でやむなくしたのである。わたしは幸福だが、それは結婚とは関係がない。わたしはわたしのパートナーをとても好きで、できることならカネなんか関係ないところでずっと一緒にいたかった。
 しかし彼らはそのような言い分を許さない。結婚は幸福でなければならないと、彼らは思っている。「しかたなく結婚した」と言う人間を、とくに女性を、彼らは許さない。そんなのわたしとわたしのパートナー以外に許すも許さないもない、とわたしは思う。
 わたしにとって、それはとても大切なことである。だから彼らにうなずかない。「こういう考え方の人間を、いないことにさせない」と思う。

効率の領域

 ふだん行かない部署を訪ねて、タスク管理ツールの使い方を教えてもらう。わたしの親しい同期の現在の配属部署で取り入れられて、「他部署の人でも、仕事で使わなくても、タダで教えてもらえるよ」と聞いたからである。
 本を読んでひとりで勉強するのも良いし、今はあちこちの企業や教育機関が無料で公開している動画もある。だからたいていのことは低コストで自習できるのだけれど、それはそれとして、目の前に人がいてしゃべってくれるとやけに学習効率が良いのである。どうしてかはわからないが。
 導入担当の社員はわたしよりいくらか若い男性で、まだ小さい子がいるのだそうだ。それで、仕事のために覚えたタスク管理ツールを家庭生活でも使っているのだという。とにかく時間がなくて、管理しないと混乱するんすよ、と彼は言う。たとえば子どもの成長と性質にあわせて商品を買う。そしたら、週末の買い出しパターンも定期便の品目も買ったものの収納や入れ替えサイクルも、予算立ても、みーんな変わるじゃないですか。そういう小さい変化が、生活のぜんぶに及ぶじゃないですか。「これにこんな時間かかるの? 言ってよー」ってなりませんでした?
 わかる。子どもが小さいと細かいタスクと判断が大量にあるし、すぐ成長してフェーズが変わる。頭が「わー」ってなる。
 わたしの子はもう中学生だから親としてのタスクはだいぶシンプルなんだけど(子が自分で起きて自分で寝て何でも食べて自分で学校や塾に行って自分で宿題をやったりやらなかったりする、それだけで親の判断の数が減る)、受験の準備がはじまったから、また親が管理するものごとが増えるかもわからない。

 ちゃんとした人ですねえ、とわたしは言う。人生の効率がよさそう。
 それを聞いて彼は眉と視線の角度をわずかに上げ、それから社交的な苦笑を浮かべて、言う。あの、おれのことコスパタイパくそ野郎だと思ってません?

 わたしは声を出して笑い、いやいやいや、と手を振った。ただのコスパタイパくそ野郎じゃなさそうだな、って思いましたよ。
 すると彼もげらげら笑って、通じすぎ、と言った。楽しい人物だと思った。
 そのようにしてわたしはその社員と、ときどき話をするようになった。

 彼は言う。
 おれの言う「コスパタイパくそ野郎」は、自分の欲と意思と目的でもって効率を必要とする領域を決めることしないやつをさします。短時間と低コスト自体に価値を置いている愚か者のことです。
 おれは映画が好きで、映画を早送りで観ない。でも早送りする人をとやかく言うことはない。なぜならその人たちの目的は映画に没入する時間ではなく、映画を多くチェックすることで得られる別の何かだからです。それなら倍速でも切り抜きでも使ったらいい。SNSでそれらしい感想を見つけて「自分の意見」にするのも効率的でいいと思うよ。おれも趣味のキャンプの道具なんかを紹介する動画は倍速で流します。自分の楽しいキャンプのために新しい道具をチェックしたいので、その動画を閲覧するのが目的なのではないから。
 子どもの養育環境を効率的に整えるのは何のためかといったら、空いた時間で子どもと一緒に意味のない遊びや昼寝をするためです。家の運営をシステム化するのは、おれと奥さんが各自ぼけっとしてマンガ読んだり一緒に全然ためにならないバラエティを観ながらぜんぜん健康によくないビールを飲んだりする時間を作るためです。
 仕事だってそうです。成長とかスキルアップとか、別にしたくないです。嫌悪感のないジャンルで苦痛が少なくていくらかは楽しくて長時間じゃない労働をして、それでもってそこそこのカネがほしい。そんだけ。そのためにやってることを「成長してるね」みたいに言われるとダルい。「成長」すればエライと思ってる連中と一緒にすんなよって思う。
 嫌いなんすよ昔から「エライ」ほうばかりを選ぶ連中。偏差値だけで選んだ大学の偏差値だけで選んだ学部に行ってランキング上位の企業に就職してグラビアアイドルとでも結婚してろって思ってた。あ、すいません、これぜんぶ男の話です。おれ男子校だったんです。

