傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

近所のジジーのこと

 祖父母の代から同じ家に住み、場所が下町なので、東京の人間にしては近所づきあいがあるほうだと思う。近所に大量の顔見知りがいる。
 わたしの家ではわたしが子どものころから犬を飼っている。わたしも、犬を飼う人間としては若くして(ギリ二十代だ)自分の犬を手に入れた。わたしが中学生のころに家に来た母の犬(老犬なのでカートに乗せている)とあわせて二頭を連れ、毎朝公園に行く。朝から出社する日は早く、リモートワークの日は遅い。
 遅い日に顔を合わせる犬友の中に、昔からの顔見知りでもある高齢男性(わたしの家では「爺さん」、腹立たしいときには「ジジー」と呼称する)がいる。この爺さんは去年三代目の犬を亡くしたあと、八十すぎの身で子犬を迎えた。同居する犬好きの息子一家がいるからできることだ。愛犬家としてはもっとも恵まれた老後といえる。

 その日の朝の公園には働く女の飼い主が三人いた。商店主と弁護士とわたしである。彼女たちはわたしよりだいぶ年長で、たがいの犬をかまいながら「いくつまで働くか」という話をしていた。なるほど、二人とも定年のない仕事である。そしてわたしの会社も、順次待遇が変わるが、最長七十歳まで働くことができる制度がある。
 七十までやっちゃおうかなあと弁護士が言い、何もしないとヒマだしねえと商店主が言う。わたしにとってはまだリアリティのない話だ。
 すると別の男性と話していた爺さんが振り返り、大きな声で「あんたらはそんな年寄りになるまで働かなくていいんだ。亭主を死ぬまで働かせろ」と言う。商店主が「またはじまったわあ」とつぶやく。

 この爺さんの頭は昭和で停止しており、女が働くのは(今ふうに言えば)社会貢献や自己実現のためだと思っている。「世の中には女がいなくちゃいけない場所があるからな。立派なことだ」などとのたまう。
 そのようなジジーが、商店主、弁護士、わたしの順に顔を見て、わたしと目が合うとちょっと気の毒そうな顔をした。
 ジジーはわたしの家の祖父と父親がいずれも若くして亡くなったことを知っている。そしてわたしのことを「なんだか長々と大学にいたあげく、三十路を控えて彼氏もおらず、どうやら結婚できなさそう=ワケあり枠の女」だと思っている。工学系で修士卒なんて珍しくもなんともないっつーの。好きで独身やってんの。ものを知らないジジーだよまったく。
 余計なお世話ですー、うちの人にはさっさと引退して長生きしてもらうんですー。弁護士が言う。流石の切り返しだ。いいぞもっとやれ。
 かああ、とジジーが言う(言うっていうか、鳴き声って感じである)。ったくよう、こんなだから世の中おかしくなるんだ。男ってのは、エライんだ。死ぬまで稼ぐんだからよう。それがおまえ、最近の男は、何だ。男らしくねえな。
 弁護士がにやりと笑って言う。それじゃあ伺いますけど、犬を可愛がるのは男らしいおこないなんですか?
 ジジーはぐっと詰まって、それから言う。しょうがねえだろ、女房が可愛くねえんだからよう。嘘よお、と商店主がつぶやく。奥さん最近具合悪いもんだから、四六時中おろおろしてんのよあの人。
 ジジーと話していた男性はジジーの視界に入らない角度に移動し、腰を曲げて笑いをこらえている。男性の犬が楽しそうにわんと吠える。

