傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

わたしの愚かなきょうだい

 姉が来た。
 姉の住処はさほど遠くないから、わりとしょっちゅう実家に戻ってくる。姉が来ると高齢の祖母の介助をいくらか任せられるから、わたしも両親もやや助かる。祖母は施設に入ることが決まっているから、家にいる間にたくさん顔を見せてほしいし。
 玄関に行くと姉が足元にかばんを置いたまま彦左衛門と対峙していた。彦左衛門は犬である。なぜ現代の人間より文字数が多い立派な名前なのかはわからないが、この犬は保護犬であって、名前は前の飼い主がつけたのをそのまま使っていて、その由来は不明である。
 彦左衛門は姉が就職して一人暮らしをはじめたあとにうちに来た。そしていまだに、姉とわたしの区別が、どうやらついていない。わたしたちはたしかに外見の似た姉妹だが、見間違えるほどだろうか。犬は視力が弱いから、匂いがそっくりなのだろうか。なんかちょっとやだな、姉ちゃんと同じ匂いなの。
 ともあれ彦左衛門はわたしを振りかえり、しばらく考えこんだのち、すごすごと定位置に戻った。ヒコはさあ、と姉が言う。あんたが家にいるはずなのにわたしがドアをあけたもんだからびっくりしてたんだよ。まだわかってないんだね、二人いるって。おばかさんだねえ。

 姉が来る日は父も母もいそいそと早く帰ってくる。それでみんなで食事をするのである。仲が良いからではない。いや、仲は良いのだが、それ以上に皆、姉が心配なのだ。妹であるわたしも、心配される側でなく、する側である。
 俐子、と父が口火を切る。俐子は姉の名である。俐子はもう生活費にこと欠くような追っかけは卒業したのだろうね。
 姉の目が泳ぐ。うん、と言う。姉は嘘が下手である。後ろめたい時には「後ろめたいです」という顔をする。父は静かにプレッシャーをかける。姉は小さい声で「いや前の推しはもうね、ぜんぜん、降りたんだけど、中学生の時に好きだったほらあの、あのバンドがさ、期間限定復活公演でね」などと、もごもご言う。それから慌てて、ごはんはちゃんと食べてる、と言う。姉は推し活で散財しすぎて、言うまでもなく年下の、そして収入も自分より低い妹であるところのわたしに家庭内借金をしており、いま現在も返済の只中なのである。
 それに俐子あなた貯蓄はどうしたの。
 母が追撃する。あなたみたいな子こそ天引き式の貯蓄をやらなくちゃいけないと言ったでしょう。ちゃんと手続きした? それなら返済が遅れてもいいって、玲子は言ってくれたでしょう。
 玲子はわたしの名である。
 姉はぱっと顔を輝かせ、うん、やった、と言った。家族全員が笑顔になった。どうやら職場で手続きを手伝ってくれる機会が設けられたらしい。助かる。家族として礼を言いたい。
 つみたてNISA? 確定拠出年金
 母が笑顔で尋ねると、姉は再び目を泳がせ、えっと、とつぶやいた。あの、なんか、会社がやってくれるやつ。
 祖母が小さくため息をついた。祖母は自分が介護施設に入る資金を若いころから溜めていた。

 このように姉はこの家の誰にも似ていない。愚かである。彦左衛門のように愚かである。しかし、彦左衛門は犬であり、うちで飼われていて、生涯を家庭犬として過ごすのだから、愚かでも良い。問題は姉だ。
 姉は子どものころから異様に勉強ができた。塾にも行かせていないのに、と両親は言っていた。それに対する姉の回答は「教科書を読んだ」であったという。
 神童タイプは往々にして思春期に失速するが、姉はそのまま軽々とたいそうな大学を出、修士課程を経て総研に就職した。仕事はできるようである。
 しかし、他のことに関しては、姉はきれいさっぱりだめなのだ。放っておくとろくなものを食べないでわけのわからないことに熱中して散財するし、そうかと思うと一日中寝ているし、ろくでもない男とつきあってすぐ結婚して秒で離婚したし(「なんであんな男と」と問い詰めたら「その時はいい人だと思った」とこたえた)、部屋は常にカオスでたまにわたしが片づけに行っている。
 わたしは思うのだが、人間の賢さはかんたんに定義できない。知能指数でいえば姉はぶっちぎりで賢いのだろうが、現実生活においては彦左衛門クラスである。なんだよ、「なんか会社がやってくれるやつ」って。