 グラビアアイドルと結婚する男性に対する偏見がすごい。あと、今はどちらかといえば「自分と同じくらい稼いでくれて、でも自分よりは上ではなく、『育ちがいい』美人」みたいな女性のほうが、いわゆるトロフィーワイフとしても価値が高いのではないか。
 わたしがそのように言うと、同じことですよ、と彼は言う。まあね、とわたしも言う。

きみはラリらずに生きていけるか

 二十代前半くらいまではいろんな経験が少ないから、何をやってもテンションが上がった。大学生のころなど、今にして思えば些細なことで脳内麻薬がばんばん出ていた。
 旅先の景色はいつも新鮮で、恋愛は比喩でなく「死んでもいい」ほどのもので、友情は永遠の輝きを宿していた。読む本にいちいち驚いたり泣いたり狼狽したり、そりゃあ忙しかった。ものを知らなかったから、世界を説明するための概念ひとつがどれだけ感動的だったことか。
 今はそうではない。
 旅行は飽きないように頻度を減らしているし、恋愛の高揚は平熱の愛情に着地して、友人関係なども平和なものである。本を読んでいても、しばしば「ああ、こういう系統ね」と思う。遭遇するたいていのできごとが予想どおりの結末に向かう。そんなだから、近ごろのわたしの心拍数の標準偏差はとっても小さい。
 「こうして人は大人になるのだ」といえば、まあそうなんですけど、「それをこそ幸せというのだ」というのも、わかるんですけど、三十になろうが四十になろうが、何なら七十になろうが、たまには「うひょー」系の気持ちよさ、ほしいじゃないですか。わたしはほしい。

 「うひょー」となって気持ちよくなっちゃうあの感じは、たぶんドーパミンとかそういうのが出ている感覚に依拠するんだろうけど、年をとるとそれを味わう機会は減る。経験が増えて飽きを覚えるし、体力も減るからだ。それはもうしょうがない。しょうがないんだけど、少しはほしい。
 年をとって落ち着いたあとの年代に向いた幸福感はあって、たとえば子どもが育っているとか、熟練の技能があるとか、満足のいく業績がたまったとか、長い時間をかけてほしいものを手に入れたとか、そうしたことは主に年長者の楽しみだと、そうは思う。思うが、それらはドーパミン系の楽しみではない。じんわりといいものである。テンションは上がらないでしょう。上がる人もいるのかな。
 上がらないんですよ、わたしは。わたしの手持ちのカードでは。少なくともしょっちゅうは。

 多幸感を求める気持ちが「少し」じゃないとき、人間は病的な行動をするんだろうなと思う。
 いちばん簡単に多幸感が味わえるのは薬物である。日本ではアルコールがいちばん使いやすい。ひどく容易に気持ちよくなるので気味が悪くなってあんまり飲まなくなった。だって、結局のところ、薬物の楽しみって、孤独なものじゃないですか。わたしは孤独を好きだけど、薬物の孤独は好きじゃない。あと健康によくない。健康でないとき(宿酔いとか)の身体の不快感が薬物の快感を上回ってしまう。身体頑健でしょっちゅう薬理作用にひたっていても孤独にならない(あるいは孤独でもかまわない)なら死ぬまで薬物でドーパミン出しててもいいんだろうけども。
 薬物ではないけれど薬物に近いはたらきをするものもたくさんある。人間の脳はいろんなことで麻薬を出してくれるようだ。何なら食べ物で多幸感を得る人もいる。しかしわたしはこれにも適性がない。贅沢な食事は好きで、ときどきファインダイニングをやるのだが、わたしの場合、あれは冷静さをともなわなければできない掛け算である。「未知の味覚かけるシチュエーションでの高揚かけるアルコール、文化的な読み解きの楽しみを添えて」である。我を忘れるようなものではない。

