傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

きみはラリらずに生きていけるか

 二十代前半くらいまではいろんな経験が少ないから、何をやってもテンションが上がった。大学生のころなど、今にして思えば些細なことで脳内麻薬がばんばん出ていた。
 旅先の景色はいつも新鮮で、恋愛は比喩でなく「死んでもいい」ほどのもので、友情は永遠の輝きを宿していた。読む本にいちいち驚いたり泣いたり狼狽したり、そりゃあ忙しかった。ものを知らなかったから、世界を説明するための概念ひとつがどれだけ感動的だったことか。
 今はそうではない。
 旅行は飽きないように頻度を減らしているし、恋愛の高揚は平熱の愛情に着地して、友人関係なども平和なものである。本を読んでいても、しばしば「ああ、こういう系統ね」と思う。遭遇するたいていのできごとが予想どおりの結末に向かう。そんなだから、近ごろのわたしの心拍数の標準偏差はとっても小さい。
 「こうして人は大人になるのだ」といえば、まあそうなんですけど、「それをこそ幸せというのだ」というのも、わかるんですけど、三十になろうが四十になろうが、何なら七十になろうが、たまには「うひょー」系の気持ちよさ、ほしいじゃないですか。わたしはほしい。

 「うひょー」となって気持ちよくなっちゃうあの感じは、たぶんドーパミンとかそういうのが出ている感覚に依拠するんだろうけど、年をとるとそれを味わう機会は減る。経験が増えて飽きを覚えるし、体力も減るからだ。それはもうしょうがない。しょうがないんだけど、少しはほしい。
 年をとって落ち着いたあとの年代に向いた幸福感はあって、たとえば子どもが育っているとか、熟練の技能があるとか、満足のいく業績がたまったとか、長い時間をかけてほしいものを手に入れたとか、そうしたことは主に年長者の楽しみだと、そうは思う。思うが、それらはドーパミン系の楽しみではない。じんわりといいものである。テンションは上がらないでしょう。上がる人もいるのかな。
 上がらないんですよ、わたしは。わたしの手持ちのカードでは。少なくともしょっちゅうは。

 多幸感を求める気持ちが「少し」じゃないとき、人間は病的な行動をするんだろうなと思う。
 いちばん簡単に多幸感が味わえるのは薬物である。日本ではアルコールがいちばん使いやすい。ひどく容易に気持ちよくなるので気味が悪くなってあんまり飲まなくなった。だって、結局のところ、薬物の楽しみって、孤独なものじゃないですか。わたしは孤独を好きだけど、薬物の孤独は好きじゃない。あと健康によくない。健康でないときの身体の不快感が薬物の快感を上回ってしまう。身体頑健でしょっちゅう薬理作用にひたっていても孤独にならない(あるいは孤独でもかまわない)なら死ぬまで薬物でドーパミン出しててもいいんだろうけども。
 薬物ではないけれど薬物に近いはたらきをするものもたくさんある。人間の脳はいろんなことで麻薬を出してくれるようだ。何なら食べ物で多幸感を得る人もいる。しかしわたしはこれにも適性がない。贅沢な食事は好きで、ときどきファインダイニングをやるのだが、わたしの場合、あれは冷静さをともなわなければできない掛け算である。「未知の味覚かけるシチュエーションでの高揚かけるアルコール、文化的な読み解きの楽しみを添えて」である。我を忘れるようなものではない。

 そんなわけで、最近は運動をしている。走りこむと脳内麻薬が出るからだ。中高生のころに陸上をやっていたので、十五歳から進歩がないともいえる。
 地味な人生である。ドキドキしたいからといって志願兵になって戦場に出て行く度胸も能力もない。
 結局のところ、ラリらずに生きられるように自分を訓練するしかないのかもわからない。だってわたしは、酒や美食で身をほろぼすことにも、いつまでも劇的な恋愛を求めることにも、適性がなかったからだ。
 身も世もない快楽をもたらすものって、あと何があるかな。ギャンブルでもやってみようかな。ハイリスクな金融商品を買うとか? でもわたしのささやかな余剰資金で買ったってドキドキしないよな。お酒とかのパターンと同じじゃん。借金して買うくらいじゃないとヒリヒリするわけないんだよ。でも借金するほどの、健康をそこなうほどの、命をかけるほどの魅力を感じる対象が見つからないんだ。破滅的快楽に手をのばす才能がないんだ。