 あのジジーほんとしょうがねえな、と思う。「女もフルタイムで働け、子どもを産め、家事は九割女がやれ」みたいな令和式男尊女卑に比べると首尾一貫してはいるが、当然、ダメである。
 ダメであり、かわいそうである。
 わたしが幼かったころ、わたしの父の葬式にあのジジーが来て、引くほど泣いた。ジジーは甘いものが好きで、年末には皆に自分が好きでお取り寄せしている菓子を配る。ジジーは子どもが好きすぎて引退後の不動産投資収入を孫の進学資金と子ども関連施設への寄付に回している。秋になると犬の散歩のついでに落ち葉の美しいのを探して持ち帰る。押し葉にして食卓を飾るのだという。
 ジジーは台所に入ったことがなく、入る気も一切なく、伴侶が具合を悪くしてからは悄然として息子の配偶者の手料理を食べているのだそうだ。なぜ悄然としているかといえば近ごろ息子が失業し、「嫁に家のことをしてもらうのが申し訳ない」からだそうである。
 涙もろくて甘党できれいなものが好きで、無類のおしゃべりで、子どもと動物をかわいがりたくて、それでもって「男」であるのは、昔はさぞかし生きにくかったろうと思う。
 そんなだから、わたしも近所の皆も、あのジジーをそんなに嫌いではないのである。ダメなジジーだが。

療養時の手荷物としての気に入りの空想

 簡単な内視鏡手術をした。鼻の病気の手術なので、止血のための詰め物が取れるまでは鼻呼吸が一切できず、ろくにものを考えることができない。手術当日と翌日は傷がかなり痛いし発熱もする。
 だったら寝ていればいいのだが、まとまった睡眠はとれない。気絶するように寝落ちし、口がカラカラになって目が覚める。
 その間の薄ぼんやりした時間をどうするか。肉体的な苦痛に集中しないためにも何かのコンテンツに触れられたらいいのだが、インプットが全然できない。
 しかし私には気に入りの空想があるので問題はないのだった。
 子どものころ、眠る前に空想をしたことがあるでしょう。あれです。私は現役であれをやれる。

 私の小学生から中学生の時分に気に入っていた空想のひとつが、竜を育てるお話である。
 そのときどきでハマったコンテンツにより、背景は和風であったり中華風であったり、西洋風であったり中東風であったり、あるいは中央アジアの山岳地帯っぽかったりするので、(空想における)自分の名前もその都度かわる。
 舞台がどこ風であっても、空想の中の私の身分はみなしごである。村のはずれの、かつて誰かが使っていた小屋に住んでいる。山の資源は村の共有物だが、危険な場所に生える山菜やきのこ、薬草や果実(このあたりは舞台になる場所の気候風土によってアレンジする)があり、村人は採取時の事故を怖れて死んでもいい人間にそれを取らせている。私はそれを取って村に持っていく。それでもって子どもながらに一人で暮らしを立てている。私は身軽で運動が得意な少年で、村人からは「あの猿」というふうに呼ばれている。
 採取物はもちろん買いたたかれるから、こちらもそれなりに小ずるく、しかし迫害されないように立ち回り、うまくやっている。私(猿少年)は頭がいいのである。
 ある春の日、高く売れる薬草が生えるはずの秘密の場所に行くと、そこには雑草しか生えていない。それで私は腹を立ててもっと奥へと進む。するとそこには、ごく小さい竜がいる。この世界では人と竜は断絶した存在で、忌むべきものとされている。
 しかしその子竜はあまりにかわいいので、私は自分の小屋にそれを連れて帰ってしまう。この世界ではとんでもない破戒だ。

 そういうお話である。空想するときには任意の場面と登場人物を設定する。おおまかなストーリーとしては、私は竜と暮らすうちに竜という生物について理解し、そのコミュニケーション様式を明らかにして、最終的にはこの世界の人と竜の関係を一変させ、英雄になる。このストーリーラインのどこを切り取ってディティールを載せるかはそのときの気分次第である。
 このお話には、私の子どものころの「自分の力で生きていきたい」「運動が得意になりたい」「動物と特別な仲になりたい」「観察と記録によって対象を理解したい」「世界を変える英雄になりたい」といった大小の願望が臆面もなく盛り込まれており、かわいいと思う。冒険をするには少女ではなく少年でなくてはならないと無意識に思っているあたりはちょっとかわいそうだなと思う。