 そんなわけで、最近は運動をしている。走りこむと脳内麻薬が出るからだ。中高生のころに陸上をやっていたので、十五歳から進歩がないともいえる。
 地味な人生である。ドキドキしたいからといって志願兵になって戦場に出て行く度胸も能力もない。
 結局のところ、ラリらずに生きられるように自分を訓練するしかないのかもわからない。だってわたしは、酒や美食で身をほろぼすことにも、いつまでも劇的な恋愛を求めることにも、適性がなかったからだ。
 身も世もない快楽をもたらすものって、あと何があるかな。ギャンブルでもやってみようかな。ハイリスクな金融商品を買うとか? でもわたしのささやかな余剰資金で買ったってドキドキしないよな。お酒とかのパターンと同じじゃん。借金して買うくらいじゃないとヒリヒリするわけないんだよ。でも借金するほどの、健康をそこなうほどの、命をかけるほどの魅力を感じる対象が見つからないんだ。破滅的快楽に手をのばす才能がないんだ。

 みんなはどうやって折り合いをつけているのかな、と思う。それとも、折り合いなんて必要ないのだろうか。みんなは最初から、ラリらずに生きていけるのだろうか。いい年をして「どうにかしてラリる方法はないかなあ」などと思っているわたしとは違う構造の精神を持っているのだろうか。

愛の純粋さを希求する

 僕はしみじみとした気持ちで、「ぜったいに損をしたくないんだね」と言う。相変わらずだなあ、と思う。
 この後輩は、「結婚は民法上の契約で、愛とはまったく関係のないものだ」と思っている。そうして「民事契約のごときものに、自分の愛が影響を受けていいはずがない」と思っている。世間では愛と結婚が結びついていることになっているが、そのお話は自分には無関係だと。自分の愛と自分に向けられる愛だけは、愛として独立していなくてはならないと。
 この後輩は愛というものをやたらと純粋にとらえているのである。この場合の純粋というのは「他の要素に影響されない」という意味である。そんな良さげなもんでもないだろうとも思うので、なんか他の言い方があるといいんだけど。
 事情があって法律婚をするなら、絶対に損をしたくないし、相手に損もさせたくない。二人して得をするのはかまわないが、片方だけが得をするのはいけない。
 愛はお金なんかに左右されてはならない。愛は、個人の意思にのみよって継続されるものでなくてはいけない。少なくとも自分の愛は。
 後輩はそのように考えている。若いころに聞いた。

