傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

そして、どこへも行かない

 疫病が流行しているので不要不急の外出が禁じられた。わたしは病人である。けれども流行している疫病ではない。もっとよくある病気だ。国民の死因の三割を占めているほどである。罹ればすぐに死ぬのではない。わたしの場合もすぐに死ぬのではない。一度長期の治療を受けており、次にこういう症状が出たらぜったいにもう一度入院してもらいます、と医者から言われて、自宅での生活に戻った。

 おそらく遠からず死ぬような状態ではあって、そのわりに年齢は若いといえる範囲だけれど、わたしはそれほど強く嘆き悲しみはしなかった。驚いたが、どちらかといえば死ぬことより治療の苦しいことのほうが怖かった。

 長期の治療から戻って半年ばかり、家族の協力のもと、自宅で生活している。仕事は完全には辞めていない。遠からず死ぬのに辞めたくないほど仕事好きだったのではない。することがなくなるのもどうかと思って事情を説明して正社員を辞した上でアルバイトをしたいと上司に相談したら、たいへん親切に業務調整をした上で雇用形態を変えてくれたのである。いつでも戻れるように、とも言ってくれた。

 家族や友人たちや職場に惜しんでもらえたら自分も死にたくなくなるのではないかと思っていた。でもあまりそういう気分にはならなかった。もしかするとわたしはいじけていたのかもしれなかった。どうして自分だけが平均寿命よりずっと前に死ななくてはいけないのかと。そして当分死ななくていいように見える彼らを少し嫌いになり、彼らのことばを心に入れないようにしていたのかもしれなかった。

 わたしの死はどうにもぼんやりして切迫していないのだった。治療が苦しいほうがよほど生々しく、いやなのはただそのことで、死というものはいっこうにわたしの前に姿を見せないのだった。なぜだろう。遠からず死ぬのに。

 そう思っていたら疫病が流行した。世界は感染に怯え、人がたくさん死んだ。都市が封鎖され、人々は出歩くこともできず、テレビをつければいつも、大きな地震の直後に見たような、画面の外側をふちどる枠線があって、そこに常時疫病の情報が示されていた。地震のときにはじきに消えたものがずっと出ていることが否応なしに災害の大きさを感じさせた。

 そのくせ外はただの美しい春、美しい初夏なのだった。川沿いの道には菜の花が咲き、ガクアジサイが咲いて、そこをのんびりと歩く人々さえいるのだった。わたしもよく歩いた。奇妙な災害だ、とわたしは思った。凄惨な部分が目に入らない、透明な災禍。

 わたしの生活は変わらなかった。ろくに出歩けず、病に怯え、死に直面する、そういう状態を、ひとあし先に済ませていたからである。予行演習、とわたしは言った。予行演習しておいたんだよ。家の中だってそういう生活のために整えてある。リモート見舞いまで受けているし、最先端だよ。家族や友人はそれを聞いてマスクやモニタの向こうで笑った。何にもさえぎられない笑顔をわたしはこの先見ることがないのだろうと思った。

 三日前から疫病のようにも持病のようにもとれる症状が出ている。どうやら小康状態に戻ることはなさそうだ。そしてわたしは病院に行くつもりはない。

 わたしの居住する自治体では疫病で死んだ人間の属性と場所を公表する。わたしが疫病で死んだら確実にわたしだと特定される。そういう土地柄なのだ。そして疫病の感染者を出した家の者を苛み、排斥する。「感染源」が悪であるかのように。そうすれば自分たちが疫病から守られるのだとでもいうように。

 だからといってわたしは家族のために疫病でないふりをしているのでもなかった。そもそも家で死んだら死因の特定をされること必須である。疫病で死んだらどうしたってばれるのだ。ーー「ばれる」。罹患は罪ではないのに後ろめたく思わせることもまた、この災禍の奇怪なところである。

 わたしは誰かのために死因を隠したくて病院に行かないのではない。わたしは死にたいのでもない。もちろん生きていたいと思う。けれどもわたしは遠からず死ぬ。わたしは長い「予行演習」でそのことをきっと理解してしまったのだ。そうしてわたしは自分の死因を決めたくないのだ。自分が疫病であったら死ぬ間際まであれこれ言われて残された者の迫害を心配しなければならない。そんなのは面倒でかなわない。わたしはそんなのはなしにして、なんだかよくわからないうちにぽろりといなくなりたい。わたしはとても、疲れてしまった。