 そんなわけで手術後は久しぶりにこの空想を取り出し、竜の持つ認知や言語についてあれこれ設定を考えた。楽しかった。あとタイトルも考えた。「○○(世界設定に応じた私の名前)ー翼を持たずに生まれたドラゴン」にしよう。
 私がそのように話すと、家族は「三つ子の魂百までってやつだ。何かというとお話を作る」と言う。私は笑う。笑っても何をしても涙が目から出る。鼻の病気の手術の直後はあれこれの穴がふさがっているので、何かというと涙液が目から出るのである。
 泣きながら食事をするのも変だわねえ、と私は言う。それから「泣きながら食事をする」の連想について話す。
 あなたは荒廃した世界で運び屋などしながら暮らしているくたびれた中年です。そう、あなたがやってるあのゲームの世界ね。ある日、人がいなくなったはずのエリアで子どもを見つける。気まぐれで連れて帰って食料をやると、子どもは泣きながら食う。かわいそう。でもあなたは子どものことなんかよくわからないから放っておく。子どもにとってはそれがいいんだね、良い意味で無関心なので危害を加えられることはないと安心するわけだ。このあと、子どもとあなたの距離はたいして縮まらないんだけれど、荒廃した世界ではともに暮らす他者の存在そのものがいつしかかけがえのないものになるのさ。でもって何やかんやあって最後は子どもをかばって死ぬ。
 おれが、と家族が言う。あなたが、と私は言う。家族は苦笑して言う。本当に退屈しない人だ。

率直なおばさんと上品なおじさん

 鼻の病気で手術をすることになった。かかりつけのアレルギー科での治療記録とアドバイスと自分の希望を取りまとめた書類を作って専門医に行ったら、初診でレントゲンを撮ってその場で決まった。
 手術するとすごく良くなる、と院長が言った。チャキチャキ話す中年の女性である。
 手術適応なら手術したいんだ、いいねえ、しようしよう。この状態は相当辛いよ。そりゃあなた、手術するような病気なんだから。
 術式はこれとこれとこれ。すぐ終わる内視鏡手術、うちでやるなら日帰り。大学病院も紹介できる、うちの手術にはその大学病院の先生が来て執刀するから一緒、でも、大学病院は入院もできる、けど、かーなーり、先になるかも。うちで最短だとこの日程。お、いける感じ?
 
 とにかく話が早い。私はそのように思い、ちょっと愉快な気分になって、必要事項を伝達する。
 っしゃ、決まり。院長はそのように宣言し、早口で私のスケジュールを確認しながら前傾姿勢で打鍵音を響かせ、あっというまに術前検査から術後処置まで含めた一連の予約を確定させた。それから私に手術前後行動について書かれた紙を手渡し、言った。仕事はねこのスケジュールでデスクワーク可、けどもうちょっとやらないに越したことないと個人的には思う、辛いから、手術当日なんかぜんぜんちっとも寝らんないと思う。
 了解す、と私はこたえる。
 院長は高速で頷きながら高額医療助成知ってる高額医療助成、と言う。知っていますとこたえると高速うなずきを継続したまま言う。じゃ、手続きは受付スタッフから聞いてね。
 効率が良い。
 受付前の椅子で待ちながら、効率について私は考える。あの院長の場合、明るいキャラクターと愛想の良さがストレートな物言いの不躾さを相殺しているので、愛想までが効率に寄与している。効率だけを考えたら同じ語を二回繰り返す必要はないような気がするが、大事な単語は二回繰り返すような冗長性が最終的にもっとも効率的な伝達をもたらすのかもわからない。

 執刀医はおっとりした口調の初老の男性だった。手術当日、彼はマスクからわずかに出た目と眉だけで「お辛いことですが」というようなニュアンスをただよわせ、このように言うのだった。今夜はゆっくりお休みになるというわけにはいかないと思います。
 院長と同じこと言ってるのにえらい違いである。可笑しかった。
 手術後、ご心配になることもあると思うので、と執刀医は言ってスマートフォンを取り出し、LINEをされていますか、と訊くのだった。LINEで術後をサポートしてくれるのだそうである。
 私は驚いた。今の医療、そんなことになってるのか。それなら手術までの期間が短かったことを考えに入れなくても、日帰り手術のほうがいいじゃん。同室の患者さんに気を遣わずにいつもの自分のベッドで過ごして、食べたいもの食べて(食事制限はないのだ)、自分で判断できないことがあったらお医者さんにLINEすればいいんだから、入院よりずっといいや。

