傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

他人のプロレスを笑うな

 A助教はわたしたちが学部三年生から四年のあいだ、実習室の主をやっていた。
 そのころわたしたちの大学の大学院生が急激に増え、院試をだいぶ厳しくしても院生室の机が足りなくなったのだという。それで通常は院生室にスペースをもらっている任期つき助教の居所が実習室の一隅に移された。実習室は配分される予算と授業の定員に比してやけに広く、空間が余っていたのだそうだ。そんなわけでA助教はそこに二年ばかり、いわば小さな研究室をかまえることになった。
 かわいそうである。
 なぜかわいそうかといえば、助教としてもらえる空間と持ち物(デスク、椅子、機材、天井までの本棚一棹、それらを除いて二畳ばかりの占有空間)は同じであっても、実習室では始終授業がおこなわれ、何ひとつわかっていない子どもの顔した二年生やら三年生やらがうろつき、少々もののわかった四年生に至っては夜まで居座って、何かといえば「Aせんせー」と寄ってくるからである。A助教はそのころまだ二十代で、自分の大学院に博士課程の籍を置いたまま昼はわたしたちの大学で助教の仕事をし、夜な夜な博士論文を書いていた。
 オールストレート進学の博士課程後期在学中にフルタイムのアカデミックポジションを得つつ学位論文を準備していたのだから、今にして思えば優秀なエリート研究者である。でもそんなことわたしたちにはどうでもいいことだった。

 A先生は助教だから授業を持っていなかったけれど、訊けばイヤそうな顔しながら簡潔かつ的確に教えてくれたし(だいたいは「これを読みなさい」だった。ときどき資料の現物を貸してくれた)、わたしたちはやれソフトウェアの挙動がおかしいのデータの解釈ができないのプリンタの紙詰まりが直らないのといった理由で簡単に「せんせー」とやっていたから、距離は近かった。
 それである飲み会のさなか(いま思えば絶対に超多忙なのに飲み会には毎回来てあまり愉快でなさそうに学生の相手をしていた)、誰かが尋ねた。A先生はプロレスがすごくお好きだそうですね。あれって格闘技というより八百長じゃないですか。それとも八百長を楽しむんですか。

 A助教はその卓についていた全員の顔を見渡してため息をつき、言った。きみ、プロレスに向かって八百長などというのは、ゴジラに向かって「ぬいぐるみー!」と叫ぶようなものだ。
 ゴジラはぬいぐるみだ、もちろん。あるいはCGだ。しかしゴジラ映画の中にあってそんなことを言うやつは人間ではない。ゴジラゴジラだ。映画の中ではね。そしてプロレスの観客は映画の中で逃げ惑う人間たちと同じ立場だ。だから嘘をついているのでも現実の中で欺瞞をやっているのでもない。別に仲間になれとは言わない。だから僕らのことはどうか放っておいてほしい。
 そうだな、きみたちの大好きな恋愛と同じだ。いや今はある種の恋愛よりある種の結婚かな。そう、結婚はただの民事契約だよ。それ以外はきみたちがその中でやっているロールの結果として幻視されるものにすぎない。でも誰もそれをばかにするべきではない。他人のプロレスを笑うことを、他人の神聖さを笑うことを、僕は軽蔑する。どんなに滑稽に見えても、そして構造的な問題があったとしても、その問題の社会的な取り扱いとそれを必要とする個人への対処は別であるべきじゃないのか。うん、もちろんだいたい問題はあるんだが、それが誰かの人権を著しく侵害しているケース以外では、積極的に介入するつもりもない。ロマンというのはそういうものだと僕は思うよ。でもね、あなたがたは、たちの悪い安いロマンに引っかかるような人間になるのじゃないよ。

 わたしたちにはその話のいくらかしかわからなかった。でもA先生がそんなだから、わたしたちはみんな彼を好きなのだった。小柄でやや小太りで丸顔で髭をはやして、がんばって老けて見られようとしているスーパーマリオみたいな、すごく頭がよくて結局のところお人好しの、酔うほどに言葉使いが丁寧になる、ひどく若い先生。