 姉は彦左衛門を膝に乗せてしんねりと言う。わたし、ダメだよねえ。大きくなったら大丈夫になると思ったのにな。
 もう大きいのにな。
 ほんとだよ、とわたしは言う。でも怒っていない。わたしが面倒を見てやろうと思っている。わたしは姉が好きである。父も母も祖母も姉が好きである。姉は悪い人間ではないのだ。彦左衛門が悪い犬でないように。

典型に回収される

 あの子ね、もうわたしたちの話、通じないよ
 グループLINEから抜けた同級生について、一人がこのように投稿した。それは時たま思い出したように動くだけの、やけに多くの同級生が加わっているグループで、だから誰かが「退室した○○って、誰のこと?」と投稿するまで、わたしはメンバーが減ったことに気づいていなかった。LINE上の名前は本名とはかけ離れたものに変更されていて、だからわたしには誰だかわからなかった。「××のことだよ」と本名を教えてくれる投稿があり、そして、「もう話は通じない」との投稿が続いた。
 その後、わたしは「もう通じない」と投稿した元同級生に個別のメッセージを投げた。単純に気になった。
 わたしたちは通話することにした。そして彼女は語った。あの子、と彼女は言った。子、というような年齢では、わたしたちはとうにないのだけれど、彼女にとってはいつまでも「子」であるらしかった。

 変な男とばかりつきあってたでしょ、あの子。ほらあなたも「いやあ、もう、その話はいいよ」って言ってたじゃない。十年近く前かなあ。あのあたりから、あの子に会うのをやめる人が増えたの。
 でも状況は変わらなかった。うん、つまり、彼氏ができて、もしくは彼氏らしき何かができて、彼女の家に来て、えっと、相手は既婚者とかだから、相手の家には行かないのよ、彼女の家に来る、で、来なくなる。あの子はそれを嘆く。
 そこまでは知ってるよね。いつものパターン。わたしはあの子のこと大事だったから、みんなが敬遠してからも、話を聞いていた。
 そのうちあの子はスピリチュアルにはまった。スピリチュアルカウンセラーとかっていう人が、インターネットにいるんですって。そういうのが全部いけないとはわたしは思わないよ、わたしだって占い師に占ってもらったことある、でもそういうのはさ、遊びだったり、話を聞いてもらってすっきりするためのものでしょ。
 あの子にはそうじゃなかった。「真実」を語るものだった。

 その「真実」によれば、あの子の相手の男は「運命の人」なの。運命だからこそ離れる時があるんですって。専門用語をまくしたてるんでよくわからなかったんだけど、「運命の人とは、離れざるをえないときがあって、それによって二人の魂のステージが高まる」んだそうです。でね、運命の人にはランクがあって、あの子の恋愛の相手はいつも運命の人で、どんどんランクの高い運命の相手に巡り会ってるんだってさ。
 ここまでくると占いじゃない。与太話だよ。
 でもその与太話を、あの子は必要とした。
 あの子にはどうしても「運命の人」が必要だった。そしてそれは絶対に男で、絶対に恋愛対象でなくてはならなかった。あの子はどうしても、運命の男に選ばれて愛されなければならなかった。
 どうしてだろう。職があって、生活して、友だちがいて、趣味があって、きょうだい仲もよかったし、ご両親もまだお元気で、でもあの子にとってそんなのは「運命の男」の足元にも及ばないものなんだ。あの子を心配してあれこれ言うご家族やわたしやほかの友だちは、価値がないんだ。そしてわたしたちを、「魂のステージが低い」者として扱うんだ。
 どうしてかな。「運命の男」って、そんなにいいものなのかな。わたしにはそんなのいないよ。いなくていいと思ってるよ。わたしがそんなだから、あの子はわたしのこと、嫌いになったんだ。

 わたしは何も言えなかった。彼女はとても悲しそうだった。でも同時に、それが世の中では珍しくもない話だと、わかってもいるみたいだった。
 どこかへ行ってしまう人たちは、最初はひっそりと、典型的な行動をとる。その型の一つが、ある種の不均衡な恋愛である。片方が神さまで、もう片方が信者で、神さまに別途恋人や配偶者がいるような、あれだ。一度やそこらなら「そんな恋愛をすることもあるんだ」と思えないこともない。
 でも、どこかへ行ってしまう人たちは、それを繰りかえす。そしてしだいにかたくなになる。スピリチュアル商法の顧客になるのもその後の典型のひとつだが、そうでなくても、周囲の人からしだいに遠ざかってしまう。