 付き添いの方は、手術後にお休みする「リカバリールーム」から入っていただけます。何時にいらっしゃいますか。
 執刀医がそのように尋ねるので、付き添いは必要ありませんと私はこたえた。付き添い必須でないことは、あらかじめ受付で確認してあった。
 たとえば私が全身麻酔から覚めないとか、そういう問題が発生したら、提出した書類に書いた番号に電話してもらえれば、すっとんで来ます。十分で来ます。何もなかったら必要ないです。何かあったときには先生方ができるだけのことをしてくださるのだし、付き添いは医療者じゃないし、帰りはタクシーですし。
 そうですか、と執刀医は言った。こころなし悲しそうだった。
 私は無神経な患者だったのかもわからない。手術着に着替えながら、私は少し反省した。あの上品な執刀医は、患者の不安な気持ちによりそっているのだろう。付き添いは医療的な役割を持たないけれども、全身麻酔からさめた人は誰かに手をにぎってもらうのがいいと、そういうふうに考えているのだろう。非常に低い確率だが起きないとはいえない麻酔の事故に言及したのもよくなかったかもわからない。
 私は無神経な患者だった、と思う。今後の人生でまた手術をすることがあれば、付き添いを呼んで、「付き添いがいるので不安がやわらぎます」という顔をしよう。そして麻酔の事故など不吉な可能性について露骨にしゃべらないようにしよう。
 それにしてもあの執刀医、院長みたいな率直なタイプとよくうまくやっていけるよな、と思って、少し笑う。率直なおばさんと上品なおじさん、治療よろしくお願いします。

大つごもりver.13

 昼間ずっとうとうとしていて、大量の夢を見た。すべて大晦日の夢である。
 簡単な手術をした。痛み止めが効いているとはいえ、痛いものは痛い。手術箇所の都合でろくに寝返りを打てないこともあいまってずいぶんと寝苦しく、寝床に入っている時間は長いのにろくに寝た気がしない。きっとそうなるだろうと思って休暇の入り口に手術をした。それで昼間もずっとごろごろして、眠れたら眠っている。

 大晦日とはいえ、子どもが進学のために出ていったあとは、季節行事らしいことをしていない。わたしたちは元来、そのあたりにドライなたちだ。この数年は近所の決まった店で蕎麦をたぐり、帰りに銭湯に寄るが、そんなのは毎月のようにやっている。たまたま大晦日にあいているのがそれらの店舗だという、それだけの話である。わたしたちは銭湯が好きなのだ。蕎麦はもっとたくさん食べている。
 正月も雑煮くらいはやるが、あとは何もしない。筑前煮はだいたいある。しかし、筑前煮だって正月以外に年に二度三度はやるのである。正月だけにやることではない。
 ただの休みである。
 思えばわたしたちは、子どもの教育のためにと思って、年中行事をがんばっていた。わたしたちがふたりとも経験しなかったことを、ぜんぶやらなければいけないような気がして。こんなの毎年ずっとやってきたんだという顔をして。
 あのころのわたしたちは、芝居がかって滑稽で、一生懸命で、かわいかったと思う。

 大晦日から元旦にかけてだけ、わたしたちは同じ家にいない。いつもは連絡を取ったりもしていないのに、その日だけ、彼女は生まれた家に帰る。
 わたしにはそういうのはない。母親は再婚して遠くにいて、向こうの家には息子さんがいるから、わざわざ年末年始に会いに行くことはない。
 女二人でローンを組むために、わたしたちはかなりの苦労をした。世の中のさまざまな種類のいやなところをそれぞれ別鍋で煮詰めた場面を猪口一杯ずつ飲まされるような数ヶ月を過ごして、そうしてわたしたちは、この小さな家を手に入れた。
 大晦日から元旦にかけて、彼女は、この家にいない。わたしはそのことを、そんなに気にしてはいない。そういうものだよなと、そんなふうなことを、あいまいに思って、そうして忘れる。明日もいつもどおり海岸に出て、犬をたっぷり散歩させる。