 みんなはどうやって折り合いをつけているのかな、と思う。それとも、折り合いなんて必要ないのだろうか。みんなは最初から、ラリらずに生きていけるのだろうか。いい年をして「どうにかしてラリる方法はないかなあ」などと思っているわたしとは違う構造の精神を持っているのだろうか。

愛の純粋さを希求する

 僕はしみじみとした気持ちで、「ぜったいに損をしたくないんだね」と言う。相変わらずだなあ、と思う。
 この後輩は、「結婚は民法上の契約で、愛とはまったく関係のないものだ」と思っている。そうして「民事契約のごときものに、自分の愛が影響を受けていいはずがない」と思っている。世間では愛と結婚が結びついていることになっているが、そのお話は自分には無関係だと。自分の愛と自分に向けられる愛だけは、愛として独立していなくてはならないと。
 この後輩は愛というものをやたらと純粋にとらえているのである。この場合の純粋というのは「他の要素に影響されない」という意味である。そんな良さげなもんでもないだろうとも思うので、なんか他の言い方があるといいんだけど。
 事情があって法律婚をするなら、絶対に損をしたくないし、相手に損もさせたくない。二人して得をするのはかまわないが、片方だけが得をするのはいけない。
 愛はお金なんかに左右されてはならない。愛は、個人の意思にのみよって継続されるものでなくてはいけない。少なくとも自分の愛は。
 後輩はそのように考えている。若いころに聞いた。

 この後輩は以前、僕の友人とつきあっていたのだけれど(僕が紹介した)、高価な贈り物を嫌い、「買われているようでいやだからやめてほしい」と言ったのだそうだ。友人は非常に裕福な家に生まれた人間で、どうも恋愛におけるお金の流れに対して何らかの屈託を抱いていたらしい。それで後輩の変な態度(変だよね、おれならもらえるものはもらっとくよ)に感激していた。そうして僕は後輩の「愛は意思によってのみ継続するものでなくてはならない」という信念を把握したのである。
 友人が結婚をしたがった段階でこの二人は離別した。まあしょうがないよなと思う。だって後輩は給与所得のほかに何の収入もなく将来の遺産のあてもない女性で、結構な資産のある家の、不労所得のある人間と結婚したら、たいそう得をしてしまう。後輩とつきあっていた僕の友人は子どもをほしがっていたから、なおさらである。女性である後輩が仕事をおさえて出産育児をし、キャリアが毀損されたところで相手を嫌いになったとしたら、カネのためにくっついている期間が発生しかねない。
 この後輩はそのような可能性のある関係は絶対に嫌なのである。
 そんなの九割九分「いざ」とはならないんだから、そっちに賭けりゃあいいのにねえ。
 僕はそのように思ったものである。まあお互い恋人としては潮時と感じていたのかもわからないけど。
 ところで、僕は犬を飼っていて、飼いはじめてすぐのころ、この後輩にも写真を見せた。どうだいかわいいだろうと言うと後輩は「かわいいですね」と言ってにっこり笑った。そうして言った。でも子犬ちゃんのお世話はたいへんでしょう。やんちゃな子ですか、それともおとなしい?
 感じのいい笑顔だ。確実に作り笑いである。ふだんはそんなさわやかな表情をしない。おおむね仏頂面をしている。
 まあまあ、と僕は言った。ぜったいに気を悪くしないと誓うからさ、犬を飼うことに関して、きみの本音を聞かせてほしいんだ。辛辣な意見でかまわない。きみの考えに興味があるからね、なるべく率直に頼むよ。極端なやつでかまわない。というか、それを期待している。
 後輩はしばらく逡巡してから、では言います、と言った。可愛がるためだけに動物を飼うなんて、グロテスクなことだと思います。生殺与奪の権をにぎられた動物が自分に従うことを愛情と呼ぶなんておかしいと思います。
 僕はげらげら笑って、後輩の肩をばんばんたたいた。いいぞいいぞ、徹底してんなあ、期待どおりだ。

