傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

わたしがどこへも行けなくても

 疫病が流行しているのでよぶんな外出を控えるようにという通達が出された。ほどなく私用の海外旅行や、まして移住は、事実上不可能になった。

 わたしは休みの日には女の格好をしていた。いつかそういう格好で職場に行きたかった。そういう格好のまま彼氏を見つけて腕を組んで歩きたかった。そのために英語とスペイン語とフランス語を話せるようになった。大学ではグローバルに必要とされるというITと統計とAIの原理とその社会的応用について学び、いかにもすぐに役に立ちそうなスキルをいくつか身につけて、そうして就職して、少しのあいだつとめた。

 でももうそんなのはもはや意味のないことだ。疫病が流行したので、どれほど勉強したって、わたしが海外に出ることはできない。苦労して取った性別不問の外資の転職の内定は疫病の世界的な流行によってあっけなく取り消された。

 わたしは男である。男のからだをしている。そのことに異論はない。このからだを変えたいと思わない。けれどもわたしは、このからだのままで、女のような格好をすると、しっくりくる。男のような格好をするのは苦痛である。学生時代まではボーイッシュな女の子のような格好をして、それでだいたい通っていた。一人称だって「わたし」でかまわなかった。あれこれ言う連中は無視した。職場ではスーツを着て、でも、パンツスーツを着なければならない職場でも、どうにかがまんできないのではなかった。

 けれどもわたしの実家はそのようではなかった。父はわたしから目をそらして口をきかず、母は父の内心を代弁するかのようにわたしの目を見てため息をつき、それから目をそらした。法事に出ると親戚はわたしのまわりに座らなかった。きょうだいはしかたなさそうにその空席を埋めた。しかし彼らとて、思春期以降、わたしとまともに話をしたことはない。わたしには兄と妹がいた。兄と妹は仲が良くて、わたしだけが彼らから遠かった。

 兄が結婚するというので、わたしはおめでとうと言った。そうして彼を安心させるために、ちゃんとメンズのスーツを着るからね、と言った。髪もちゃんとそれらしくするから。兄はわたしの目を見ずに自室にひっこんだ。父も背を向けた。母がしかたなさそうに、あのね、と言った。おにいちゃんの、結婚式、ね、あんた、ね、来てもつらいでしょ、悪いと思ってね、だから。ね。

 わたしはお呼びでないのだった。わたしだけを除いた家族全員がすでに兄の配偶者になる人と「身内の顔合わせ」を済ませていた。わたしははずかしかった。彼らがわたしを「外に出せないもの」として扱っていたと、大学を出て就職するまで気づかなかったことを。わたしがとうに、彼らの「家」のメンバーではないことを。

 わたしは生まれつき細身で、背丈は少しあるけれど、男としては骨格も細くて、だから女性向けの服のLサイズをきれいに着こなすことができる。そんなのは若いからだと、女の服を着るほかの男たちは言うけれど、わたしは気にしなかった。わたしは、サイズが変わったとしても、中身はきっと変わらない。女もののLLでも何Lでも着るつもりだ。

 わたしは女になりたいのではない。わたしは戸籍上男性に分類されるこのからだを、ひとつも嫌だと思わない。そうして同時に、女向けとされる格好をしたい。恋をする相手はほぼ男性だった。それだけである。それだけのことが、わたしの人生を困難にした。わたしはわたしの、今のからだのままで、好きな格好をして、好きな人と恋人になりたかった。たとえば外国に行けば、それができると思っていた。

 でもそれはもう不可能なのだ。疫病が流行したので私用の海外旅行はできない。移住なんてもってのほかである。

 わたしは思い立って、ボーイッシュでない、ゴリゴリの女性装をする。悪くないと思う。わたしの髪はふっくら整えた前髪つきの、ヘアアイロンで毛先を波打たせた豪華なショートボブである。繊細なレースのニットをV字にあけた平たい胸(わたしは胸を盛り上げたいという欲求を持ったことがない)、あっけない腰にまとわりつく光沢のプリーツスカート、流行のブランドのアイテムを厳選したカラーレスのアイメイクとチーク、下向きにととのえた長い睫、赤いリップ。わたしっぽいと思う。わたしはその格好で何枚か自撮りする。フィルターは使わない。おすましした顔の写真をFacebookのプロフィールに使う。破顔した写真をLINEのアイコンに使う。