 今年は雪の降る山の奥にした。有名な温泉でないから、年末年始もとくに高価ではない。去年は外国の都市だった。一昨年は国内の離島。
 わたしは就職して以降、同じ場所で年末年始を過ごしたことがない。わたしは必ずどこかへ行き、ときに誰かと一緒の日があるにしても、基本的には自分ひとりで過ごす。それがわたしの祝祭であり、一年間の労働に対する、何より適切な報酬なのである。
 わたしはそのような生活を好む。ほかの何よりも優先している。
 恋人からメッセージが届く。なにげなくあたたかな、いつもの調子である。しかしそこには小さな棘が隠れている。わたしはそこにいくらかの不満をかぎつける。あの人はわたしの性質を理解しており、かつ用心深く、ふだんは矩をこえないが、年末年始には気が緩むのかもわからない。あるいは、そろそろ不満を表出して要望を通してもよい時期だと思っている。
 長くつきあいすぎた、と思う。恋人は素晴らしい娯楽のひとつだが、このような年末年始ほどには、わたしに不可欠の存在ではない。

 何度か寝て起きてぼんやりする。手術のあとだからである。
 わたしは誰だったろうかと思う。この一日で一ダースくらいの人間の大晦日をやった気がする。
 もちろん、その人たちは他人ではない。わたしはわたしの頭の中から出て別の人になることはできない。それらはわたしの夢で、その人たちはすべてわたし自身の別のバージョンなのだろう。年をとった人、若い人、子どものいる人、孫もいるかもしれない人、子どものいない人、パートナーのいる人いない人、男であるような人と女であるような人とそのどちらでもないような人、子どもやパートナーのその人にとっての意味。
 わたしがどこかで考えを変えていたら、今そのどれかだったかもしれなかった、そのどれかにこれからなるのかもしれなかった、一ダースの大晦日

 良い夢だったな、と思う。
 せっかく手術をして具合が悪いのだから、またそんな夢を見ようと思う。次のバージョンのわたしの夢を見ているうちに、この大晦日が終わるだろう。

恋人ではないサンタクロース

 サンタクロースはいないんだよ。
 部屋の隅にわたしを呼び、小さな声で、彼は重要な事実を告げる。そうか、とわたしは重々しくうなずく。そうだったのか。知ってるくせに、と彼は言う。わたしは彼の母親と同級の友人で、彼が生まれた時からばっちり大人である。だからわたしはその事実をとうに知っていると、彼は判断している。妥当な判断である。
 それが、そうでもないんだ。
 わたしもひそひそ声で言う。わたしだって、サンタクロースはいないと思ってた。でも大人になったら、かえってそのあたりがよくわからなくなってね。毎年じゃないけど、突然プレゼントをもらうことがあるんだ。うん、今でも。大人なんだけどな、何だろう、バグかな?

 わたしはこの家のクリスマスとお誕生日会(子どもの一家だけ、あるいは子どもの友人を招いておこなうホームパーティとは別に開催される、親戚などが来る会)に毎回呼ばれている。赤の他人なのに。
 でも子どもにとって参加メンバーが親戚かどうかはあんまり関係がないみたいだ。子どもが生まれた時分に友人一家が引っ越したマンションの近くにわたしが住んでいたので、親戚より頻繁に一緒に過ごしていた。そんな経緯でわたしは「いて当然」のメンツに数えられており、しかるべきイベントに参加しないと後で子どもにめちゃくちゃ怒られるのだ。
 いつまで怒ってくれるんだろうと思う。
 だってもうこの家の子どもはサンタクロースがいないことをわかっていて、なおかつ「サンタさんからのプレゼント」という名目の贈り物を平気で受け取る、そういう年齢になったのだ。