 もちろん僕は後輩とは異なる考え方を持っている。かわいがるためだけに犬を飼うし、誰かが高価なプレゼントをくれるというなら断らない(もらったことないけど)。
 僕の配偶者には障害があって、フルタイムで働くことができない。子どもを育てる自信はないとのことで、僕も自分メインで育てる自信はなかったから、うちに子どもはいない。僕は料理が好きだから、夕食は九割がた僕が作っている。お金を使うことに遠慮してほしくないので(法律婚をする前から)贈与税が発生しない範囲で相手名義の通帳に自分の給与をうつしている。
 あの後輩は知らないのだと思う。好きな人を囲い込んで、自分なしでは途方にくれる環境を作り上げることの、目がかすむような幸福を。
 僕はおそらく、そのような自分を、どこかで少しだけ後ろめたく思っている。だからばかみたいに自分の信念にのっとって生きている後輩の話を、ときどき聞きたくなるのだと思う。

絶対に損をしたくないんだね

 法律婚という制度が嫌いで使用していなかった。しかし、一年ほど前に、現実的な利点に敗北して籍を入れた。具体的にはマンションを買うにあたって金利が有利なペアローンを組みたく、パートナーから「これはもうしょうがないんじゃない?」と言われて合意した(パートナーはもともと結婚したいタイプの人間である)。
 それ以来、自分のことを「自分の理念や気分よりカネを優先したあわれな人間であるなあ」と思いながら生きている。自分の心より優先するものなんかないと思って生きてきたのに、カネのほうを大事にした。そうして、パートナーと自分の財産関係を明瞭にし、たとえば別れるとしても双方に経済的な不利益が発生しないよう契約書を作成し、それから区役所に行った。せめてもの自分へのなぐさめである。
 結婚がらみでなんとなく連帯感を持ってときどき雑談をする職場の先輩がいる。わたしと同じく法律婚という制度に納得がいかず、パートナーと書類上の関係を作らずに同居して生活していた人である。
 その先輩がとうとう結婚制度を使用したと聞きつけたので、わたしは下衆な笑顔を浮かべて彼に近寄り、言った。先輩も利便性に膝を屈しましたね。やっぱりあれすか、住宅ローンすか。
 先輩は言った。いや、うちは生涯賃貸のつもりだよ。結婚したのは単に年とって、死がリアルになったから。僕が死んだあと、あの人に円滑に資産をぜんぶ受け取ってもらうためだよ。僕ちょっと複雑な生まれで、どうやっても不安が残るからさあ。もちろん、そんなのはおかしいんだよ、使いたくても使えない人がいることを含めて、おかしい、そのおかしい制度を使いたくなくてうちはずっと結婚してなかったんだけど、それはそれとして、「わりとすぐ死ぬかもしれない」と思うようになったら、僕が死んだあとの不安を排除したい気持ちのほうが大きくなったわけ。つまり、トシのせいです。
 なるほど、とわたしは言う。先輩は口の端だけを上げて、言う。
 きみはいつ別れてもお金で揉めないようにしたんだもんね。
 絶対に損をしたくないんだね。

 わたしは不意をつかれて眉を眇め、言う。損したくないです。利便性に負けて気に食わない制度を使うのに経済的な不利益の可能性を残してどうするんですか。
 そうだねと先輩は言う。きみのところは、家事を分担して、二人して稼いで、そんなふうに、フェアなカップルなんだよね。そりゃ、結婚したって損しないようにするだろう。