 わたしが悲しいのは、そうした過程でその人の個性がどんどん見えなくなることだ。その人たちはなぜだか、典型に回収されてしまう。細かな個別性が、だんだん見えなくなってしまう。同じようなことをして、同じようなことを言う。
 人間は典型ではないはずなのに、なぜだか、典型に回収されてしまう。

 もういいんだ、と彼女は言った。あの子にはあの子の大切なものがあって、それはわたしと相容れない。だからもう、わたしは、諦めるしかない。

愛せなくなったらどうしよう

 わたしにはペットの同期がいる。
 近所にはたくさんの犬友がいるが、そういう人や犬のことではない。彼らは犬好きで犬を飼っていて、犬を通して人づきあいできる程度には社交的であり、彼らとわたしが共有する感情は「犬かわいい」である。
 わたしが同期と呼ぶのは彼らではない。「かわいいと思えなくなったらどうしよう」という不安を共有した人である。

 四年ほど前、わたしは犬を、友人は鳥を飼う計画を立てていた。わたしもこの友人もペットに関しては非常に慎重であって、ずっと飼いたくはあったけれど、条件が整うまでがまんしていた。年を重ねて経済的に安定し、マンションを購入し、出張もあまりしなくてよくなり、長く家を空けなくて済むように勤務態勢をととのえ、旅行も気が済むまでして、ペットについての勉強もした。
 一般的には「満を持して」である。
 それでもわたしは不安だった。この不安をわかってくれそうな人はいないかとあたりを見渡して、そうして、鳥を飼う予定の友人に本を貸した。『不時着する流星たち』という短編集である。この中に文鳥の話があるんだ、とわたしは言った。友人はその本を読んだ。

 それはこんな話である。
 老夫婦が文鳥を飼う。文鳥はかわいらしい仕草で夫婦にほほえみをもたらす。夫婦は競って文鳥を可愛がる。
 文鳥は早朝からさえずる。やがて夫婦はそのさえずりを「うるさい」と思う。そのしぐさにも飽きてくる。
 文鳥は鳥籠に布をかけると静かになる。夫婦はなにかというと鳥籠に布をかけるようになる。そして、

 怖い、と友人は言った。めちゃくちゃ怖い。
 読んでくれてありがとう、とわたしは言った。これから鳥を飼う人に対するおよそ最悪なセレクトだ。それはわかっている。あの作家には『ことり』という、鳥と心を通わせる主人公の素晴らしい長編があるんだけど、そっちじゃなくてこっちの怖い短編を読んでほしかったの。なんでかっていうと、わたし、この短編の夫婦みたいになったらどうしようって思ってるから。
 そう、わたしは自分の飽きが怖かったのである。
 自分の感情の永続性のなさはよくわかっている。世界一愛していると思っていた人が数年後にたいした存在でなくなったこともある。ましてペットなら、どういう気質の個体に育つかわからずに飼うのだ。気が合わなかったり、病気がちであまりに手間がかかってうんざりしてしまうかもしれない。老年期には介護だって必要になる。
 ペットを飼うということは、相手を愛せなくなっても死ぬまで一緒にいる、その可能性を引き受けることだ。成人とつきあうよりずっと大変なことだと、わたしなんかは思う。だって人間の大人は、飽きたら一方的に関係を断ち切ることができるし、逆に相手がわたしに飽きていなくなっても、わたしは生きていけて、他の人と友愛なり恋愛なりをやることができる。
 わたしも友人も、一度飼ったペットに無責任なことはしないだろう。最後まできっちり世話をするだろう。でも生き物は生きるための環境だけでなく、誰かの感情を必要とする。群れをなし、あるいはつがいを作って同族と交流して暮らすはずの生き物を、自分が可愛がりたいという理由で群れから引き離して自分の家族にする。ペットを飼うというのはそういうおこないでもある。そんなことをしておいて、飼った生き物がかわいくなくなってしまったら、わたしはどうしたらいいのだろう。

 わかるよ、と友人は言う。これはとても怖い話だよ。自分の感情なんかあてにできない。明日変わるかもしれないんだもの。
 でも飼う、とわたしは言う。でも飼う、と友人も言う。

 それから四年が過ぎた。わたしたちのスマートフォンの待ち受けは相変わらずペットである。すごいねえ、と友人は言う。わたしの鳥は毎日かわいくて、すごいねえ。わたしも言う。わたしの犬も毎日かわいい。甘やかしたくて毎日二時間散歩してる。