 そうかそうかと、子どもの親である友人が笑う。
 そんなことを言っていたのか。親には言わないんだよ、もう信じていないという合意はなんとなく形成されているんだけど、お伽噺を演出していた親に子どもなりに気を遣っているんだろう。プレゼントが減るのも嫌なのだろうし。
 それであなたは何とこたえたの。
 そうか、嘘はつかないんだね。

 そう、わたしは子どものための嘘をつかない。嘘が下手だからである。わたしは実際のところ、「サンタクロースがいないとは言えない」と思っている。といっても、恋人がサンタクロースとか、そういうのではない。
 なんか、もらえること、あるじゃん。わたしはそのように言う。理不尽な贈り物を、理不尽なかたちで、なぜだかもらうこと、あるじゃん。世界のバグみたいに。あの理不尽に比べたらサンタクロース説のほうがよほど合理的な説明をしていると思う。運が良いって言うけど、運って何だよ。意味がわからない。未検証という点ではサンタクロースと変わらない。しかも細部の詰めが甘い。反証可能性が担保されていない。

 友人が笑う。いいじゃないか、サンタクロースでも運でも縁でも魔法でも人間の善性でも、好きな名前をつけたらいい。あなたは、ときどき枕元に突然プレゼントが置かれているような人生を過ごして、「世界が理由もなくわたしに良くしている」と思う、こんなのバグじゃないかと思う、何かのしかけがないと説明がつかないと思う。
 そう思っている人はけっこういる。そうしてわたしはそういう人たちを好きだよ。同じような境遇で「理不尽に奪われている」と思い続けるよりよほど楽しそうじゃないか。

 友人の家から帰る。いま現在、友人一家は以前のマンションよりいくぶん郊外に家を建ててそこに住んでおり、わたしのご近所さんではない。コンビニエンスストアのドアの横には駆け込み需要にこたえるためのクリスマスケーキを積んだワゴンが出ていて、サンタクロースの扮装をした店員が商品のひとつに「売り切れ」の札をつけている。
 あの人にもサンタクロースはいるのだろうと思う。
 わたしもサンタクロースの扮装をしてアルバイトをしたことがある。十六から十八の冬のことだ。そのころはまだ、サンタクロースはいないと思っていた。生育歴の問題で幼いころにもサンタクロースの夢を見た経験がなかった。サンタクロースは養育者に愛された子どもにだけ与えられる特権的な物語だと思っていた。きれいなお話ですねと。
 その後わたしは十年ばかりかけて、サンタクロースのお話を仮説のひとつとして採用するに至る。世界にさんざっぱら良くしてもらって、その理由がまったく理解できず、さまざまな仮説をかき集めるはめになったからである。
 自宅に戻って確定申告の準備をする。わたしはもちろんサンタクロースでもあるので、寄附の控除の手続きをするのである。

「いろいろ」を生やす

 年始はあんまり人気ないんですよ。だから年明けの日程が最速ですね。
 そう言われた。簡単な手術を受けることになり、その予約を取ったときのことである。
 簡単でも手術は手術なので、前後に生活の制限が発生する。年末年始は帰省や旅行で遠方に行ったり、つきあいの席があったりするので、それが制限される日程は人気がないのだそうである。命に別状がなく緊急性の低い病気の、(医師いわく)よくおこなわれる手術だから、受けるほうも生活への支障が少ない日程を選びたがるのだろう。
 これは病気かも、と思ったとき、わたしは症状のあらわれかたを時系列にまとめ、関連する治療歴と治療に関する希望をA4コピー紙1枚にまとめて病院へ行く。専門医にかかる前にかかりつけで病気の種類のアタリがつくこともあるので、そういうときは標準医療での選択肢も調べておき、複数の選択肢があれば意思決定を済ませておく。
 このたびは「手術適応ならできるだけ早くやりたい」と例のA4に書いておいた。それであっというまにスケジュール調整に入り、年始は手術の人気がないのだと、そう聞いたのである。