わたしの必要としていた家族

  疫病が流行しているので不要不急の外出が禁じられた。高校生の娘の通う高校も自宅学習になり、受験はどうするのかと心配していた。すると娘はけろりとして、わたしもともと自習タイプだから、と言う。なんでも校外学習でどんな学習のしかたが自分に合っているかを考えるワークショップだかなんだかに出たことがあるのだそうである。

 暗示のききやすい年頃だということを差し引いてもたしかに娘はひとりで本を読んだり教育アプリで勉強したりしている。経費のかからぬ子である。小さいころは何を習わせてもどんなタイプの塾に入れても続かなかった。何もしたいことがなく勉強も嫌いなのかと妻は言い、ずいぶんと案じていた。しかしそういうわけではなく、要するに大勢の仲間と一緒に何かを習うのがあまり好きではないようなのだった。

 そのような娘は学校が長期間なくなってもけろりとしている。平気かと訊くとまあ平気だと言う。それから少し考え深げにして、でもちょっと飽きた、と言う。ねえわたし多摩の家に行きたいな。わたしひとりでだめなら、お母さんと二人でさ。この家に四人でいても煮詰まるだけでしょ。寝に帰る生活ならともかく、四六時中一緒にいるとさ、わたしの受験勉強に差し障ると思うんだよね。

 娘の言う多摩の家というのは妻の両親が住んでいた郊外の家で、現在は空き家である。新興住宅地からも遠い山がちの場所にあり、自然が豊かだ。徒歩圏内にかろうじてスーパーマーケットがあるが、あとはなにもない。

 しかし今は都心にいようが子どもの学校の近くにいようが「なにもない」のと同じことである。不要不急の外出ができないのだから。わたしは隔日出社だが、妻はフルリモートである。フルリモートならなおさら場所に意味はないのかもしれなかった。

 不要不急の外出をしてはいけないが、都内の持ち家に移動することは不可能ではない。娘は「だってあの家はお母さんのものなんだから『自宅』じゃん」と強弁してほんとうに行ってしまった。ひとりで置いておくわけにはもちろんいかないので妻も行った。

 中学生の息子とわたしが残された。わたしは四十代の男としてはまずまず家のことができる人間である。息子も自分の身のまわりのことくらいはする。食事は簡単なものなら自分たちでまかなえるし、近隣に持ち帰りもデリバリーもある。妻がときどき戻ってきて作り置きもしてくれる。

 わたしは毎朝七時に起床する。日課のジョギングをする。息子に声をかける。自宅で仕事をする日はかつて寝室だった部屋を使う。昼休みにリビングに出て行く。息子のぶんと二人前少々(中学生の男の子というのは実によく食べる)を簡単に作るなりデリバリーを頼むなりする。食べる。息子と一緒のときもあればそうでないときもある。仕事に戻る。晩も同じように食事をする。眠る。酒はもともとつきあいでしか飲まない。

 わたしは娘をかわいいと思っていた。今でも思っている。けれども娘ははじめからどこか遠かった。口をききはじめて数年もすると、早くもわたしとはずいぶんとタイプの違う人間であるように思われた。

 わたしは妻とはまだ若いころからある程度ドライな関係で、それを良しとしていた。ふたりとも情熱的なタイプではない。結婚する前からそうだった。そういうところが気が合うと思っていた。

 息子はまだ子どもだから面倒を見てやらなければならないし、勉強をしているかちゃんと監視しなければならない。それは親の義務である。妻も帰るたびにそうしていて、今のところ問題はないようだと言っていた。

 わたしは家庭を持つことを当たり前だと思っていた。家庭を持ってよかったと思っていたし、その維持のために労力を払い、自分自身を変えてもきたつもりだった。しかしこのように家庭が物理的にふたつに分割されてみると、さほどの痛痒もないのだった。そしてわたしはどうやら息子に対しても強い情緒的な結びつきのようなものを感じていないようだった。

 正直なところわたしはほっとしていないのではなかった。わたしは自分が家庭を持っていることを自明としていた。「そういうもの」として会社員をやり、夫をやり、父をやっていた。とくに不満はなかった。しかし満足でもなかった。

 いま、出社は半ば免除され、妻と娘は別の家に住んでいる。つまりわたしは今までのまともな男としての体裁は維持したまま、半分はその外側にいる。わたしはほんとうは、死ぬまでこんなふうならいいと、どこかで思っている。わたしは大人になってはじめて、生活に満足しているのかもしれない。