 わたしが最後にA先生に会ったのは卒業後すぐのことである。
 A先生は着任時すでに妻があったから、わたしの卒業後には新婚と言うには長い結婚生活を過ごしていたはずなのだが、いかにも新婚カップルという様子で食事をしていた。わたしは彼氏に誕生日を祝われるために来て、背中合わせの席についたのだった。
 A先生夫妻は一時間もするとわたしの横を通ってレストランを出ていった。ちょっと目があったので、わたしはうろ覚えの記憶をたどってアントニオ猪木のポーズを小さくつくった。A先生はうつむき、わずかに笑って、それから後ろ手を振った。

旅麻薬とわたし

 遅い夏休みが取れたので外国でぼんやりすることにした。
 これは文字通り何もしないで知らないところで薄ぼんやりする遊びである。旅行は旅行なのだが、リゾートでも観光でもないので、わたしは「外国でぼんやりするやつをやってくる」と言って出かける。

 旅行趣味の人間の多くは大学生あたりでバックパッカーを経験しており、三十そこそこで一度それに飽きる。もう少し年長になってから個人旅行を繰り返す者もいて、このタイプは遅咲きのぶん少々リッチな(ゲストハウスではなくホテルに泊まるような)旅行をするのだが、たどる道はさほど変わらない。国境を越えるだけで嬉しい時期が終わると、自分のテーマを据えた旅行をしはじめるのだ。
 わたしは美術が好きなので、美術めあての旅行をしていた。人によっては自然観察であったり、グルメであったり、アウトドアスポーツであったりするのだが、要するにふだんの趣味を外国でやるのである。
 これはいつやっても楽しい。でも「旅行」としては飽きる。なぜ飽きるかといえば、「こういうものだろう」と思って行って、だいたいそのとおりになるからである。ルーブルは楽しかった、プラドも楽しかった、メトロポリタンも楽しかった、きっとバチカンも楽しいだろう。
 でもそれだけである。
 ある種の海外旅行好きは、旅でしか出ない脳内麻薬にアディクトしている。美術好きがでかい美術館に行けばそりゃ楽しい。楽しいが、「旅麻薬」はあんまり出ない。
 このようにしてある種の旅行好きは旅行キャリア十年から十数年で一度行き詰まる。

 じゃあやめたらと人は言うだろう。わたしもそう思う。でもわたしたちは旅行をやめることができない。旅麻薬が忘れられない旅行ゾンビと化す。なんでもいいからどっか行きたい。もちろん国内でもいい。住んでるところじゃなければどこでもいい。
 旅行ゾンビたちのたどる道はいくつかある。移住や二拠点生活、ワーケーションに解決を見いだす者もいる。とにかく一つところにじっとしているとだめなのだ。じっとしているくらいなら、たとえば職場のみんなが面倒がる近距離出張を引き受けるほうがずっとましなのだ。わたしは東京に住んでいるのだが、もう千葉でも神奈川でもいい。そして降りたことのないローカル線の駅で降りてうろうろ歩く。
 なかには自分の子どもや甥姪、旅行をあまりしてこなかった友人などを連れて海外に行き、彼らがフレッシュに観光しているようすをにこにこして見ている係になる者もある。「タノシイネ……ヨカッタネ……キミモコッチニオイデヨ……」と思うのだそうである。ゾンビは人間を噛んでゾンビにする。
 でもそういう相手ってたいていほどよいところで切り上げてたまの旅行をずっと楽しむんですよね。わたしたちはなぜ彼らのようでなかったのだろう。