 わたしはぽかんとした。なんか悪いことしてるみたいな言い方である。
 先輩は言う。
 きみは、相手に何かあったら、たいていのことはしてあげるだろう。相手がお金に困るようなことがあれば、あげるだろう。そういう情はあるほうでしょう。
 でもそれは、相手がきみと同じように戦えて、きみに対してずるいことをしない人間だったという実績あってのことなんだろうなと、そう思ってさ。最初から相手が自分に助けてもらう立場だったら、相手を自分の人生の中に入れることを、きみはしないんだろうなと思ってね。いや、いいんだ、それは良いこと、正しいことだ。女性に生まれてそのための不利益を経験してきたならなおのことだ。とても、いいことだよ。

 わたしはなんとなく理解したような気になる。おまえはおまえが偶然得ている(まったくたいしたものではないが、言ってみれば)強者としてのポジションを自覚しろ、というような話なんだろうと思う。たまたま職に恵まれて生活を回すのに不自由がない、それを前提にしてものを言っていると。世の中そんなのばかりじゃないとわかった上で偶々ひろった幸運にあぐらをかいている傲岸な人間として生きろよ、と。
 わたしはそのようなことをオブラートにくるんで言う。先輩はまた、ちょっと笑う。

 いや。うん。そうかな。
 いや。そうかな。
 それはそれとして、別れても損をしない状況を作るという発想が、僕にはなかった。何年も一緒に生活しているのに、自分に対してひどいことをする人じゃないとは思わないんだなって。
 わたしはまた不意をつかれる。あの、と言う。今は、思わないです。そうじゃなかったらペアローンなんか組まないです。相互の連帯保証人ですよ。理不尽なまでに楽観している。そして、わたしも相手も気持ちが変わる可能性はあると思っている。だって、生きてるんです。気持ちも性格も、変わるでしょう。変わらない部分もあるかもしれないけど、自分に都合のいいところだけ変わらないと思うのは、おかしくないですか。
 おかしかないよと先輩は言う。それから昨夜の晩ごはんの話をはじめる。

それは装置として埋め込まれている

 それはわたしの内面の底ちかくに装置として埋め込まれている。
 その上に乗っかるようにしてわたしの人格が形成されている。それを取り除くことは、だからほとんど不可能である。それは時に煙のような憂鬱を吐き、時に極端な行動力をもたらす。
 その装置とは、「わたしは自分の意思で死ぬことができる」という信念である。
 生育環境の問題で発生した装置だ。しかし、個人の性格を構成する要素のおよそすべてがそうであるように、わたしと類似する生育歴の人間のすべてに発生するものではない。だから、たまたまやってきたものだ、ともいえる。

 自我の確立していない子どもは、自分の頭の中が自由だということを知らない。誰かに覗かれているような気持ちと、誰かの規則にしたがわなくては生きていられないような気持ちがある。生育環境が良好であればそこに「守られている」という感覚が加わるのだろうが、わたしにはそれはなかった。
 小学校の低学年が終わるころ、遅ればせながら、学校では強制される内容が極端に少ないことに気づいた。大人の感覚では小学生は不自由だが、わたしの生家での不自由はそれどころではなかった。わたしにはしょっちゅう手を動かしていないと終わらない量の家事や介護に関連するタスクが課せられており(たとえば床を拭くこと、家族七人分の皿洗いをすること、歩行に問題が出ていた祖母の杖として歩くこと。水仕事をしすぎて、冬でなくても手指の関節がすべて派手に割れていた)、何より口をきくごとにその内容を修正された。それはしばしば長時間の嘲笑と罵倒をともなった。
 本を読んでものを考えているときだけが楽しかった。集中してそれができるのは夜中に布団の中で懐中電灯を使って本を読むときだった。そのほかの時間はいつ何をいいつけられるかわからなかった。
 それに比べたら小学校はほんとうにラクだ、とわたしは思った。授業中に簡単な作業をするだけでよく、それ以外はぼんやりと別のことを考えていてもバレない。
 だからわたしは、死んだらラクになれると思っていた。何もいいつけられず、何もさせられず、何も修正されない。死は希望だった。祖父が死んだのがわたしの八歳のときで、そのときに死の何たるかを理解した。死んだ人がひどくうらやましかったことを覚えている。だって、死んでいれば、なにもしなくていい。
 そうしてある日、突然に気づいた。十歳のときのことである。
 わたしには死ぬ自由があるのだ。頭の中で死の準備をしても、誰にもバレないのだ。嫌なことは拒絶して、拒絶しきれなかったら死ねばいいのだ。そのほうが今よりずっとずっとラクだ。
 こんなに素晴らしいことがあるだろうか。わたしの頭の中はわたしだけのものなのだ。おもてにさえ出さなければ、どんなにひどいことを考えていても、「わたしじゃなくて親が死ねばいいんじゃないか」と思っても、バレないのだ。わたしは何を考えてもいいのだ。