やわらかな指を待つ

 疫病が流行しているのでよぶんな外出を控えるようにという通達が出された。化粧品を買う行為はどうやらよぶんとよぶんでないものの中間と見なされているらしく、百貨店では買えないがドラッグストアでは買える。誰がその要不要の境界線を決めているのかは知らない。

 わたしは化粧について特段の意見を持たない。というより、持ちたくないのだと思う。わたしは少女のころから女性たちの手で化粧品を選んでもらうのが好きだった。色つきリップとつや消しのおしろいにはじまり、そのときどきの財布の中身にふさわしい商品を女たちに選んでもらって生きてきた。

 わたしは基本的に能動を好む。人生のごく最初のころからさまざまなことを自分で決めたいと思ったし、実際にそうしてきた。進路、職業、住居、友人、伴侶や家族、趣味ーー思いつくかぎりほとんどすべての人生の要素を、自分で選んだ。そういうのが好きなのである。

 選択肢がたまたま与えられることはあっても、それを選ぶか選ばないかは自分で決めた。どうしてかは知らない。生まれつきの性格なのだと思う。選ばれるとか愛されるとか、そういうのを重要視する人が多いことは知っていたけれど、個人的にあんまり興味を持てなかった。わたしが選びわたしが愛することがまずあって、その対象から選択や愛を返してもらえたら、よりよい。能動、選択、攻守交代、提案、開拓、廃棄、決断。そんな人生。

 だから日々の装いも自分で決めてきた。少女のころは制服が嫌いで、早く自分の着る服を毎朝選んで着たいものだと思っていた。自分に似合う服装を考えるのが好きだったし、買ったものを組み合わせるのも好きだった。今はちょっと面倒になって、制服に相当する仕事着を季節ごとに決め、休日に遊びの服を着る。鞄と靴にはそのときどきの収入に応じて予算を多めにかけ、じっくり選ぶ。

 しかし化粧品においてはそうではない。わたしは友人たちとファッションビルに行く。友人たちはくちびるの色を染めるティントだの、わたしの肌の色に合った化粧下地だの、眉用のマスカラだのを薦めてくれる。彼女たちは「今はこういうのを使うの」「塗り方はこうするの」「これが流行のニュアンスなの」と言う。わたしは感心して言われたとおりにする。

 わたしは毎年美容部員さんのいる百貨店のカウンターに行く。そうしてまぶたの色を変えてもらって、そのままセットで買う。なじみの美容師さんのすすめるヘアオイルを髪に揉み込んでもらって、それを買う。旅行先で知り合った女性と一緒に現地のドラッグストアに行ってスキンケアのトラベルセットを選んでもらったこともあった。わたしに化粧品の話をする女たちはみんな物知りで親切なのだった。

 わたしは女たちの指先に向かって無防備に顔を差し出す。わたしは主体性を放棄する。どうしてか、そのときだけは、受動的であることがこころよく感じられる。わたしは安心しきっている。女たちはわたしの顔を決して悪いようにしない。というかわたしは自分の顔の詳細があんまり気にならない。おおむね良いと思う。それだから何を塗られても「いいねえ」と言う。変化があると楽しいと思う。

 今はそういうのはない。あるのは彼女たちのやわらかな指の記憶だけである。わたしが自分で自分に化粧をほどこすのはその甘やかな指の動きの擬似的な再現でしかない。わたしはだから、疫病が流行してから、化粧品を買っていない。これからも買う気はない。幾人ものやさしい女たちにかまってもらいながら買うのではない化粧品に、いったいなんの意味があるのか。

 疫病の流行で人間と人間の接触が強く制限されている。だから誰もわたしの顔にきれいな色を塗ってくれない。今やわたしたちの世界における皮膚接触の機会はきわめて貴重であり、そのような目的でおこなうものではないからだ。女たちは定められた距離を置いて、多くの場合はモニタの向こうから、わたしに接する。その指がわたしに届くことはない。

 化粧品はたいてい量が多すぎるものである。ことに色をつけるものはとても多い。わたしはそれを使い切ったためしがなかった。その前に女たちがわたしの顔を更新してくれたからだ。でもそれはなくなった。

 わたしはきらきらした粉を薬指で掬う。その指でまぶたに触れる。わたしはいつか誰かがつくってくれた顔になる。残像の顔。いつかこの粉が尽きたら、わたしのメイクアップは終わる。