 そのようなゾンビの一員であるところのわたしが最近やっているのが「行ったことない国に何の予定も立てずに行ってほっつき歩いてぼんやりする」やつである。幸い、まだ二十数カ国しか行っていないから、未踏の国はいっぱいある。休暇が取れるとそのなかのひとつを選ぶ。
 事前準備もじゅうぶんに楽しむのがゾンビ・スタイルである。すすれるものは全部すする。主な準備は読むことである。その国の作家の作品やその国が舞台になっている小説なんかを探して読む。昨今はいろいろな国の作品を翻訳で読むことができてありがたいことである。それから簡単な現地語を勉強する。あいさつと数、買い物のせりふ、交通機関の使い方を覚えるのだ。タブーやチップの相場といった旅行者としての振るまいも予習する。最近は何でもYouTubeに出ているようなのだが、それらの視聴は控えている。個人的には文字情報くらいが好ましい。
 わたしはモロッコで「ありがとう! ディスイズフォーユー」と元気にチップを差し出して、「すごい田舎者が来ちゃったな」みたいな感じで苦笑され、当地における洗練されたチップの渡し方を教授されたことがあるのだが、それくらいがいいのである。
 そして現地に飛び、やたらと歩き、適当な宿や適当なカフェや適当な川辺で薄ぼんやりし、停電や虫に驚き、来ている国とはまた違う国の本を読み、よくわからない草が入ったよくわからないスープなどを食し、気が向いたら観光して、気が向かなかったらせず、帰る日が来たら不承不承に帰る。
 今のところそれがいちばん旅麻薬がキマる気がする。帰ると脳の中に詰まっていた小さいゴミがぜんぶ流れ去っている感じがする。

 そんなわけでわたしはまた空港にいる。この種の旅行に飽きたときのことは、考えないようにしている。

暫定彼氏の不適切な逆襲

 うん、ちょっと聞いてほしくてさあ。トラブルの始末はしたから、聞いてくれるだけでいいの。
 ここ一年ばかりのわたしの彼氏ね、あの人と別れたんだけど、うん別れたこと自体はたいした話じゃなくて、その理由を聞いてほしいのね。えっと、盗撮なの。わたしの写真とか、動画とか、身分証明書とかを、こっそり撮ってたの。うん、警察行った。そのトラブルそのものの話は、まあいいんだ、今日は。

 あなたに聞いてほしいのは、元彼がそんなことをした理由。
 ねえ、毎回毎回彼氏のこと大好きになってつきあってる?
 そんなわけないよねえ。そういう人もいるんだろうけど、わたしはそうじゃない。三十五年生きてきて好きで好きでしかたなかった彼氏は二人だけ。十代でひとり、二十代でひとり。好きで好きでしかたない相手なんてめったにできない。で、そんな相手と続けばいいけど、わたしはその大好きだった二人とは数年ずつで別れた。その上で結婚願望なし、子どももほしくない。
 そしたら、まあヒマよ。
 仕事して家事して趣味して、友達と会って、その上で、ときどきデートとかセックスとかする相手はほしいと思う。わたしはね。相手のことイヤじゃなくて、他につきあいたい相手もいなくて、いろんな男をとっかえひっかえしたいわけでもないから、「じゃあこの人を彼氏にしよう」と思う。そして彼氏を作る。直近の元彼みたいな彼氏を。で、飽きたら別れる。
 それが悪いとも思ってなかった。今でも悪いと言い切ることはできない。そういう人はいっぱいいるだろうという意味でも、わたし自身の倫理観という意味でも。
 でもねえ、それするならもっとちゃんと考えたほうがよかったなって、そういう話なの。
 もちろん盗撮したやつが悪い。元彼が悪い。ぜったいに悪い。そんなやつめったにいない。ぜんぜん裁かれてほしい。
 それはそれとして、彼をそうさせたメカニズムについて、わたしはまったく考えていなかったし、考えようとしたこともなかったんだなって、そう思ったの。

 元彼はわたしのことめちゃくちゃ好きだったわけじゃない。わたしそういうの敏感なんだ。「自分が大好きというわけではない、おそらく暫定の彼氏」を作るとき、自分に身も世もなく恋してる相手は真っ先に外さなきゃいけない。だって危ないじゃん。わたしだって、もし、自分が大好きな人から「別に大好きではないがイヤでもないし、ヒマだし、しばらくこいつを彼女にしておこう」みたいな扱いを受けたらものすごい落ち込むし、相手を憎むことさえあるんじゃないかと思うよ。好きで好きでしかたないから切れるのも辛くて、相手を憎むだろうって。
 それくらいの想像力はある。いや、ありますよ、さすがに。
 元彼はそういうのじゃなかった。わたしと似た感覚で暫定彼女を作ってた。そこがよかった。公平だから居心地がいいもの。
 ただ、その居心地のいい感覚が、この半年くらい、なかった。表現が難しいんだけど、人間が二人密室にいて安心感があるのとないのはずいぶん違うじゃない、相手のことばや身振りが変わらなくても。
 それで気をつけてたら盗撮されていた、というわけ。