 わたしは年末年始をやらない。お歳暮も、大掃除も、おせちも、晴れ着も、帰省も、親戚の集まりも、わたしの知ったことではない。特番も観ない。年末年始に随所で提示される「正しい家族」像みたいなやつが超嫌いで、坊主憎けりゃ袈裟まで憎いのである。なお、餅は好きだから日本にいる年には食べる。和菓子屋がつきたてのを売ってくれるので。
 そういう人は、どうやらけっこういる。わたしのように全部ぶっちぎって何もせず家にいる、あるいは外国に行く、という人間も少しはいる。「いちおう実家に行きはするけど、楽しくはない」みたいな人はもっといる。そりゃそうだよなと思う。まさかあれが全人類の幸福であるわけがない。父と母と子の役割ががっちり決まってて幸福の形式がいっこしかない、あの世界。
 それはわたしの幸福じゃないのよ、と思う。わたしはわたしの幸福をやるので、あなたはあなたの幸福をやってください。そう思う。

 だから手術前後の食事制限も旅行NGもどんとこいである。忘年会や新年会のお誘いも、「ごめーん、十二月前半か一月末以降でいいかしら」と言えばみんな調整してくれる。職場のつきあいはゼロである。年末年始があんまり関係ない職場なのだ。
 わたしの年末年始の恒例行事は「年末年始バー」だけである。
 バーといってもお酒は要らない。インターネットでやる行事(?)だからだ。匿名で投稿できる質問箱サービスを使って、質問でなく「年末年始こんな感じであれなんですよ」みたいな話を投稿してもらう。そしてそれに返信をする。とくに役に立つお返事ではない。「ははあなるほどねえ」「それはあれですねえ」みたいなやつである。わたしは役に立つものより役に立たないもののほうがずっと好きだ。
 このやりとり、かなり楽しい。世の中にはいろいろな人がいるんだなと思う。そう思うと、わたしは愉快になる。一律はおもしろくない。一律にはまらない人間をないもののように扱うやつらが嫌い。「いろいろ」が雑木林みたくにょきにょき生えてるのが良い。そういう嗜好を持って生まれた。
 年末年始に関する「いろいろ」が生えてくる苗床が、年末年始バーとしての質問箱である。
 わたしは生まれてはじめて手術を受けるので、話してもいいよという人がいたら手術話を送ってもらうのもいいかもわからない。わたしが受けるのは日帰りの簡単な手術で、何ならとっても楽しみなのだが(長年うっすら苦しんできた慢性疾患が激化して手術することになったので、治ったら見える世界が変わると思う。あと、シンプルに体験したことのないことが好き)、世の中にはいろいろな手術があり、年末年始を病院で過ごす人だっているだろう。
 「年始の手術は人気がないんですよ」と笑った医師も、たいへん効率的な事前検査をしてくれた技師も、痛くない採血をしてくれた看護師も、年始早々に、もしかすると三が日から、働くのかもしれない。
 典型的な年末年始のイメージは嫌いだ。でもいろんな人のいろんな年末年始は好きだ。空気の澄んだお正月の、人の少ない東京も好きだ。華やぎの気配を残した清潔な場所に自分ひとりが取り残されて、もう誰も戻ってこないと知りながら歩いているような、あの感じが好きだ。いろいろな場所の、わたしの知らない年末年始の話が好きだ。どうぞ、みなさん、良いお年やあまり良くないお年の話を、わたしに聞かせてくださいね。

わけわかんなくなりたいの

 海外旅行がお好きなんですよね、どんな風に楽しむのですか。
 そのように訊かれることがある。たいていの相手は話のつなぎにしたくて言っている。実際にわたしがどのように海外旅行を楽しんでいるのかを知りたいわけではない。だからわたしも「美術が好きなので、大きな美術館のある都市に行くことが多いですね」などと言う。
 嘘はついていない。美術は好きだし、海外の美術館にも行く。日本にも有名な作品がたくさん来るけれど、なにしろ混む。外国に行けば混まない。たとえばオランジュリーでモネの睡蓮とわたしだけの夕刻を過ごす。最高だ。
 でもほんとうは、そんなのはおまけである。
 わたしはほんとうは、ただわけがわからなくなりたくて、それでせっせと節約しては外国に行くのである。