 陰惨な子どもである。それはまあしょうがない。世の中にはさまざまな家庭環境があり、わたしはハズレを引いた。その上、親に媚びて環境を改善するような性格に生まれつかなかった。だからしょうがない。
 わたしは死という希望を握りしめ、頭の中の自由より尊いものはないという感覚で「何もいいつけられず、罵倒されず、身体を触られない」ことを最大の目標として思春期を過ごし、早々に家を出て大人になった。家の外の世界はラクなところだった。子どもを資源として活用する親はたいてい子どもを手放さないものだが、わたしは「ダメだったら死ねばいい」と思っていつまでも刃向かう不気味な少女だったから、早々に手放された。ラッキー、とわたしは思った。

 陰惨な人間である。それはまあしょうがない。起きてしまったことの上に人間ができあがるのだから、わたしはこの仕上がりでしかありえないのである。別の経験をしたら別の人間だろう。
 だからわたしには、ときどき「死ななくていいのか」という声がやってくる。「ダメだったら死ねばいいや」と思って蛮勇をふるって生き延びた人間は、自分が生き延びたのはたまたまだということを知っている。努力とか才能とか、そういうのではない。ただの運である。
 だから自分でない人が若くして死んでいると、どうしてそれが自分でないのかと思う。
 もちろん、それはたまたまである。
 わたしにはそのような出力をもたらす装置が埋め込まれている。死ぬまで一緒にいるのだろうと思う。ここまで生きたのだから長生きをしようと、気休めのように思う。

ほうれん草の下ゆで、いつ覚えた?

 三十近くまで知らなかったんすよ、ほうれん草は基本、下ゆでが必要だって。みんなどこで習うんすか。おかげでおれはほうれん草があんまり好きじゃなかったんすよ。そのまんま炒めてシュウ酸ごと食ったら、そりゃ好きにはならない。いやだなと思ったら、外でも頼まない。それで、ほうれん草まずくね? と思ってたんすよ。ずっと。うまいのに。
 部下が言う。弁当箱の中のほうれん草を見つめながら言う。
 そうか、とわたしは言う。気の毒なことである。
 そういえばわたしはいつほうれん草には下ゆでが必要だと知ったのだろう。気がついたらたいていの野菜の下処理のしかたを知っていたし、生肉や生魚の適切な取り扱いについてもわかっていた。
 でもまあ、知らなかったのが「ほうれん草の下ゆで」程度ならマシなのではないだろうか。わたしの子どもの時分には家庭科の対象が女子だけだったからか、大学に上がると、マジで何ひとつ台所を知らない男子大学生が大量にいた。
 男の友だちから電話がかかってきて、「あのさあちょっと聞きたいんだけど。ゴホッ。フライパンの煙を出すってどれくらい出せばいいの? ゲホゲホッ。いつ油入れていいのかわかんなくて」と言われたときには肝が冷えた。わたしは息を吸って、言った。火を止めて。油は触らないで。ぜったいに触らないで。窓をあけて、換気扇をまわして。