 元彼は、腹を立てていたんだと思う。
 たいして好きじゃない暫定彼女にも、一方的に恋してほしかったんだと思う。おれはたいして好きじゃないけどつきあってやってる、執着されててうざいんだけどね、うざすぎたら別れればいいんだから、っていう感覚を持ってた。たぶん。
 全面的に特別傲岸な人間というわけじゃないから、たぶん「暫定彼女」に対してだけそうなんだと思う。以前そういう女性とつきあって、味をしめたんだと思う。ドヤ顔でそんな話してたの、なんとなく覚えてる。わたしはそのとき「相手がストーカーになったりしたら危ないんじゃないかな」みたいなコメントをした。
 それもよくなかったと、今では思う。
 だって彼はそういう相手が必要なタイプの人間なんだよ。要するにどこか自信がなくて、女で穴埋めしたいパーソン。そういう人に「ちょっとそういうのわかんないです」っていう態度をとるのは、危ないじゃん。
 実際たぶんわたしのそういうところが「許せない」と思って、自分が「上」になる手段として盗撮に走ったんだと、わたしはそう思ってる。

 それでわたしは反省してるのよ。
 お互いさまならOKだと思っていたけど、もしかするとわたしも、彼氏いない自分に自信が持てないパーソンで、それでダメな素養のある相手を引き当てる確立が上がって、結果こういう目に遭ったんじゃないかって。
 だからね、うん、もうしばらく、そういう相手を作るのは、やめておくつもり。

感情の通貨

 疲れたあ。
 娘がそう言うので、おう、がんばったな、とわたしはこたえた。そして彼女にすいかを切ってやった。
 娘は中学三年生、受験前である。夏期講習がだいぶきつかったようだ。ダイニングの椅子に座る姿勢もなんとなくぐじゃっとしている。
 なお、わたしもそんなに元気ではない。こちらは単純に連日の暑さでバテたのである。わたしも娘とそっくりの姿勢でぐじゃりと椅子に座る。娘はそれを見て麦茶をグラスに注いで持ってきてくれた。この家の麦茶は三年前から娘が作っている。

 娘が十二歳のとき、なぜお手伝いをしなくてはいけないの、と訊かれた。
 娘が幼児のあいだは遊び半分で娘がやりたいときにやりたい家事を一緒にやっていた。十二歳になったとき、「これからは遊びではなく、自分がやると決めたことを、気が乗らないときにもやりましょう」と宣言した。
 娘は合意し、しばらくやっていたのだが、なにしろ理屈っぽい子なので「そういえばなぜ、自分は麦茶をつくり、タオルをたたみ、水曜日にお皿を洗うのか」と思ったようなのである(これが娘の担当する家事である)。子どもは働かない、子どもは遊ぶのと学ぶのが仕事で、それも子どもの性質に合わせて相談しながらやるものだと、そのように教えていたためだろう。言うまでもなく家事は労働、仕事である(そのように娘にも言っている)。
 夫に言わせれば、子どもにお手伝いをさせるのは、「責任感をはぐくむ」とか「実際的な家事能力を身につける」とか、そういう目的があるのだそうだけれど、わたしの目的は他にあった。