 わたしはきっと、どこへも行けない。けれどもわたしは、ひとりで死ぬまで、このままでいよう。

オホーツクに行く

 疫病が流行しているのでよぶんな外出を控えるようにという通達が出された。渡航するべきでない国がひとつひとつ指定され、ほどなく私用の海外旅行は事実上不可能になった。職業上の理由による渡航も大幅に制限された。要か不要か判断しにくい渡航をした者は見つかり次第インターネット上で激しい非難にさらされ、勤務先の電話が鳴り続ける、そういう世の中になった。

 僕は外国に行くのが好きで、だからときどき外国での職務があってうれしかった。たとえ短期の滞在でも、私的な時間がほとんどなくても、知らない町を歩いているだけで僕は簡単に幸せになることができた。ほんの少し前のことなのに、今となっては昔話である。

 恐慌は当然のようにやってきた。そりゃそうだ。疫病で外出が制限されたら経済は停滞する。買い物だってそんなにしなくなる。僕の会社にもじわりじわりとその影は落ちた。僕らの仕事はゆっくりとその足を止め、うずくまった。リモートワークの作業の量はしだいに減った。自分たちの会社だけが沈んでいったなら、死にものぐるいで戦っただろう。でもそうじゃなかった。世界中の多くの企業がゆっくりゆっくり沈んでいくのだ。

 それは僕らに奇妙な平穏をもたらした。だって、しかたがないからだ。僕らはもしかすると、少し安堵しているのかもしれなかった。自分たちだけが敗北し沈没するのではないことに。「しかたがない」ということ、それ自体に。とうとう役職のない社員全員に特別な休暇が付与され、交代で長期の休みを取ることになった。もちろん自主退職は歓迎される。僕らの船は沈むのだ。そして沈まない船はおそらくはないのだ。

 僕の上司は、たいへん面倒見の良い、しかしミスや手抜きを激しく憎む、きわめて有能かつ心の狭い人物である。私物を引き取るために久しぶりにオフィスに行くと、上司は自分のデスクで厚い本を読んでいた。そうしてしばらく僕が荷造りしていることに気づかなかった。

 ああ、と上司は言った。休暇を楽しんできます、と僕は言った。上司はうっそりとほほえみ、楽しんでください、どこへ行くの、と尋ねた。オホーツクですと僕はこたえた。僕は高校生のときオホーツクに行き損ねて、だからいま行こうと思うのである。

 たいした根拠なしに進路を決めちゃった人、けっこういると思う。僕もそうだった。海の生物が好きだったから、大学を選ぶとき、そういう学部も受けたんだけど、合格したのがオホーツク海のほとりにある研究所つきのキャンパスだった。十八歳の僕はそこで珍妙な海の生きもののことばかり考えて生活する自分を想像した。悪くないように思われた。暑いのは嫌いで、寒いのはわりと平気だし。

 でも僕は都心のキャンパスの、より汎用的な学部に進学した。そして楽しい青春を過ごし、順当に就職した。悪くなかったと思う。悪くなかったとは思うけど、悪かろうが悪くなかろうが、いま、僕らの船は沈むのだ。

 だからオホーツクに行く、と上司は言った。だからオホーツクに行きます、と僕は言った。いいねと上司は言った。なに読んでるんですかと僕は尋ねた。上司は僕の知らない単語を口にしてから(ウェルベ? とかなんとか)、フランス文学、と言いなおした。そういう勉強されてたんですかと訊くと、ぜんぜん、とこたえて笑った。小説はただの趣味だよ、きみの真似をするなら、行くべきところはインドかな、学部生のとき、大学院進学をちょっと考えたんだけど、そしたらインドの田舎で二年フィールドワークをやれって指導教官に言われて、やめたんだ、インドの村に二年いる度胸はなかった。