 この後輩は以前、僕の友人とつきあっていたのだけれど(僕が紹介した)、高価な贈り物を嫌い、「買われているようでいやだからやめてほしい」と言ったのだそうだ。友人は非常に裕福な家に生まれた人間で、どうも恋愛におけるお金の流れに対して何らかの屈託を抱いていたらしい。それで後輩の変な態度(変だよね、おれならもらえるものはもらっとくよ)に感激していた。そうして僕は後輩の「愛は意思によってのみ継続するものでなくてはならない」という信念を把握したのである。
 友人が結婚をしたがった段階でこの二人は離別した。まあしょうがないよなと思う。だって後輩は給与所得のほかに何の収入もなく将来の遺産のあてもない女性で、結構な資産のある家の、不労所得のある人間と結婚したら、たいそう得をしてしまう。後輩とつきあっていた僕の友人は子どもをほしがっていたから、なおさらである。女性である後輩が仕事をおさえて出産育児をし、キャリアが毀損されたところで相手を嫌いになったとしたら、カネのためにくっついている期間が発生しかねない。
 この後輩はそのような可能性のある関係は絶対に嫌なのである。
 そんなの九割九分「いざ」とはならないんだから、そっちに賭けりゃあいいのにねえ。
 僕はそのように思ったものである。まあお互い恋人としては潮時と感じていたのかもわからないけど。
 ところで、僕は犬を飼っていて、飼いはじめてすぐのころ、この後輩にも写真を見せた。どうだいかわいいだろうと言うと後輩は「かわいいですね」と言ってにっこり笑った。そうして言った。でも子犬ちゃんのお世話はたいへんでしょう。やんちゃな子ですか、それともおとなしい?
 感じのいい笑顔だ。確実に作り笑いである。ふだんはそんなさわやかな表情をしない。おおむね仏頂面をしている。
 まあまあ、と僕は言った。ぜったいに気を悪くしないと誓うからさ、犬を飼うことに関して、きみの本音を聞かせてほしいんだ。辛辣な意見でかまわない。きみの考えに興味があるからね、なるべく率直に頼むよ。極端なやつでかまわない。というか、それを期待している。
 後輩はしばらく逡巡してから、では言います、と言った。可愛がるためだけに動物を飼うなんて、グロテスクなことだと思います。生殺与奪の権をにぎられた動物が自分に従うことを愛情と呼ぶなんておかしいと思います。
 僕はげらげら笑って、後輩の肩をばんばんたたいた。いいぞいいぞ、徹底してんなあ、期待どおりだ。

 もちろん僕は後輩とは異なる考え方を持っている。かわいがるためだけに犬を飼うし、誰かが高価なプレゼントをくれるというなら断らない(もらったことないけど)。
 僕の配偶者には障害があって、フルタイムで働くことができない。子どもを育てる自信はないとのことで、僕も自分メインで育てる自信はなかったから、うちに子どもはいない。僕は料理が好きだから、夕食は九割がた僕が作っている。お金を使うことに遠慮してほしくないので(法律婚をする前から)贈与税が発生しない範囲で相手名義の通帳に自分の給与をうつしている。
 あの後輩は知らないのだと思う。好きな人を囲い込んで、自分なしでは途方にくれる環境を作り上げることの、目がかすむような幸福を。
 僕はおそらく、そのような自分を、どこかで少しだけ後ろめたく思っている。だからばかみたいに自分の信念にのっとって生きている後輩の話を、ときどき聞きたくなるのだと思う。

絶対に損をしたくないんだね

 法律婚という制度が嫌いで使用していなかった。しかし、一年ほど前に、現実的な利点に敗北して籍を入れた。具体的にはマンションを買うにあたって金利が有利なペアローンを組みたく、パートナーから「これはもうしょうがないんじゃない?」と言われて合意した(パートナーはもともと結婚したいタイプの人間である)。
 それ以来、自分のことを「自分の理念や気分よりカネを優先したあわれな人間であるなあ」と思いながら生きている。自分の心より優先するものなんかないと思って生きてきたのに、カネのほうを大事にした。そうして、パートナーと自分の財産関係を明瞭にし、たとえば別れるとしても双方に経済的な不利益が発生しないよう契約書を作成し、それから区役所に行った。せめてもの自分へのなぐさめである。
 結婚がらみでなんとなく連帯感を持ってときどき雑談をする職場の先輩がいる。わたしと同じく法律婚という制度に納得がいかず、パートナーと書類上の関係を作らずに同居して生活していた人である。
 その先輩がとうとう結婚制度を使用したと聞きつけたので、わたしは下衆な笑顔を浮かべて彼に近寄り、言った。先輩も利便性に膝を屈しましたね。やっぱりあれすか、住宅ローンすか。
 先輩は言った。いや、うちは生涯賃貸のつもりだよ。結婚したのは単に年とって、死がリアルになったから。僕が死んだあと、あの人に円滑に資産をぜんぶ受け取ってもらうためだよ。僕ちょっと複雑な生まれで、どうやっても不安が残るからさあ。もちろん、そんなのはおかしいんだよ、使いたくても使えない人がいることを含めて、おかしい、そのおかしい制度を使いたくなくてうちはずっと結婚してなかったんだけど、それはそれとして、「わりとすぐ死ぬかもしれない」と思うようになったら、僕が死んだあとの不安を排除したい気持ちのほうが大きくなったわけ。つまり、トシのせいです。
 なるほど、とわたしは言う。先輩は口の端だけを上げて、言う。
 きみはいつ別れてもお金で揉めないようにしたんだもんね。
 絶対に損をしたくないんだね。