パンとコーヒーとアフリカの夢

 疫病が流行しているのでよぶんな外出を控えるようにという通達が出された。誰がどうみても「よぶん」でない最後の聖域は食料品と日用品の買い出しである。

 僕はカフェを経営している。そしてわりと空気を読むタイプである。空気を読んで早々に業態を切り変えることにした。テイクアウトのみの営業にし、店内での食事のためにつくっていたパンも売ることにした。パン屋です、みたいな顔をしていれば本命のコーヒーやコーヒー豆を売る場を保つことができる。僕はそう考えて小麦粉を大量に仕入れ、パンを焼いて焼いて焼きまくった。

 僕は恐れている。国家と自治体とそれから近隣の、よくわからない相互監視を恐れている。近隣の個人商店同士のあいだにも自粛度合いを監視する動きがある。「良い子にしていない者は排斥するべきだ」という空気が醸成されつつある。「良い子」の基準はない。ないからどんどん用心深くなる。なにしろ、不要不急に見える外出をすると誰かがその写真を撮影し、インターネットに個人情報つきでアップロードするのだ。

 こんなのは現代の隣組じゃないかと僕は思う。国家が税金を出し渋って国民の性質に乗っかってものごとをごまかそうとするからそういうことになる。税金を出ししぶるけちな国政が悪い。あいつらはカネの出しどころを決定的にまちがった。僕は生涯にわたって彼らをぜったいに許さない。

 そんなわけで僕はとても怒っているが、それはそれとして僕はいち生活者であり、零細自営業者である。まずは明日の食い扶持の算段を立て、自分が住む部屋と店の家賃を払わなければならない。だから空気を読んで店をテイクアウト専門にしてパンを焼きまくっているのである。

 いくらなんでも焼きすぎだとアルバイトに言われた大量のパンは、ふたをあけてみればちっとも余らなかった。パンもコーヒーも実によく売れるのだった。僕の店はオフィスと住宅が混在するエリアにあるのだけれど、オフィス客が減ったかわりに、リモートワーク中の地域住民が来るようになったのだ。ふだんは土日に来ていた人が平日に来る。新規の客も多い。生活の中に楽しみが少ないものだから、仕事のあいまにコーヒーを買うくらいはしたいのだろう。僕は近所の印刷所に発注してスタンプカードを作り、コーヒー七杯分買ったら一杯無料のおまけをつけることにした。

 僕の店のコーヒーはすべてアフリカから仕入れている。エチオピアとかケニアとかブルンジとかからである。買い付けのためにアフリカに行く資力は僕にはない。そんな小規模な買い手のためにアフリカの農園の人々が大挙して日本にやってきてコーヒー豆のサンプルを配って商談をする場が設定されている。

 そのイベントのことを、僕は思い出す。コーヒー農園の人々はみなポケットのついたエプロンを着て、そこから何種類ものコーヒー豆を取り出し、香りをかがせてくれるのだ。高価なコーヒー、ふだん使いのコーヒー、流行の煎りに定番の煎り。いつのまにかからだにコーヒーの香りがついて、帰って眠りに就くまでずっといい気分でいられる。

 疫病のためにそうした商業イベントも中止になった。それどころか僕が取引してきた人々は当面日本に来ることができない。彼らの国は日本への渡航に強い制限をかけている。疫病が蔓延していて危険だからである。

 僕は電子メールで連絡し、去年と同じ農園から豆を買う。幸いなことに貨物便はまだ止まっていない。僕は農園主に荷受け報告のメールを書く。コーヒー豆を受け取りました。日本はまだ滅びていません。また発注します。すると返信がある。日本が滅びたらうちの農園で雇ってやるよ。Best regards, 

 僕は届いたコーヒー豆を仕分ける。アルバイトの学生と並んで豆をハンドピックする(コーヒー豆はどんなに洗練された生産元から仕入れても虫食い豆や発育不良の豆がまじっているものである)。注意深く焙煎する。気に入りの機械で挽く。お湯を沸かす。カップをあたためる。ドリップする。黒い魔法の液体。

 貨物便が止まったら僕はどうするのだろうと思う。あるいはコーヒーが「不要不急」と見なされたら。僕が実はパン屋なんかではないことが指摘されたとしたら。けしからぬ人間がやっているけしからぬ店としてインターネットにアップロードされ、店のシャッターに「非国民」などと落書きをされたら。