 でも、と上司は言った。フランスでもインドでも変わらない。どれももう空想の国だ。行くことができないんだから。そこいくときみはいい。人生の中で置き去りにしてきた選択肢が、いま東京から行けるもっとも遠いところのひとつにある。

 僕は電車に乗る。かろうじてまだ動いている、間引きされた長距離電車に乗る。帰れなくなったときのことを考えろと言って責める人がいるから、友人知人には旅行に出ると言わない。個人情報と顔写真つきでインターネットに流され「無責任」で「不謹慎」な人間だと糾弾されるから、言わない。そう思っていたのに、「どこへ行くの」という軽いせりふがあまりになつかしくて、親しくもない上司に言ってしまった。

 まあいいやと僕は思う。インターネットなんかもうどうでもいいやと思う。不要不急の集まりを慎む世界におけるコミュニケーションの命綱になったインターネットを、もういらないかなと思う。寒い寒いところで、珍しい生き物を見たいと思う。

お知らせ

 近ごろの注文原稿についてお知らせします。

 文藝春秋『文學界』2020年2月号に書評を書きました。吉田修一『逃亡小説集』について。紙媒体のみです。昨年に河出書房新社『文藝』に書いたエリザベス・ストラウト『何があってもおかしくない』の書評はWebで読めます。

 現在、インターネットラジオ放送局『まちだ大學ラジオ放送局』でドラマの脚本を担当しています。隔月連載。最新作は「テーブルの上の心臓」、主演は佐々木心音さん。

 一昨年から昨年まで短編を連載したWebメディア『フミナーズ』がなくなったため、掲載先が移りました。こちらでまとめて読めます。

 

期間限定私設美術館

 疫病が流行しているのでよぶんな外出を控えるようにという通達が出された。わたしたちは家のなかに引きこもり、ちいさくちいさくなって暮らした。

 最初は都心のデートスポットだった。
 わたしがもっとも好ましく思うデートコースは、都心の高い高いビルディングのてっぺんに近いところにつくられた現代美術館の展示を流して、それからそのビルディングのなかの、美術館よりひとつ高いところにあるカフェで、香りのよいコーヒー、もしくは同じくらいに香り高いビールをのみ、少し話をして、そうして、適切なレストランまで歩く。

 そのような振る舞いを、わたしは好きだった。だからそのときもいつものように恋人と待ち合わせて行った。美術館はその一昨日の夜間に告知して前日から休館していた。わたしたちはその巨大なガラスの前で立ちすくみ、貼り紙を読み、意味もなくスマートフォンで美術館の公式サイトにアクセスして貼り紙と同じ文字を読んだ。それから、しかたがないので映画館に行って、予約していたレストランまで歩いた。

 ほんの少し前の話なのに、今となっては昔話のようである。

 わたしたちはもはや映画館に行くことができない。もちろん、引き続き美術館に行くこともできない。開業しているレストランは数少なく、何かのついでに歩いて行くような場所ではなくなった。人が集まる場所は全国ないし近隣諸国において、なべて「休館」中であり、多くのレストランは「不要不急」であるために営業を自粛している。

 おもてむきには。

 わたしたちは身支度をする。わたしたちはシャツにアイロンをかける。わたしたちは、それをしたかった。わたしたちでない、ふたりの知らない人々のいるところに、わたしたちは行きたかった。

 わたしたちは美術をみたい。美とそのための術をみたい。わたしたちはそのために悪者になった。わたしたちは「不要不急の集まりをしない」という通知に違反している。わたしたちはふだんは行儀良く暮らしている。でも、わたしたちはどうしても、不要不急をしたかった。

 そんなだからわたしたちは伝手をさがした。信頼できる友人にかぎっても、美術作品を所有している人は、いくらかいた。わたしも持っていた。少し前に台湾の画家から買ったものだ。ちょっとしたディナー三回分から十回分くらいの、ごく安いものである。買ったときには東京中のギャラリーが当たり前のように営業していて、海外から画家を呼んだりしていたのだ。ほんとうに今となっては信じられない。