 人に親切にするのは難しいことだ。誰かに何かをしてあげたいと思っても、時と場合と相手によって相手が必要としていることが異なる。しかしたいていの場合、冷蔵庫に飲み物があればうれしいのだし、清潔なタオルがあって困ることはない。なければ自分でやればいい。子どもにだってできる、簡単なことだ。でもやってもらったらうれしい。
 わたしはそういうちょっとしたお世話を、もっとも簡便な感情の通貨だと思っている。特別な相手にも特別でない相手にも使えて、してあげてもしてもらっても負担にならないもの。わたしはそれを差し出す。その場で一緒にいることがOKな相手に、今後かかわりあいになりたい相手に、今のかかわりあいを続けたい相手に、差し出す。相手も似たようなものをくれるーー上下関係がなければ。でもわたしの人間関係のうち上下があるのは職場だけだし、その職場でははるか昔にお茶くみ廃止令が出ている。
 言葉は有力であり、複雑な事象を伝えることができる。愛に関してももちろん、言葉は有力である。しかし、ちょっとしたケアのない、あるいは片方が片方のケアを吸いとって与えることのない関係における言葉のやりとりは、やっぱ、わたしの、愛じゃないよな、とも思う。わたしは非常にフィジカルな人間なのである。愛は皮膚に乗り、愛は生活に宿り、そして愛は、具体的なものだ。
 娘にはこの五十分の一くらいしか説明していないが、なんとなく納得したようだった。娘が女の子どもなので、わたしはこのように付け加えた。ちなみに昔は、いや今でも、お世話をするのが女だという、ヤベー嘘があって、愛があればお世話をするみたいなやつが、キラキラな少女漫画とか映画とか、いろんなものに入ってて、そういうの大好きな子もいるんだけど、どう考えても罠なので、あなたにははまらないでほしい。いいですね、一方的にお世話を要求する人間にあなたの能力を向けないこと。ママそういうのほんと無理なのよ。

 ありがと、とわたしは言う。それから娘が持ってきてくれた麦茶を飲む。
 なんでだろうね、と娘がつぶやく。わたし果物むけるのに、ママお茶いれられるのに、自分のだけ自分でやるほうが効率もいいのにね。
 わたしは娘の顔を見る。それから言う。そりゃあんた、自分でできること全部自分でやってたら、自分のことなんでもできる人間は全員さみしくなっちゃうじゃないのよ。いや全員じゃないか、さみしくならない人もいるな、えっと、ママはさみしくなります。うん、手がなくてグラスが運べないからそれを仕事にしている人に持ってきてもらう、これは権利で福祉で制度。手があって難なくグラスを持てるけど親しい人に持ってきてもらう、これは甘え。スイーツ。ママはスイーツが好き。そうだおばあちゃんがくれたゼリーまだ残ってたっけ、あれも食べちゃおう。

犬の眠り

 午前二時、そっとベッドを抜け出す。眠ろうと努力して一時間あまり、長年の経験から「これはベッドにいても解決しないやつ」と判断してのことである。
 ベッドの中でずっと覚醒しているときには、あれこれ工夫すれば存外眠れる。そういうときには頭の中に思考が滞留していて、それが入眠を邪魔している。たとえば仕事が忙しくて長時間グイングインに回した頭の中が止まってくれない、というような状態だ。それなら頭の中を止める工夫をすればよいのである。そのために有効ないくつかの方法を、わたしは持っている。
 そうしたやり方が通用しないのが、一度は半ば眠りに入ったのに半端に目が覚めてしまうパターンだ。わたしはこれを「半再起動」と呼んでいる。この状態はうっすらと不快で、足首あたりにそこはかとない恐怖が溜まる感覚があり、複雑な思考はできず、しかし何も考えないこともできない。こうなるとたいてい夜明けまでだめである。
 かくしてわたしは深夜のダイニングで薄ぼんやりとお茶を淹れる。こんなときのためにこの家には常に複数種類のノンカフェイン飲料が準備されている。デカフェのコーヒー、好みのブレンドハーブティールイボスティー、麦茶。睡眠障害を持つ人間が眠れないとき、酒は最初に除くべき明確な悪手だ。

 わたしの睡眠障害は筋金入りである。
 安全でない場所で育つとたいてい睡眠に支障が出る。危害を加えられそうになったら逃げるか戦うかしなければならないので、常に加害の可能性のある環境で育つと非常に睡眠が浅くなるのだそうだ。犬の眠り、とわたしは思う。昔お世話になった精神科医がそう言っていたのだ。
 これは比喩ですが、犬って昼もごろごろ寝てるけど、ちょっとした物音でばっと起きるでしょう。あなたの眠りはそういう感じです。頭で「もう安全だ」と理解しただけでは治らない。あなたの中にはそのような睡眠のあり方が装置として埋め込まれている。でもこの社会は熟睡できる人間を前提に作られています。だから困る。困るので障害と呼びます。そんなわけであなたは睡眠障害でもあるんです。
 なるほど、とわたしは思った。犬の眠り。