 家が広いから何も知らないんだ。
 ちょうど約束のあった友人にその話をすると、彼女はやけに自信ありげに断定した。子どもがいるリビングと台所が素通しで何もかも見えるようなちっちゃーい家で育って、おまけにおなかがすいてたら、ぼけっと親の手元を見るでしょ。それで身につく。興味を持つから自分で作るようになるし。子ども部屋? 小さいときは子ども部屋よりリビングに長くいたよ。プライバシーが欲しくなるまでは子ども部屋の意味なんかなかった。狭いしさみしいしヒマだもん。
 そういうものかとわたしは思う。お金持ちの子はたいへんさ、と彼女は言う。お金持ちっていうか、子どもがおもてなしされて勉強だけしてるような家の子はたいへんよ。ごはんは出てくるもの、お金も出てくるもの、正解はどこかに書いてあるもの、っていう感覚で大人になっちゃったら、なかなか抜けないものよ。だからうちの息子はとりあえず自分ひとりで生きていけるように育てた。お小遣いなんかも、どんなにアホな使い方でも止めなかった。本人が痛い目を見てから対策会議を開くことにしてた。何なら飼い犬にだって、子犬のときに「よろしいか、この家に来たからには、意思決定と自己主張ができる犬になってもらいます」って言った。
 徹底している。犬に言ってもぜんぜん効果はないだろうが、しつけの方針が一貫するという利点はあるかもわからない。
 わたしはいつ子どもたちに包丁を握らせただろうか。上の子が保育園のときに子ども包丁を買ってあげて、大人用の刃物を許可したのは、小学校の、あれは何年生のことだったろうか。
 子どもがけがをするとつらい。けがをしたら、と思うだけでつらい。あぶなっかしくて見ていられない。そういう気持ちは、わかる。自分の子が成人した今となっては遠い気持ちだが、こんなに小さくてかわいいのだから、痛い目になんかひとつも遭ってほしくないと、そう思っていた。思ってはいたが、子どもはばんばんけがをした。転んで、ボールにぶつかって、無茶な高さから飛び降りて、おおいにけがをした。もちろん包丁で指を切り、スライサーでも切り、気がついたら何でもできるようになって、もう小さくないのだった。

 おっしゃるとおり実家は広いし、親が料理するところもあんま見てないです。
 友人による「家が広く料理現場を見ない説」を伝えると、部下はそのように言う。小遣いの使い道や遊びなんかは好きにさせてくれたけど、メシは「出してもらうもの」だったな。大人になって自炊しないんならそれでもいいんだろうけど、残念ながら食い意地が張っていたので料理に手を出し、シュウ酸を過剰に摂取するはめになりました。
 しかしあれですね、育った家が「出てくる」環境でも、一人暮らしをはじめたり、作る人がいなくなったりしたら、「メシは出てこない」ってわかりそうなもんだけどな。
 そういうわけでもないか。ないな。考えてみれば、一人でもなんにもしないパターン、ありますね。叔父がたぶんそうです。生活がめちゃくちゃ荒れてるけど、本人は気にしてないみたいな感じです。なんでおれはそうならなかったんだろう。どこに分岐点があったんだろう。今度お友達に聞いてみてくださいよ。

大学院進学ってどうですか

 卒業生が研究室訪問にやってきた。大学院進学を考えているというのである。
 わたしが勤めているのはいわゆる研究大学ではなく、大学院進学者は少ない。たいていの院生は資格取得のために進学して、修士号を取って出ていく。
 そんなだから、一度就職してから進学相談に来る卒業生は、実ははじめてなのだった。在学中から優秀だったが、就職してから自信がついたようで、ますます元気になっていた。進学は正社員身分のまま、自分のお金でしたいのだそうだ。
 あなたは、うちじゃなくてよその院を外部受験するのがいいね、とわたしは言った。無理に今年受験する必要はないのだから、英語の点数をためておくと良い。
 卒業生はその回答もある程度想定していたようで、候補の大学院のプリントアウトを出した。それらについてあれこれ話してから、卒業生は言った。先生個人は博士課程までを視野に入れて大学院進学することについてどう思いますか。先生ご自身が進路を選んだときの決め手とか知りたいです。