 わたしは美術友だちにメッセージを送った。たがいの絵を観賞する場をつくりませんか。プライベートで。ホームパーティは禁じられていないと思うので。

 わたしたちはそのようにしてこのマンションの一室に集まった。各々のリビングルームやベッドルームから剥がしてきた小品を、あるいはずいぶん大きな作品を、注意深く梱包して抱えてやってきた。

 わたしたちはたがいに持ち寄った絵を並べる。わたしにとってはくだらないものもある。趣味に合わないものもある。意味がわからない作品もある。それでもよかった。美術館のようなものが、ほんの短いあいだ存在して、そこに入れるというだけで、わたしは満足だった。

 この「美術館」活動をわたしがおこなったのは一度きりである。でもそのあとひそやかに同じようなことを、さらに充実した作品量で実現する人が出てきた。自宅を開放し、借り受けた絵を飾る。わたしはできるだけ都合をつけて自分の所有する絵を持って初日に行き、最終日にも行って、所蔵品を引き取って帰るようになった。

 わたしは「美術館」に入る。そこにいる人は、初対面の人をふくめて、わたしの仲間である。わたしたちはどのような状況でも美と術を観たいと思うような一族なのだ。わたしたちは靴を脱ぎ、その場所に入る。不要不急の、ただうつくしい絵を観たいだけの、さみしい人間の集まり。

 わたしたちはそれを観る。日本を中心とした世界各地の絵を観る。作品の所有者のほとんどは収入がさほど多くない。ささやかな額面で買った小品が並ぶ。わたしたちはそれを観る。わたしたちはアイスランドの新進画家のスケッチを観る。わたしたちは韓国の若者の肖像画を観る。わたしたちは自分たちの家から提供した森の絵を観る。雪の降る青緑の、とおくまで続く森の絵である。

 わたしたちはもうどこへも行けないのだと思う。外国にも、大量の作品を観覧させる美術展にも、不要不急が許される世界にも、もう行くことはできないのだと思う。でもわたしたちは最後までひっそりと集まり、期間限定の小さな美術館をひらくだろう。

不要不急の唇

 疫病が流行しているのでよぶんな外出を控えるようにという通達が出された。わたしたちは必要なものを買いに行くふりをして外出した。わたしと彼の給与の財源はともに税金である。だからわたしたちは行儀よくしていなくてはならない。そうでないと職場に苦情がいく。

 近所にはわたしと彼の職業の詳細を知る人が幾人もいる。だからわたしは「市民感情」において満点をたたき出す役人でいなければならず、彼は「生徒の模範となる」教師のようにふるまわなければならない。いつも。わたしたちの素性を知る人の目があるところでは、二十四時間、いつでも。

 わたしたちはガーゼマスクをつける。わたしたちは手をつながず、あまりくっつきすぎないように気をつけながら歩く。わたしたちは公共の場で失礼にならない程度の、しかし華美ではない服を着ている。どこの家庭にも必要な買い出しのためだけに外出していると、誰が見てもそう思ってくれるだろう。

 でもわたしたちはほんとうはただ歩きたくて歩いているのだ。すべての外出が禁じられる前に。わたしたちは常々、不要不急の外出を好み、休暇のたびに旅行をして延々と歩き回った。でも今はそういうことはできない。だからせめて近所を歩く。

 スーパーマーケットに着く。必要なものはほんとうはもう家にあるので、品切れとわかっているマスクや消毒スプレーのコーナーに行く。ないねえと彼は言う。ないねえとわたしはこたえる。知っていて来たのである。

 道を歩く。夕刻の住宅地の人はまばらで、行き交う人はみな「しかたなく歩いているのですよ」という顔をしている。わたしたちは酒屋に入る。入るときに周囲を見渡して誰も見ていないことを確認する。見られてもぎりぎり問題ない商店ではあるけれど、見られないほうがより安全だ。