 わたしは不意をつかれて眉を眇め、言う。損したくないです。利便性に負けて気に食わない制度を使うのに経済的な不利益の可能性を残してどうするんですか。
 そうだねと先輩は言う。きみのところは、家事を分担して、二人して稼いで、そんなふうに、フェアなカップルなんだよね。そりゃ、結婚したって損しないようにするだろう。

 わたしはぽかんとした。なんか悪いことしてるみたいな言い方である。
 先輩は言う。
 きみは、相手に何かあったら、たいていのことはしてあげるだろう。相手がお金に困るようなことがあれば、あげるだろう。そういう情はあるほうでしょう。
 でもそれは、相手がきみと同じように戦えて、きみに対してずるいことをしない人間だったという実績あってのことなんだろうなと、そう思ってさ。最初から相手が自分に助けてもらう立場だったら、相手を自分の人生の中に入れることを、きみはしないんだろうなと思ってね。いや、いいんだ、それは良いこと、正しいことだ。女性に生まれてそのための不利益を経験してきたならなおのことだ。とても、いいことだよ。

 わたしはなんとなく理解したような気になる。おまえはおまえが偶然得ている(まったくたいしたものではないが、言ってみれば)強者としてのポジションを自覚しろ、というような話なんだろうと思う。たまたま職に恵まれて生活を回すのに不自由がない、それを前提にしてものを言っていると。世の中そんなのばかりじゃないとわかった上で偶々ひろった幸運にあぐらをかいている傲岸な人間として生きろよ、と。
 わたしはそのようなことをオブラートにくるんで言う。先輩はまた、ちょっと笑う。

 いや。うん。そうかな。
 いや。そうかな。
 それはそれとして、別れても損をしない状況を作るという発想が、僕にはなかった。何年も一緒に生活しているのに、自分に対してひどいことをする人じゃないとは思わないんだなって。
 わたしはまた不意をつかれる。あの、と言う。今は、思わないです。そうじゃなかったらペアローンなんか組まないです。相互の連帯保証人ですよ。理不尽なまでに楽観している。そして、わたしも相手も気持ちが変わる可能性はあると思っている。だって、生きてるんです。気持ちも性格も、変わるでしょう。変わらない部分もあるかもしれないけど、自分に都合のいいところだけ変わらないと思うのは、おかしくないですか。
 おかしかないよと先輩は言う。それから昨夜の晩ごはんの話をはじめる。

それは装置として埋め込まれている

 それはわたしの内面の底ちかくに装置として埋め込まれている。
 その上に乗っかるようにしてわたしの人格が形成されている。それを取り除くことは、だからほとんど不可能である。それは時に煙のような憂鬱を吐き、時に極端な行動力をもたらす。
 その装置とは、「わたしは自分の意思で死ぬことができる」という信念である。
 生育環境の問題で発生した装置だ。しかし、個人の性格を構成する要素のおよそすべてがそうであるように、わたしと類似する生育歴の人間のすべてに発生するものではない。だから、たまたまやってきたものだ、ともいえる。