 わたしはいくぶんためらって、それから正直に回答した。当面の食い扶持のために進学したんですよ、わたしは。

 わたしが学部四年生のときの就職状況は荒野だった。就職氷河期というやつである。それで世をすねていたら教官が何人かやってきて、「大学院生はバイトの時給がいい」と言う。「都会のなるべく有名な大学の院生になれば食える」と言う。さらに、「研究者になれば経費で旅行ができるよ」と言う。
 そんなうまい話があるかと思ったが、当面の食い扶持が稼げるのは魅力的だった。受験料も安かったので余所の大学院を受験した。
 院生になってみると、たしかにアルバイトの時給は良かった。ティーチング・アシスタントとリサーチ・アシスタントで一人暮らしの家賃くらいは出た。あとは家庭教師をやって、当時人手不足だったSE的な仕事を、民間の会社からもらっていた。特段に技術力があったのではない。「できますか」と言われて「はいできます」と言ってからできるようになればいいのである。夜と休日にしか働かなくても楽々食べられて、遊ぶ金まで残るのだから、学部時代よりずっとラクだった。
 博士後期課程に進んでからは、近隣のあちこちの大学の非常勤講師と技官のような仕事を兼務した。非常勤講師の給与は一般的には低いのだが、知名度が低いとされる私学の中にはかなり割高なところがあり、わたしには嬉しいことだった。その代わり情報処理実習ひとクラス二百人をアシスタントなしで担当するなどしたが。
 仕事をくださいと言えばもらえたのは、たぶん貧乏だったからである。人さまの情けで働き口をもらって、それを悪いと思ったこともなかった。学費は大学院進学以降全額免除だった。

 一般的には、来年度仕事があるかどうかもわからない状態で働き続けるのは耐えられないことなのだそうだ。先だって同業者がそういう投稿をしてバズったというので話題になっていた。わたしは少し驚いた。そういうのぜんぜん平気だったからである。
 苦労してでも研究者になりたかった、というわけでもない。博士課程を出たあとに無関係の仕事をするのもいいねと思っていた。不景気の年に学部を出て、就職先がないから好きなことをして割高なバイトで生活しながら様子を見て、それをずるずると続けていただけなのだ。設備がなくてもできる研究領域の、しょぼしょぼした研究テーマなので、何なら私費でやるのもいいと思っていた。
 民間のエンジニア系職種より授業をするほうが向いているなと思って、あちこちの教員公募に応募して、運良く就職した。
 それだけである。
 今は割高なアルバイトがあるかわからないし、学費も値上がりしているし、そうするとよけいに、食い扶持を稼げる人にしか進学を勧められないなと思う。あと資産家のおうちに生まれて家族がお金出してくれる人とか。
 もちろん、その意見はまちがっているという人もいるだろう。わたしみたいなのではなくて、もっと優秀で、もっと情熱的に研究をしていて、もっと大学教員にふさわしい人がたくさんいると。
 いるのだろうと思う。
 
 わたしはそういった事情をあれこれ脳裏に思い浮かべながら、ごにょごにょと言う。院生しながら自分で食えそうな見通しがあって、なおかつある程度研究に向いている人なら、進学するのもいいんじゃないかと思う。でもその意見が偏っているという自覚はあります。研究能力と食い扶持を稼ぐ能力は別だから。
 じゃあわたしはOKですねと、卒業生が笑う。ほかの人の意見も聞くようにと、わたしは言う。まあ誰に何を言われても好きにするんだろうけど。

ラベルのないときの顔

 うちの人と一緒になろうと思ったきっかけ?
 きっかけは、ある。うん、だいぶはっきりしたやつが。
 あの人が若いとき、勤めていた会社が倒産したの。それもだいぶたちの悪いつぶしかたで、従業員は何も知らなくて、ある日突然「会社がなくなります」と言われて、猶予期間なく追い出される、みたいなやつ。
 わたしはそのとき、「この人とはただ恋愛をするだけではなくて、一緒に生活するのもいいな」と思ったの。彼は幸い転職できたんだけど、その前の話よ。彼が純然たる失業者をやっていたときの話。