 酒屋の中はちょっとしたバーになっている。わたしたちは試飲という名目で一杯ずつ酒を飲む。肩を寄せ合うような酒場に繰り出して疫病にかかったらわたしも彼も非難の対象になる。自己責任で感染源になった咎で職業上の不利益を被る可能性がある。

 わたしたちはほんとうは、週末の夜に外で酒を飲むこともできないなんて不当だと思っている。あからさまなバーに入ると誰に見られているかわかったものではないから、この酒屋が近隣に住む同類の憩いの場になっている。酒場で飲むという当たり前のことを、ただ酒屋に買い物をしにきた体でおこなう場所に。酒屋の主は決して疫病の話をしない。マスクもつけない。

 飲み始めてすぐに顔なじみの婦人が別の女性を連れてタクシーで乗りつけた。ともに華やかな和服だった。今日は銀座で着物でお寿司の日だったの、と言った。いいですねとわたしたちは言った。彼女たちからは「誰が何と言おうとぜったいに人生を楽しむ」という鉄の意志が感じられた。少しうらやましかった。わたしたちにはそこまでの度胸がない。わたしたちは職業上の不利益を少しでも減らしたい小心者である。

 わたしたちは自宅に戻る。わたしたちはマスクを取る。わたしたちはソファに寝そべり、たがいのからだの一部を枕にする。気が向いたらキスをする。この十年間ずっと、わたしたちは始終、物理的に接触していた。でも今では自宅の中でしか接触できない。

 わたしは彼に、卒業式はどうだったのと尋ねる。卒業式はやったよと彼は言う。ただし保護者と下級生は呼ばない。卒業生と僕ら教職員だけ。式典中のマスクの装着を許可したら全員がしてきた。中には家庭で手作りしたという生徒もいた。許可しただけなのに強制したみたいな気分だった。いつもそうなんだ。僕らの仕事はいつも。

 記念写真のために並ぶんだ。わかるよね。毎年やっている仕事のひとつだ。でも今年はカメラマンの背後に誰もいないんだ。下級生と正装した保護者がいるはずの空間は完全な空白。空白を背負ったカメラマンが「はい、撮ります」と言う。全員がいっせいにマスクをはずす。誰も息をしない。カメラマンは連続でシャッターを切る。そして言う。はい、終わりです。その声を聞いて全員がいっせいにマスクをつけて、大きく息をする。もちろん、無言で。

 わたしはその光景を想像する。何百と並んだむきだしの唇。感染源にならないように引き結ばれた大量の唇。「人に迷惑をかけてはいけません」と教えられてきた子どもたちの、ずらりと並んだ静かな唇。

 彼はわたしにくちづける。あるいはわたしが彼にくちづける。わたしたちはいつまでそのような行為が許されるのか知らない。

さよなら、わたしのシモーヌ

 シモーヌとは十四年のあいだ一緒に暮らした。シモーヌは冷蔵庫である。名の由来は冷凍庫に霜が降りることであった。わたしの家に来る友人たちが「いまどきそんな冷蔵庫があるのか」と話題にし、誰からともなくシモーヌと呼びはじめ、わたしもその名を使うようになった。

 シモーヌはわたしと出会った段階ですでに新しい冷蔵庫ではなかった。大学を卒業して寮を出るとき、一人暮らしをやめる友人からもらったのである。大学生の一人暮らし用としては大きめのサイズだった。わたしは自炊をするのでありがたく貰い受けた。

 はじめて一人暮らしをした部屋の中のものはみんな貰い物だった。家具も家電も買った覚えがない。そうした大物にかぎらずわたしはよくものを貰う人間だった。貧しかったからかもしれない。自分では「愛されているからだ」と言っていた。わたしを嫌いな人からは「乞食の顔をしているからだ」と言われた。正直なところ、どちらでもかまわなかった。愛されているからでも。乞食の顔だからでも。