 自我の確立していない子どもは、自分の頭の中が自由だということを知らない。誰かに覗かれているような気持ちと、誰かの規則にしたがわなくては生きていられないような気持ちがある。生育環境が良好であればそこに「守られている」という感覚が加わるのだろうが、わたしにはそれはなかった。
 小学校の低学年が終わるころ、遅ればせながら、学校では強制される内容が極端に少ないことに気づいた。大人の感覚では小学生は不自由だが、わたしの生家での不自由はそれどころではなかった。わたしにはしょっちゅう手を動かしていないと終わらない量の家事や介護に関連するタスクが課せられており(たとえば床を拭くこと、家族七人分の皿洗いをすること、歩行に問題が出ていた祖母の杖として歩くこと。水仕事をしすぎて、冬でなくても手指の関節がすべて派手に割れていた)、何より口をきくごとにその内容を修正された。それはしばしば長時間の嘲笑と罵倒をともなった。
 本を読んでものを考えているときだけが楽しかった。集中してそれができるのは夜中に布団の中で懐中電灯を使って本を読むときだった。そのほかの時間はいつ何をいいつけられるかわからなかった。
 それに比べたら小学校はほんとうにラクだ、とわたしは思った。授業中に簡単な作業をするだけでよく、それ以外はぼんやりと別のことを考えていてもバレない。
 だからわたしは、死んだらラクになれると思っていた。何もいいつけられず、何もさせられず、何も修正されない。死は希望だった。祖父が死んだのがわたしの八歳のときで、そのときに死の何たるかを理解した。死んだ人がひどくうらやましかったことを覚えている。だって、死んでいれば、なにもしなくていい。
 そうしてある日、突然に気づいた。十歳のときのことである。
 わたしには死ぬ自由があるのだ。頭の中で死の準備をしても、誰にもバレないのだ。嫌なことは拒絶して、拒絶しきれなかったら死ねばいいのだ。そのほうが今よりずっとずっとラクだ。
 こんなに素晴らしいことがあるだろうか。わたしの頭の中はわたしだけのものなのだ。おもてにさえ出さなければ、どんなにひどいことを考えていても、「わたしじゃなくて親が死ねばいいんじゃないか」と思っても、バレないのだ。わたしは何を考えてもいいのだ。

 陰惨な子どもである。それはまあしょうがない。世の中にはさまざまな家庭環境があり、わたしはハズレを引いた。その上、親に媚びて環境を改善するような性格に生まれつかなかった。だからしょうがない。
 わたしは死という希望を握りしめ、頭の中の自由より尊いものはないという感覚で「何もいいつけられず、罵倒されず、身体を触られない」ことを最大の目標として思春期を過ごし、早々に家を出て大人になった。家の外の世界はラクなところだった。子どもを資源として活用する親はたいてい子どもを手放さないものだが、わたしは「ダメだったら死ねばいい」と思っていつまでも刃向かう不気味な少女だったから、早々に手放された。ラッキー、とわたしは思った。

 陰惨な人間である。それはまあしょうがない。起きてしまったことの上に人間ができあがるのだから、わたしはこの仕上がりでしかありえないのである。別の経験をしたら別の人間だろう。
 だからわたしには、ときどき「死ななくていいのか」という声がやってくる。「ダメだったら死ねばいいや」と思って蛮勇をふるって生き延びた人間は、自分が生き延びたのはたまたまだということを知っている。努力とか才能とか、そういうのではない。ただの運である。
 だから自分でない人が若くして死んでいると、どうしてそれが自分でないのかと思う。
 もちろん、それはたまたまである。
 わたしにはそのような出力をもたらす装置が埋め込まれている。死ぬまで一緒にいるのだろうと思う。ここまで生きたのだから長生きをしようと、気休めのように思う。

ほうれん草の下ゆで、いつ覚えた?