 わたしはその後長い時間をかけてさまざまの工夫をこらし、睡眠薬なしに眠ることができるようになった。それでもいまだにときどき眠れなくなる。
 ダイニングの扉が開く。うお、と夫が言い、目にてのひらをかざす。わたしは彼のためにダイニングの電灯を間接照明に切り替える。ありがとう、と夫は言う。そして冷蔵庫からノンアルコールのワインを取り出し、はちみつを垂らして電子レンジであたため、シナモンを振る。凝っている、とわたしは思う。これそのままだとあんまりうまくなかったからさ、と夫は言う。
 夫はちょっと調子を崩すと中途覚醒するタイプである。きみの睡眠障害には理由があるけど、と彼は言う。おれはぜんぜんそれらしい理由がないんだよ。大人になるまで寝るのに苦労したことないし。
 わたしは彼の飲み物をひとくちもらう。それから言う。理由なんかなくたって、睡眠は難しいものなんだよ、きっと。
 まじで難しい、と夫は言う。三大欲求のうちいちばんままならない。ほんとうに御しがたい。食べるのは楽しいし、料理は長年の趣味だ。まあ腹は弱いけど、おれはおれの腸とはそれなりに折り合いをつけている。セックスもねえ、常に理想的というわけじゃないけど、ええもうご存知のとおりです、でもさあ、理想的じゃなくてもいいもんだし、毎日するもんじゃないし。自分でするぶんにはとてもシンプルだし。それに比べて眠りの難しさ!
 そうねえ、とわたしは言う。わたしも睡眠がもっとも御しがたいと思うよ。わたしは育ちのために身体にも精神にも複数の問題があったけど、最後まで残ったのは睡眠障害だもの。
 でも、それもたまたまじゃないかな。わたしと似た環境で育った人に別の問題が残ることだってあるだろうし、あなたと同じように大人になってから睡眠がうまくいかなくなる人ばかりでももちろんないのだし。
 睡眠には睡眠障害があるけど、食には摂食障害があるし、これは依存症的側面も持つらしいし、性行為にはずばり性依存がありますよ。わたしたちが経験していないだけで、そしてわざわざ言う人が少ないだけで、けっこういるんだと思うよ。

 わたしたちは午前四時までぽつぽつ話をする。わたしたちの夜中の覚醒はしばしば連動する。非科学的な想念であることを承知で、同じ家に住んで同じものを食べてしょっちゅうくっついて一緒に寝ているから悪い病気をうつしたのだという確信が、時折脳裏を泳いでゆく。

コスパのいい結婚

 そういえば結婚してないんだよね。
 尋ねられたのでそうだよとこたえる。こうした質問は三十代ではよく受けたが、四十代になるとかえって新鮮である。わたしに質問した知人は、他人の結婚式の二次会という場だから「こういう質問もOK」という気分になっているのかもしれなかった。
 でもずっと同じ彼氏と住んでるんだよね。そのように重ねて質問される。そうだよとわたしはこたえる。わたしは彼氏が好きだけど、結婚という制度を嫌いなの。それで、何年か前に彼氏のご家族にもそういう説明をしたんだよ。彼氏が親戚の集まりで激詰めされてさあ。おまえそんないいかげんなことでいいのか、相手の女性に申し訳ないと思わないのかって。さすがに彼氏がかわいそうでしょ。わたしのわがままにつきあってくれてるのに。

 え、それで理解してもらえたんですか? あ、すみません、自分は新婦の従弟です。
 わたしはその男性を見る。彼はにっこりと笑う。話に割って入ることに手慣れている、と思う。年のころなら三十代、明瞭な発声の、いかにも手をかけた健康的な外見の、そしてわたしにある種の警戒心を持たせるタイプだった。
 わたしは未だそのタイプに名前をつけることができない。「リーダーシップがある」といった理由で職場で重宝される、しばしば高学歴で立派な肩書きの、快活で如才なく社交をこなす人のごく一部に、そういうタイプがいるのだ。わたしになんともいえない嫌悪感を催させるタイプが。