 大学を出た時分に景気が悪く、お金があんまりないベンチャーに就職した。仕事は楽しかったが、お金はあんまりないまま数年が過ぎた。シモーヌが霜をたくわえはじめたのはそのころだった。貰ったテレビが壊れ、わたしはそれを捨てた。一緒に貰ったテレビ台も捨てた。貰った電子レンジが壊れ、わたしはそれを捨てた。貰った掃除機が壊れ、わたしはそれを捨てた。シモーヌだけが壊れなかった。わたしはもとよりテレビをあまり観ないので、テレビがなくても困らなかった。電子レンジを使っていた場面では鍋で蒸すことを覚えた。掃除はクイックルワイパーで済ませた。

 ものが壊れて捨てたら新しいのを買うのですよ。わたしの友人たちは辛抱強くそのようなことをわたしに言い聞かせた。とうとう洗濯機が壊れ、わたしがコインランドリーに通いはじめたときのことだった。彼女らはわたしを家電量販店に連れていき、洗濯機を買わせた。新しい洗濯機を使って、洗濯機は便利だ、とわたしは彼女らに伝えた。そうでしょうと彼女らは言った。いいですか、ものが壊れたら買うのですよ。電子レンジを買いなさい。テレビを買いなさい。掃除機も買いなさい。

 わたしの会社は成長し、わたしはいつのまにかいわゆる人並みより少しだけ多い収入を手にするようになった。わたしは寄付をした。わたしは貯蓄をした。大きな災害があるたびにボランティアを組織し車を借り人々を乗せて運転して現地に通った。それでもわたしのお金はなくならないのだった。「人並み」の居心地は、あんまりよくなかった。どうしてかは知らない。乞食の顔をしているからだろうか。

 友人たちはわたしに源泉徴収票を持ってくるように言いつけ、適正な家賃の額面について教授し、引っ越しを手伝った。わたしは家電を買い、家具を買い、新しくて高価な服を買った。夏には冷房を、冬には暖房をじゅうぶんに使った。快適だった。でもわたしはその快適さを、上手に受け取ることができなかった。

 どうしてわたしは、死ななくていいのか。どうしてわたしは、餓死せず、殺されず、搾取されず、快適な部屋に住んで、愉快に暮らしているのか。家の中で餓死した子どもがいて、家の中で殺された人がいて、家族に殴られつづけている女たちがいて、ただ歩いていたら津波が来て死んだ人が大勢いて、そうして、どうしてわたしは、死ななくていいのか。

 わたしはそのことがどうしてもわからなかった。今でもわからない。

 シモーヌだけがわたしのそのような気分を知っているように思われた。だからわたしは新しい部屋の新しい調度の中であきらかに浮いているシモーヌと、一緒に暮らしていたかった。

 でもシモーヌは壊れた。シモーヌは冷蔵庫である。わたしの家に来たときに製造から四年経っていたとすると、十八年稼働したことになる。ある日、家に帰って冷蔵庫の扉をあけたら、すべての機能が停止していた。冷凍庫をあけると霜はまだ残っていた。わたしはそれをながめ、それから、冷蔵庫の中身を一掃するから食事に来てほしいというメッセージを親しい人に送った。

 わたしはもうひとりで新しい家電を買うことができる。わたしは冷蔵庫を買う。新しい冷蔵庫を買う。古い冷蔵庫を引き取ってもらう手続きをする。ずいぶん古いですね、と家電量販店の人が言う。はい、とわたしは言う。わたしがうんと若かったころに貰ったんです、でももう、壊れたものですから、ええ、ずいぶん長いこと、お世話になりました。

虚構を発注する

 待ち合わせの駅前で降りると友人がいる。近づくと「半分くらいいる」という印象である。存在感がない。気配が茫漠としている。あいまいな微笑を浮かべ、あいまいにあいさつする。よく言えば棘がない、悪く言えば覇気がない。いつもは覇気がありすぎて長時間一緒にいるとちょっと疲れるので、これくらいでもOKじゃないかなと私は思うんだけれど、本人はふだんできることもできなくて困る、と言う。