 あのとき彼は二十七で、今にして思えばまだ若造なんだけど、あんまり動揺してないように見えた。本人は「困ったなあ。人生でいちばん困った」と言っていたけれど、「二十四時間求職活動をするのでもないから」とも言って、そこいらの川でハゼを釣ったりしていた。
 わたしは勝手に先回りして気を遣って、それから「別れようかな」と思った。ううん、お金の問題じゃない。わたしたちはただの彼氏彼女で、わたしはデートがハゼ釣りであることにとくに異論はなかった。相手が一時的に無収入になることはそれほど大きな問題じゃなかった。なぜ別れることを考えたのかというと、怖くなったから。なぜ怖くなったかというと、職をなくした男性が凶暴になるところを目撃した経験が、わたしにはあったから。

 子どものころ、わたし、お父さんのこと好きだった。わたしの父はわかりやすく子どもを甘やかすタイプだった。小金持ちの「社長さん」で、見た目もしゅっとして、おしゃれで、愛想がよくて、友だちがうらやましがる「かっこいいお父さん」だった。
 でもわたしが小学五年生のとき、父の会社はつぶれた。バブル崩壊からそんなに長くは保たなかったのよね。そんな会社いくらでもあっただろうと、今では思うけど、わたしの家にとっては晴天の霹靂で、世界が変わったような不幸だった。
 そんなとき、皆で力をあわせてやっていけたらどんなによかったか。
 父はわたしの言葉遣いや所作のひとつひとつにけちをつけ、あれをしろこれをしろと命令するようになった。自分の脱いだ服を散らかしてわたしに拾わせて、ほとんど裸でリビングに陣取るようになった。母に対してはもっとひどかった。そうして、あっという間に物理的な暴力もふるうタイプのDV男になった。当時はまだDVということばは人口に膾炙していなかったけど、暴言はともかく暴力はアウトだという認識はあったのに。
 三年ばかりぐずぐずしてから、母はわたしを連れて実家に戻った。
 「お父さん、会社がつぶれて荒れていたから」というふうに、母は説明していた。その程度の理解にしておいたほうが、母にとってはいいんだろうと思う。
 でも、父親は、誰にでも暴力をふるっていたのではない。わたしと母親以外には何もしていない。「荒れる」相手を選択した理由があるはずでしょう?
 大人になってあれこれ本を読むと、あの暴力の数々は、「男らしくするため」のものだったんじゃないかと、そう思うのよ。
 母は父の会社が順調だったときからずっと、「男を立てる女」だった。そんな妻があって、子どもが幼児で、自分が「よく稼ぎ家族に尊敬される父親」をやれているうちは、暴力なんかふるわない。ねちねちと相手を否定して細かく命令する必要もない。そんなことしないほうがより立派な「男」だから。
 でも稼ぎと肩書きがなくなった。
 その状態で「男」をやるには、「女」をしたがえるしか、なかった。社長じゃなくなったら不倫相手はいなくなって、飲み屋にも行けなくて、気がついたら手持ちの「女」は、妻と娘しか残っていなかった。

 わたしは半ば無意識のうちにそういう解釈をしていた。だから、「彼氏が無職になった」という事実に怖じ気づいた。
 ところがあの人はぜんぜん変わらなかったのよ。求職活動のあれこれをおしゃべりして、でもだいたいは別の話をして、釣り糸をたらして、小さい魚はリリースして。
 この人は、職業名や会社名のついたラベルを貼っていなくても、人間が変わらないんだ。
 そう思った。

 今は女の人でも、職業名や会社名に自分をあずけている人が多いでしょう。だからわたし、女友だちに対しても、どこかで「仕事がなくなったときに性格が変わらない人間は安全だ」という、変な認識を持っているの。そう、あなたも失業したことあるよね。あのときもわたし、あなたのこと、じっと見てたのよ。