 わたしはにっこりと笑う。まるで相手を歓迎しているかのように笑う。
 ええ、理解してもらいましたよ。そうしたことに関心がおありなの? つまり、結婚しないカップル関係に。

 ええ、と彼はこたえる。わたしの「ええ」をやや男性的に、より深い声で感じよく仕立て直した口調で。
 いいなあ。僕も理解してもらいたいんですけど、なかなか難しいんですよ。古い常識って厄介ですね。
 わたしは身振りと表情で彼の話をうながす。

 彼は話す。彼の「彼女」との同居は五年目、彼女は家事のすべてと彼の仕事のアシストを担っている。彼はそれを頼んでいない。「彼女」が自発的にやっている。「彼女」はかつて彼の会社でアシスタントをしていたが、現在は無職である。生活費は彼が負担している。「彼女」からは何度か結婚のオファーがあったが、彼はイエスと言わなかった。ノーとも言わなかった。
 彼女と同居しているあいだ、彼は他の誰ともデートしなかったわけではない。もちろん。成り行きとして、新しく性的関係を結ぶ相手ができる。当然のことながら。
 それが「彼女」に発覚すると、彼はプレゼントを買う。「彼女」が指定したかばんやジュエリーを買う。「彼女」はそれを受け取る。
 そのようにして彼らは暮らしている。

 彼は言う。
 何年も同居していると、事実上夫婦だと見なされるんです。おかしな話ですよね。彼女はそれを狙ってるんですけど、でもそれよりは結婚がいいんだそうです。法律上の権利が全部欲しいんなら別れるしかないけど、結婚という形式があればそれでOKみたいなので、あちらに生活費以外いかないように対策して契約書を作って籍を入れるのが落としどころかなと。
 なるほど、とわたしは言う。なまじ内縁関係を主張されるよりは、ね。彼女よりいい人がいるともかぎらないし。
 そうなんです、と彼は笑う。

 彼が去る。横で話を聞いていた知人がつぶやく。ドン引き。
 ドン引きだね、とわたしはこたえる。
 知人は言いつのる。いや僕だって別にラブフォーエバーとか思いませんよ。人間は打算で恋人を作るし、打算で人と暮らすよ。でもさあ、いくらなんでもあれはさあ。生活費と浮気バレ慰謝料プレゼントを支払えばアシスタントと家政婦ゲット、お得だね!……それしか見えない。人間同士の関係に見えない。その彼女はたぶん「結婚」というドリームをかなえるためなら何でもするんだろうけど、それも怖い。あとあの人、浮気相手に対してすら、好きって感じしなかった。コスパ以外なんもない感じ。登場人物全員大丈夫か。カウンセリングとか行ったほうがいいんじゃないか。

 そうねえ、とわたしはこたえる。でも少なくともあの人は、たぶん困っていないのだからねえ。愛してないことが問題だなんて、まさか言わないでしょう。わたしなんて同類とまで思われたみたいだし。
 わたしはあの人物の同類ではない。もちろん。わたしは恋人の労働を搾取していない。
 しかし、とわたしは思う。わたしがあの手の人間に敏感なのは、わたしの中に彼らと似た何かがあり、それを強く嫌悪しているからかもしれない。

花火の見える家

 他人が買ったマンションの冷房の効いたリビングで花火を観ないか。
 わたしがそのように誘うと恋人はそりゃあいいねえと笑った。
 わたしたちは賃貸派である。一緒に住みはじめて二度更新して、今年住み替えを検討してみたら、いつの間にやら周辺の家賃がえらく値上がりしていて、ぜんぜん手が出ない。それでそのまま更新した。もう買っちゃおうかと思わないこともなかったが、ローンが厳しい。買えばいいのにと言われるたび、「賃貸派なので」と、よく考えなくても何の説明にもなっていないせりふでその場を流す。
 ね、とわたしは言う。人さまがローンを組んだマンションで観る花火はきっといいものだよ。