 友人はぽつぽつと話す。休日をまる一日、ベッドで何もせずに過ごした。仕事は最低限しかできていない。仕事がらみの勉強はほぼ停止している。賑やかな場所に行く約束はみんな断った。インターネット経由ですらコミュニケーションが負担になるのでSNSのアプリはみんな削除した。どうせまた入れるんだろうけど。

 そうかいと私はこたえる。休日ずっとベッドでぐだぐだしているなんて私には日常のことで、一日どころか休みが二日あれば二日そうしているのだし、仕事が最低限になることもよくあって、まあ後でどうにかできるだろうと思って平気でいるのだし、SNSに至ってはそもそもやっていない。

 そのように話すと友人は、マキノと一緒にしないでほしいと言う。そうかいと私は思う。それから、近ごろ悲しかった話をするよう、友人に言う。何もなかったというのなら、漠然とした不安を呼び覚ますものごとについて話をするようにと言う。それもよくわからなければ、いまそのからだに詰まっている疲労の感触について、できるかぎり詳しく描写してほしいと言う。

 情緒が安定しているのは結構なことだけれども、安定の秘訣が「面倒な感情を感じないこと」である人間がときどきいる。この友人もそのひとりである。「悲しい」みたいな気持ちはろくに見ないで、なんかこう、内面の箱みたいなところに突っ込んで、しらっとしている。当たり前だけど、見ないで箱に詰めたものはそのままにしておくと腐る。そうすると人間はだいたい弱る。この友人はそうやって弱ったときに私を呼ぶ。

 私は弱った友人の話を聞く。長い時間をかけて、友人が自分の感情を突っ込んだ箱をなでまわす。その箱は友人のものだからもちろん私には開けられない。でも私は「そんなの悲しいに決まっている」と決めつけ、「よし私が悲しい話を書いてやる」と言う。

 私はおおむね愉快に暮らしているんだけれども、たいそう涙腺が弱い。すぐに泣く。フィクションで泣くのは当たり前で、なんなら自分の想像だけで泣く。毎週泣く。友人から悲しいエピソードを聞いて、それをもとにお話を書くときも、もちろん泣きながら書くのである。

 友人は泣かない。泣くかわりに私に話をする。私はその話に嘘をまじえたりして読み物に仕立てる。友人はそうやって作られたフィクションを読み、「悲しい」と思って、それですっきりするのだという。読んで泣くのと訊いたら、いや、べつに、という。せっかく書いたんだからちょっとは泣けよと思うが、泣かなくても本人の気が済むならまあ良い。

 他人のことなら悲しめる。友人はそう言う。あなたの書く話に出てくるのは、たとえ自分が話した内容と同じでも、ただのお話で、そこに出てくる人は、自分じゃないから、他人事だから、悲しいなと思う、同じエピソードでも自分が渦中にあると、悲しいと思わない、思えない。

 そうかいと私はこたえる。どういう形式でも、出すもの出せたらそれでいいんじゃないかな。その場で怒ったり泣いたりするのも場合によっては考えもので、本人が損をすることもある。そういう世の中に適応した結果、たとえばひとりでいるときにも泣かなかったり、自分の感情を読み取れなくなることもある。あなたはきっとそうだ。

 それを悪いと私は思わないよ。人に話をして相手に泣いたり怒ったりしてもらう人もたくさんいるよ。あなたの場合はフィクションに仕立て上げられてはじめてそこに込められた感情を認識できるわけで、ちょっとこじれてるなあとは思うけど、だいじょうぶ、問題ない。好きにこじれろ。死なない程度にこじれろ。歪みこそが人間の妙味というものだよ。あなたは、調子が悪くなると、私にストーリーを発注して、押し込めた感情を消化している。だからだいじょうぶ。これからも頼りにしてくれていいんだよ。

 下衆だなあ、と友人は言う。マキノはそうやってもっともらしいせりふで、善人みたいな顔して、他人が押し込めた感情を引っ張り出して取って食って「うまい」「珍味」とか言ってる。ほんとうに下衆だ。もちろん、これからもその下衆な楽しみにつきあうとも。おもしろいから。