 そうしたら、と僕は思う。アフリカに密航しよう。農園でコーヒーをつくって暮らそう。

恥と命令とプライドと

 疫病が流行しているのでよぶんな外出を控えるようにという通達が出された。外出は通勤を含む。そのために対面を必須としない業務は大急ぎで在宅勤務に移行した。具体的にはインターネットを経由して仕事をするようになった。わたしの職場はIT系ではない。だからそうしたことが得手な人間が不得手な人間をサポートすることになる。わたしはサポートする側である。そしてその状況に、つくづく飽きている。

 全員が思いきり働いて全員が機能している組織があったら不健康だ、という話を聞いたことがある。どんなにすぐれた組織にも常時さぼっている者はあるし、能力がマッチせず機能しない者もある。そういう従業員を全員見つけ出して片っ端からくびにする組織は、いったいどうやってそれを可能にしていると思う? 想像した? ね、恐ろしいだろうーーそういう理屈だった。

 わたしはそれを聞いてなんとなし納得し、職場で誰が仕事をしていなくても、また自分が(今のところの経験では、一時的に)仕事ができていなくても、さほど腹は立たない。そういうこともある、と思う。完璧な採用はなく、組織も人も変化する。だから誰かが役に立たない状態でもあまり腹は立たない。

 しかし、いま機能していない人の機能しなさといったらもう徹底的である。もともとあまり仕事をしているようすでなかった人が可視化された上、その人たちの一部が過剰なサポートを要求するようになった。リモートワークは疫病の蔓延にともなう政府からの要請によるものである。経営層の意思でもなければリモートワーク化対応業務を担当するはめになった者の意思でもない。全員やりたくないんだけど、しかたないからやっている。でもしょっちゅう他人のサポートを要求する人は、そうは思わないらしいのだ。なんというか、お客さまなのかな? という感じである。

 いちばんすごかったせりふは、在宅勤務が始まってしばらくしてから放り投げられた「うちWi-Fi通ってないんで」というものだった。あれにはびっくりした。業務内容が限定された職種の人ではない。部署は違えど、わたしと同じ中間管理職である。

 単に「できる」というだけの理由で、同じ立場の(そして、なんならわたしより給与の多い)人間をお世話する。それが常態化しつつある。そしてお世話されている側はそれを当然視するのみならず、なんだか、とても、威張っている。まるでこの事態がわたしのせいで、それをがまんしてやっているんだ、とでもいうように。

 わたしはつくづく疲弊した。そしてある日突然気がついた。辞めちゃえばいいじゃん。

 わたしは自分の本来の仕事の経歴書を作り、それにリモートワーク移行関連業務の履歴を加えた。双方を評価する会社があって、詐欺かなと思うくらい早々に新しい職場が決まった。給与は上がり、リモートワーク移行にともなう仕事の量は制限されてぐっと減り、他の社員から手軽に使われることはないと保証された。

 辞意を表明しても上司は驚かなかった。引き留められもしなかった。上司には転職の原因になった問題をとうに相談していたからである。わたしは上司に尋ねた。あの、威張ってわたしにお世話を要求しつづけたあの人やあの人は、結局、いったい何だったのでしょう、たとえ少々のお手当をつけても、本来の業務外でああいう人たちの相手をさせると、だいたいイヤになっちゃうと思うんですけど。ものには限度があると思うんですよ。

 そうですねと上司は言った。彼らをかばう気はありません。とても困っています。でも彼らの態度の説明はつきます。彼らはね、恥じているんです。他の社員の足を引っぱっていることを恥じている。でも恥に向き合うことができない。自覚してちゃんと恥じることができない。だから威張るのです。お世話されなければ仕事ができない状態になって、そうしたら自分が下位になった気がして、それに耐えられないから、お世話する人にことさら横柄に接して、命令をしたがる。横柄な態度で命令するとプライドが回復する。そういう人はいるんです。

 わたしはびっくりした。なんだ、下位って。なんだ、プライドって。意味がわからない。

 上司は画面越しにもわかる疲れきった顔で、言った。そういう人もね、正社員なんです。すぐには切れないんです。できる人間がやめて、できない人間が残る。それを促進する愚かな判断をしている。し続けている。独裁者みたいに人の首をばんばん切れたらどんなにいいかと思います。それではさようなら。今までほんとうにありがとう。