 花火が見えるマンションを買ったのはわたしの仲の良い同僚である。せっかく買ったのにしばらく花火大会がなくて損をしたとこぼしていた。それで今年はわたしとわたしの家族、それに職場で最近仲良くなった田中さんも呼んでわいわいやりたいと、そのように言うのである。
 同僚には夫と十一歳の娘があって、三人で何度かわたしたちの住処に遊びに来ている。家族ぐるみのおつきあいというやつである。
 少女がわたしを駅まで迎えに来てくれる。ふたりで連れだって道を歩く。まっちゃんは後から来るんでしょ、と少女は言う。まっちゃんはわたしの恋人のあだ名である。仕事が終わったら急いで来るんだけど、花火に間に合うかな。わたしがそのように答えると、パパはぜったい間に合わないって、と少女は言う。ざんねん、とわたしは言う。
 ま、しばらくは女子会ってことで。少女はそう言う。わたしは笑う。この子はきっと、母親が言ったせりふをそのまま口にしているのだろう。

 花火が始まる前に飲んだり食べたりする。遅れる二名の分を取り分けておく。でもシャンパンはこっそりぜんぶ飲んじゃお、と誰かが言って、みんなが笑う。
 ゆいさん、と少女がわたしを呼ぶ。はいとわたしはこたえる。ゆいさんはママとふたつ違いなんだよね。まっちゃんとはいくつ違うの?
 十七歳ちがいだよ、とわたしはこたえる。そうなんだー、と少女が言う。うん、とわたしは言う。まっちゃんのママはうんと若いときにまっちゃんを産んだから、わたしから見たらお姉さんって感じ。
 ふぁ、と田中さんが息をもらす。田中さんはあまり嘘をつけないタイプの人である。田中さんがびっくりするだろうからわたしの家族について先に話しておこうか、とわたしは事前に同僚に相談した。すると同僚は「見ればわかるのでは?」と言った。まあそうだけどさあ。
 花火、はじまるよ、と少女が言う。みんなであわててベランダに出る。
 花火はとてもきれいで、とても短い間に終わる。
 わたしの恋人がやってくる。まっちゃん、と少女が言う。間に合わなかったね、おしかったあ。
 わたしは田中さんを見る。田中さんは口があきっぱなしになっている。正直な人である。「まっちゃん」は派手な服着た若い女である。

 このマンションを買った同僚はえらいことおせっかいな人間で、わたしの「賃貸派なので」に流されず、女二人でローンを組む方法を調べてあれこれ提案した。わたしは苦笑いしてこたえた。団信とかそういうのがいやなんだよ、連帯保証人を赤の他人の同性にさせてくださいお願いしますっていう努力をするのがさ。いいじゃないか、賃貸で。わたしひとりで契約して彼女から家賃もらえばいいんだから。

 同僚の夫が帰ってくる。どうもどうもと彼は言い、わたしたちは花火のお礼を述べる。同僚は最初にこの夫をわたしの家に連れてくる前に入念な説明をしたらしい。あとで「僕はそういうのに疎いので、失礼のないようにと」と彼は言っていた。「そういうの」ってあれか、男と女で年の差のほどよい「普通のカップル」じゃないやつのことか。ふーん。

 同僚はわたしとわたしの恋人が家族であることをオフィシャルにしたいのである。そのために入念に自分の家族を味方につけ(味方とは)、職場で一緒の田中さんも引っ張り込もうとしている。
 わたしはそういうことに積極的になれない。たいていの人は自分の「普通」の中で暮らしたいものだからだ。そこに負荷をかけて苦労して認めて「いただく」必要もない。
 でも拒む気はない。隠す気がないからだ。隠さなかったことをあれこれ言う人間がいたら(いる)、わりとしっかり戦う。でも田中さんが「そういうの」に怯えたり浮き足だったりしたら、どうしようかなあ。ちょっと面倒だ。

 わたしたちは花火の話をする。田中さんは「まっちゃん」のファッションについてあれこれ尋ねている。この人は存外、服装にいちばん驚いているのかもしれなかった。