二十代前半くらいまではいろんな経験が少ないから、何をやってもテンションが上がった。大学生のころなど、今にして思えば些細なことで脳内麻薬がばんばん出ていた。
旅先の景色はいつも新鮮で、恋愛は比喩でなく「死んでもいい」ほどのもので、友情は永遠の輝きを宿していた。読む本にいちいち驚いたり泣いたり狼狽したり、そりゃあ忙しかった。ものを知らなかったから、世界を説明するための概念ひとつがどれだけ感動的だったことか。
今はそうではない。
旅行は飽きないように頻度を減らしているし、恋愛の高揚は平熱の愛情に着地して、友人関係なども平和なものである。本を読んでいても、しばしば「ああ、こういう系統ね」と思う。遭遇するたいていのできごとが予想どおりの結末に向かう。そんなだから、近ごろのわたしの心拍数の標準偏差はとっても小さい。
「こうして人は大人になるのだ」といえば、まあそうなんですけど、「それをこそ幸せというのだ」というのも、わかるんですけど、三十になろうが四十になろうが、何なら七十になろうが、たまには「うひょー」系の気持ちよさ、ほしいじゃないですか。わたしはほしい。
「うひょー」となって気持ちよくなっちゃうあの感じは、たぶんドーパミンとかそういうのが出ている感覚に依拠するんだろうけど、年をとるとそれを味わう機会は減る。経験が増えて飽きを覚えるし、体力も減るからだ。それはもうしょうがない。しょうがないんだけど、少しはほしい。
年をとって落ち着いたあとの年代に向いた幸福感はあって、たとえば子どもが育っているとか、熟練の技能があるとか、満足のいく業績がたまったとか、長い時間をかけてほしいものを手に入れたとか、そうしたことは主に年長者の楽しみだと、そうは思う。思うが、それらはドーパミン系の楽しみではない。じんわりといいものである。テンションは上がらないでしょう。上がる人もいるのかな。
上がらないんですよ、わたしは。わたしの手持ちのカードでは。少なくともしょっちゅうは。
多幸感を求める気持ちが「少し」じゃないとき、人間は病的な行動をするんだろうなと思う。
いちばん簡単に多幸感が味わえるのは薬物である。日本ではアルコールがいちばん使いやすい。ひどく容易に気持ちよくなるので気味が悪くなってあんまり飲まなくなった。だって、結局のところ、薬物の楽しみって、孤独なものじゃないですか。わたしは孤独を好きだけど、薬物の孤独は好きじゃない。あと健康によくない。健康でないときの身体の不快感が薬物の快感を上回ってしまう。身体頑健でしょっちゅう薬理作用にひたっていても孤独にならない(あるいは孤独でもかまわない)なら死ぬまで薬物でドーパミン出しててもいいんだろうけども。
薬物ではないけれど薬物に近いはたらきをするものもたくさんある。人間の脳はいろんなことで麻薬を出してくれるようだ。何なら食べ物で多幸感を得る人もいる。しかしわたしはこれにも適性がない。贅沢な食事は好きで、ときどきファインダイニングをやるのだが、わたしの場合、あれは冷静さをともなわなければできない掛け算である。「未知の味覚かけるシチュエーションでの高揚かけるアルコール、文化的な読み解きの楽しみを添えて」である。我を忘れるようなものではない。
そんなわけで、最近は運動をしている。走りこむと脳内麻薬が出るからだ。中高生のころに陸上をやっていたので、十五歳から進歩がないともいえる。
地味な人生である。ドキドキしたいからといって志願兵になって戦場に出て行く度胸も能力もない。
結局のところ、ラリらずに生きられるように自分を訓練するしかないのかもわからない。だってわたしは、酒や美食で身をほろぼすことにも、いつまでも劇的な恋愛を求めることにも、適性がなかったからだ。
身も世もない快楽をもたらすものって、あと何があるかな。ギャンブルでもやってみようかな。ハイリスクな金融商品を買うとか? でもわたしのささやかな余剰資金で買ったってドキドキしないよな。お酒とかのパターンと同じじゃん。借金して買うくらいじゃないとヒリヒリするわけないんだよ。でも借金するほどの、健康をそこなうほどの、命をかけるほどの魅力を感じる対象が見つからないんだ。破滅的快楽に手をのばす才能がないんだ。
みんなはどうやって折り合いをつけているのかな、と思う。それとも、折り合いなんて必要ないのだろうか。みんなは最初から、ラリらずに生きていけるのだろうか。いい年をして「どうにかしてラリる方法はないかなあ」などと思っているわたしとは違う構造の精神を持っているのだろうか。