関係は減衰する

 疫病が流行しているのでよぶんな外出を控えるようにという通達が出された。家族のほかは届け出をした相手にしか対面で会うことができない。とんだ国家だが、ここよりほかの場所に行くための許諾はしばらく下りそうにない。

 他人とのかかわりを減ったことを嘆く声がたくさんある。わたしが(オンラインで)口をきく相手もそのようなことを言う。そう、とわたしは言う。わたしは、実は、そのことについては、あんまりつらくない。わたしはひとり旅を愛し、友人は少なく、職場のつきあいにも熱心ではなく、都心といえる場所の賃貸マンションに独居して地域社会に属していない。ずっとそうだった。だから疫病の流行後もわりと平気である。何週間も誰とも口をきかなくても問題を感じないたちなのだ。年末年始の旅行などは人と口をきかずに知らない場所をほっつき歩くためにしているようなものである。

 勤務先では、リモートワーク中の社員の心が暗くならないようにというはからいで、週に二回ばかり「リモート雑談」の時間がもうけられているのだけれど、それだって正直言ってべつにいらない。てきとうに参加して楽しんでいるふりをしているが、そんなのは対面でも同じことである。組織においては「あなたがたを私的な感情の面でも必要としてますよ」という顔をすると仕事がしやすい。だから芝居をしている。それだけである。

 わたしのそれほど多くない友人たちは屈託なくインターネット上のツールを使っておしゃべりを楽しんでいる。わたしもそれに誘ってもらって話している。私的な会話はそれで足りるようにも感じている。

 しかしながら、よくよく考えたらこの状態はどうしたって長引くのである。なんならこの状態を平常とする世界が生まれるかもしれない。そうなるとだいいちに旅ができないことに絶望する。わたしは基本的に悲観的なので、最悪の事態を想定する。公共交通機関の本数はすでに減少しているが、乗るために許可証が必要になったらどうしよう。ありうる。現在の状況をかんがみるに、まったくもってありうる。そしてそうなったら高速道路も閉鎖されるだろう。わたしは自家用車を持たない。レンタカー屋の人から誰何されながら冷や汗をかいて身分証明書ともっともらしい理由を並べて車を借りたりするのだろうか。

 しかし、それでもどうにかなる。わたしはそう思う。散歩は禁じられていないので、最悪でも歩いて行ける場所のすべてに行けば、十年くらい精神の均衡を保てる。道はたくさんある。靴を通信販売で買うことだけが不安である。友人にそう言うと旅行好きの考えることは極端だと言われた。旅行好きというか、放浪癖だと思う。

 かくしてわたしはこのように孤独になりがちな世界でも精神の健康を保つことに自信がある。あるのだが、一点、問題が残されていることに気づいた。人間関係には寿命があるという事実である。

 わたしの数少ない友人たちの中には、古い者もいれば新しい者もいる。私的で利害関係をともなわない親密な関係には寿命がある。季節がある。ある者は三ヶ月で、ある者は三年で、別の者は十年で、「もういいかな」と思う。そういうものである。もしも友人としての寿命がとても長かったとしても、生物として死ぬ。わたしは丈夫なので同世代の友人の誰よりも長生きすると思う。そうなると完全に孤独になる。親は両方ともすでに死んでいるし(わりと早かった)、きょうだいはいない。親戚とかそういうのにも興味がないままで生きてきた。

 完全な孤独について、わたしは考える。それはちょっと無理かもわからない、と思う。そう、わたしは非社交的であるわりに「人間関係は減衰する」という真実を知っていて、それをおそれていた。それでもって要所要所で新しい友人をつくってきた。なんというか、自分が親密になるべき相手が、こう、人混みのなかで(比喩的に)光って見えるのだ。そしてそういう相手を食事に誘うとだいたいついてくる。だから親しい相手を作るのに困ったことがない。要領が良いのである。

 しかし、今は人を食事に誘うことはできない。人混みに出ることさえできない。わたしは数少ない友人にそのことを話す。すると彼女は言う。インターネットでしょ、そこは。

 わたしはインターネットを検索する。オンライン読書会というのを見つける。わたしは目をこらす。もしかするとこれかもわからない、と思う。わたしはわたしの欲する関係を、どうにか見つけなければならない。すべての親密な関係には季節があり、寿命があり、放っておいたらわたしが口をききたい相手は誰もいなくなるのだから。

 

 