 三十近くまで知らなかったんすよ、ほうれん草は基本、下ゆでが必要だって。みんなどこで習うんすか。おかげでおれはほうれん草があんまり好きじゃなかったんすよ。そのまんま炒めてシュウ酸ごと食ったら、そりゃ好きにはならない。いやだなと思ったら、外でも頼まない。それで、ほうれん草まずくね? と思ってたんすよ。ずっと。うまいのに。
 部下が言う。弁当箱の中のほうれん草を見つめながら言う。
 そうか、とわたしは言う。気の毒なことである。
 そういえばわたしはいつほうれん草には下ゆでが必要だと知ったのだろう。気がついたらたいていの野菜の下処理のしかたを知っていたし、生肉や生魚の適切な取り扱いについてもわかっていた。
 でもまあ、知らなかったのが「ほうれん草の下ゆで」程度ならマシなのではないだろうか。わたしの子どもの時分には家庭科の対象が女子だけだったからか、大学に上がると、マジで何ひとつ台所を知らない男子大学生が大量にいた。
 男の友だちから電話がかかってきて、「あのさあちょっと聞きたいんだけど。ゴホッ。フライパンの煙を出すってどれくらい出せばいいの? ゲホゲホッ。いつ油入れていいのかわかんなくて」と言われたときには肝が冷えた。わたしは息を吸って、言った。火を止めて。油は触らないで。ぜったいに触らないで。窓をあけて、換気扇をまわして。

 家が広いから何も知らないんだ。
 ちょうど約束のあった友人にその話をすると、彼女はやけに自信ありげに断定した。子どもがいるリビングと台所が素通しで何もかも見えるようなちっちゃーい家で育って、おまけにおなかがすいてたら、ぼけっと親の手元を見るでしょ。それで身につく。興味を持つから自分で作るようになるし。子ども部屋? 小さいときは子ども部屋よりリビングに長くいたよ。プライバシーが欲しくなるまでは子ども部屋の意味なんかなかった。狭いしさみしいしヒマだもん。
 そういうものかとわたしは思う。お金持ちの子はたいへんさ、と彼女は言う。お金持ちっていうか、子どもがおもてなしされて勉強だけしてるような家の子はたいへんよ。ごはんは出てくるもの、お金も出てくるもの、正解はどこかに書いてあるもの、っていう感覚で大人になっちゃったら、なかなか抜けないものよ。だからうちの息子はとりあえず自分ひとりで生きていけるように育てた。お小遣いなんかも、どんなにアホな使い方でも止めなかった。本人が痛い目を見てから対策会議を開くことにしてた。何なら飼い犬にだって、子犬のときに「よろしいか、この家に来たからには、意思決定と自己主張ができる犬になってもらいます」って言った。
 徹底している。犬に言ってもぜんぜん効果はないだろうが、しつけの方針が一貫するという利点はあるかもわからない。
 わたしはいつ子どもたちに包丁を握らせただろうか。上の子が保育園のときに子ども包丁を買ってあげて、大人用の刃物を許可したのは、小学校の、あれは何年生のことだったろうか。
 子どもがけがをするとつらい。けがをしたら、と思うだけでつらい。あぶなっかしくて見ていられない。そういう気持ちは、わかる。自分の子が成人した今となっては遠い気持ちだが、こんなに小さくてかわいいのだから、痛い目になんかひとつも遭ってほしくないと、そう思っていた。思ってはいたが、子どもはばんばんけがをした。転んで、ボールにぶつかって、無茶な高さから飛び降りて、おおいにけがをした。もちろん包丁で指を切り、スライサーでも切り、気がついたら何でもできるようになって、もう小さくないのだった。

 おっしゃるとおり実家は広いし、親が料理するところもあんま見てないです。
 友人による「家が広く料理現場を見ない説」を伝えると、部下はそのように言う。小遣いの使い道や遊びなんかは好きにさせてくれたけど、メシは「出してもらうもの」だったな。大人になって自炊しないんならそれでもいいんだろうけど、残念ながら食い意地が張っていたので料理に手を出し、シュウ酸を過剰に摂取するはめになりました。
 しかしあれですね、育った家が「出てくる」環境でも、一人暮らしをはじめたり、作る人がいなくなったりしたら、「メシは出てこない」ってわかりそうなもんだけどな。
 そういうわけでもないか。ないな。考えてみれば、一人でもなんにもしないパターン、ありますね。叔父がたぶんそうです。生活がめちゃくちゃ荒れてるけど、本人は気にしてないみたいな感じです。なんでおれはそうならなかったんだろう。どこに分岐点があったんだろう。今度お友達に聞いてみてくださいよ。