 たとえば外国で道を渡ろうとする。信号がない。あるいは、青信号でもガンガン車が通っていく。さもなくば道幅がめちゃくちゃ広くて横断歩道っぽいものが途中で途切れている。
 はじめての町でわたしは、道さえ満足に渡れない。わたしは十二の子どものように無力で、今夜泊まるホテルのカードを命綱のように握りしめ、渡りたい道の向こうを、額縁の向こうのように遠く見る。
 訪問二度目の、少しだけ慣れた都市で地下鉄の駅に入る。電光掲示板が暗い。券売機も改札機も動いていない。改札はあきっぱなしで、人がどんどん出入りしている。
 わたしはその場に立ち尽くす。
 そのうち親切な人が寄ってきて、わざわざ英語で教えてくれる。今日はストだから駅員はいない。電車はすべて無料、勝手に乗って勝手に降りなさい。市内はそれでOKよ。

 たとえばそういう経験を、わたしはしたいのだ。生活のための基本的な法則を知らない状態に戻ること。ゼロから学習しなければ移動もできない脆弱な生き物に戻ること。拙い必死のコミュニケーションをとること。

 外国でわたしはおそらく「生き延びる」をやっている。それがわたしの娯楽なのである。
 わたしに、人生の目標のようなものはない。将来の夢を持ったこともない。子どものころからずっとなかった。わたしにあった長期的目標はただ生き延びることだけだった。そういう生まれ育ちなのである。
 十八で学生寮に入ったとき、二十歳で経済的に完全な独立を果たしたとき、二十二歳ですべての書類から血縁者の氏名を消せたとき、わたしはすごく、気持ちよかった。わたしはあの「生き延びた」という感覚以上の快楽を、中年期の今に至るまで知らない。
 だからわたしはその影を見たくて外国に行くのだろうと思う。誰のことばもわからず、誰もわたしのことばをわかってくれない、遠いところへ。

 それにしたってずいぶんと行ったから、もうあんまり必死になるシチュエーションに巡り会えない。空港でSIMカードを買って入れ替えたスマートフォンがあればなおのことだ。カフェのWi-Fiだけが頼りだった十年前を、わたしは少しなつかしむ。でも意識してスマートフォンを使わないということはない。「生き延びる」はそういうタイプのゲームではない。

 そしたら町じゃないところに行くのがいいですよ。
 旅行好きの集まりで、顔見知りの青年が言う。
 僕こないだタイのアカ族の村にお邪魔してきて、えっと、友人が言語学やってて、フィールドワークに連れてってもらったんです。そんで草いっぱい食べてきました。
 草って、麻薬とかじゃなくて、そこいらに生えてる草です。あのあたりには麻薬づくりのエリアもあったけど今はもうないです。そのずっと前から、伝統的にさまざまな植物を利用してきた民族なんです。服より先に採取した植物を入れるかばんを手に入れたという神話があるそうで。服はそのかばんをバラして作ったんだって。聞き取りの間違いかもしれないけど。
 最終、俺らの旅行ってこうなっちゃうんだなって思った。山の中で「うわあ百パーセント右も左もわからない」と思いながらそのへんの草を食う。草の名前は教えてもらえるけど、名前の意味はわからない。アカ語は難しい。そんなのでようやく本格的に楽しくなる。
 この種の旅行好きなんて可哀想なもんですよ。死なない程度の未知を体験しないと気が済まないんだから、年とったらどうしたって積む。経験が増えて知恵がついて費用に余裕ができて、積む。現地の人が商売で相手してくれる範囲を超えたらもうできることがない。俺も草くったあとどうしていいかちょっとわかんなくて困ってるところです。あ、これどうぞ、土産の草。向こうのお茶です。

 わたしは彼ほどハードな旅行を頻繁にやったのではない。だからまだ「草を食う」楽しみは残っている。