家族を分ける

 疫病が流行しているのでよぶんな外出を控えるようにという通達が出された。遠方の親族に会いに行くのも「自粛」の対象である。私的なコミュニケーションの大部分がオンラインに移行し、そして、オンラインでの飲み会といった集まりの物珍しさが減衰すると、その相手を選ぶようにもなった。当然のことながら、疫病の感染リスクを取ってでも面会する相手とそうでない相手は厳しく峻別された。

 同居の家族もそのままではなかった。いまや感染リスク低下のために家庭内別居をする者も珍しくない。自室がある者はそこに籠もり、場合によってはリビングルームに衝立をめぐらせ、水回りを使う時間を分けて、使用前と使用後に消毒するのである。

 わたしの家ではそうしていない。夫と息子と一緒に生活している。わたしたちはそのことをきっちり話し合って決めた。息子はもう十歳だ。両親と手をつなぎ一緒に食事をすれば感染リスクが上がると理解している。あなたには選択肢がある、とわたしは息子に告げた。感染リスクを下げるためにお父さんかお母さんのどちらかとだけ一緒にいて、お父さんとお母さんが接触を避けるという方法がある。

 息子はそれを選ばなかった。だからわたしの家では、夫からわたしに、わたしから夫に、あるいはわたしたち夫婦から息子に、息子からわたしたち夫婦に、感染する可能性がある。わたしたちはそれをのみこんで生活している。

 わたしの親は比較的近くに住んでいる。母はスマートフォンを持っているが、どうしてもアプリで通話できないようで、よく電話をかけてくる。母の話は長い。内容は九割がた兄のことである。疫病の前からだ。母はことのほか兄を愛する。兄はいまや、母の世界の九割を占めている。

 母はわたしのこともたいへんかわいがったが、それは炊事を教えて一緒に台所に立ったり、家のインテリアについて話しあったりするといったかわいがりかただった。母はわたしと並んで髪をととのえ、わたしに自分の化粧水を使わせ、一緒に子ども服を買いに行き、何を試着してもかわいいかわいいと褒めそやした。

 兄に対してはそうではなかった。母は兄と並んで何かをすることがなかった。母は兄の世話をすることを好んだ。兄は幼いころからおそらくは今まで、自宅での食事中に立ち上がったことがない。父もそうだが、父は非常に無口なので、いるかいないかわからない。皿があくだけである。兄はもう少し主張があり、たとえば、これちょっと醤油つけたら、と言う。母はいそいそと醤油を取りに行く。

 わたしは兄のことをよく知らない。兄がわたしにマッサージをしろというような意味の持って回ったせりふを言うので断った。わたしが九歳、兄が十四歳のときである。兄は非常に驚き、それから黙った。わたしが母にそのように告げると母はあらあらと言って兄のマッサージをしに行った。

 兄はわたしを避けるようになった。わたしはもともと兄に親しみを感じていなかった。家で何もしない上、わたしの記憶があるかぎり昔から食事時以外はほとんど自室にいたからだ。少し年の離れた妹を、たぶん兄も面倒に思っていたのだろう。

 大学進学のために関西に出て、就職して東京に戻った。そのときからもう、育った家に住む気にはなれなかった。行けば母は喜んでわたしの好物を作ったりするのだけれど、自宅は母と兄のための場所としてすっかり整えられていた。それに、大人になったわたしは、母と仲良くしたいと思えなかった。わたしが思うに、母はまったく悪気なく、疑問なく、「男の人は偉い」と思っているのである。わたしはそうではなかった。そう思ったことは一度もなかった。

 兄は結婚し、自宅に妻を住まわせた。わたしも結婚した。そのあと十年以上、年に二度くらいの薄い親戚づきあいをした。ただわたしは年々、兄と母の家に行くのが億劫になった。そこは完全に「兄と母の家」であり、兄の妻はいつまでたっても住人のように見えず、父に至っては家の中にはりついた無害な影のように感じられた。

 疫病が流行したのでよぶんな人と会わない世界になった。わたしは母と会う気になれなかった。兄にも会う気になれなかった。母の長い長い電話も、ほんとうはいやなのだった。わたしはそのことに気づいた。彼らはとうにわたしの家族ではなかったのだと思った。わたしは彼らを、静かに切り離すことに決めた。感染リスクのない遠隔コミュニケーションでさえ、彼らととる必要はないように思われた。わたしはわたしの友人たちや気の合う義妹や仕事仲間とのおしゃべりを優先させたいのだった。