 めでたし、めでたし?
 いや、まだわからない。わたしたちのペットが死ぬまで、わたしたちはわたしたちの愛の永続性を疑いつづける。でも絶対死んでほしくない。ずっと元気でいてほしい。
 わたしは言う。わたしの犬に言う。どうしてこのような素晴らしい動物がこのおうちにいるのかしら? ーーうん、ブリーダーさんのところに行って買ってきたからだねえ。どうしてこんなにかわいいのかしら? ーーなるほど、生まれつき。そうかい、それはすごいねえ。
 犬はため息をつく。毎日そう言われているから、たぶんもう飽きている。

恋愛より特別なこと

 わたしが一緒に住んでいる女は恋人ではない。
 妻でもない。妻であればラクだとは思う。お互いのオフィシャルな緊急連絡先になって、どちらかが入院したらもう片方も病室に入れて、先に死んだほうの遺産が残ったほうに自動で行く。いいなあ、めちゃくちゃラクそう。
 でもわたしたちは結婚することはできない。わたしたちはどちらも女である。
 わたしたちは互いの稼ぎを持ち寄り、住居の確保から家事の分担まで二人で意思決定し、生活をともにしている。相手がいなくなったら生活を立て直さなくてはいけない。そういう相手を何と呼ぶのかと、同居人でない別の友人に訊いたら、パートナーじゃん、との回答が返ってきた。

 わたしは反論する。いやそれは籍を入れてないカップルの呼び方でしょ。わたしたち恋愛してないから。する予定もないから。
 そもそも恋愛や性愛がパートナーシップにくっついてくるのが、変だと思うんだよねえ。友人はそのように言う。相互に排他的にライフを支えあう相手がいることと、恋愛することと、セックスすることって、ぜんぜん、関係なくない? なんでセックスが基本になるかっていうと、子どもを産み育てろっていう国家の意思なんだろうけど、まあそれも「うっせえわ」だけど、それはそれとして、子どもが自然発生しないタイプの二人組にも、恋愛とセックスは要請されるじゃん。おかしくない? お互いを第一に相互扶助してるなら、恋愛なんかなくたって、パートナーじゃんねえ。
 そう言われたら、そうなんだけどさ。わたしはつぶやく。でもわたしがあの人を「一緒に住んでるパートナーです」って言うと、自動的にレズビアンカップルってことになるのよ。しょうがないから「友だちと住んでます」って言うんだけど、まあ友だちではあるんだけど、ほかの友だちとはぜったい違う、家計を折半して共同の貯蓄口座がある相手を「友だち」カテゴリに押し込んで済ませていいものか。
 そうさねえ、と友人は言う。あなた、いいパートナーがいて、実に素晴らしいことだねえ、と言う。暢気なやつである。

 わたしは恋愛をしたことがない。生まれてこのかた、恋愛感情を持ったことがない。あこがれの人だとか、片思いの相手だとか、そういうのもいたことがない。わたしたちの世代にも「恋愛しろ」というプレッシャーはあって、だから交際の真似事はしてみたのだが、全然向いていなかった。相手にも悪いことをしたと思う。
 今の同居人と暮らしはじめたのは四年前のことである。「シェアハウスをしないか」という提案に乗っかった。相手はもともと仲の良い友だちではあったが、一緒に暮らしてみると生活習慣がばっちり合う。二年目あたりに「これは一時的なシェアハウスではなく、とくに何もなければ長期的に継続する共同生活である」という共通認識に至った。
 ひとり暮らしだったときの支出と今の支出を比べたら、年間五十万ないし百万浮いていた。一人より二人のほうが、家賃も生活費も安上がりなのだ。人間が寄り集まって生きるってトクなことなんだなあ、とわたしは思った。生活のあれこれも楽になるし、何より楽しい。
 「それはパートナーシップだよ」と友人は言う。きっとそうなのだろうと思う。同居人のことを、取り替えのきかない、得がたい相手だとも思う。
 でも恋愛ではない。
 同居人の認識も同様である。同居人の恋愛対象は男性であり、わりと惚れっぽいのだが、つきあって半年から一年で飽きる。男性と結婚するつもりはないと断言している。恋愛は好きだが結婚はしたくないと、そのように言う。

 わたしは自宅に帰る。同居人に今日の話をする。
 同居人は言う。そしたらわたしたちパートナーってことで、いいんじゃない。
 恋愛じゃないのに、とわたしは言う。恋愛じゃないけど、と同居人は言う。
 わたしは思い切って、言う。でもわたしは、いつか恋愛に負けると思う。恋愛は強い。あなたは恋愛をする。わたしは恋愛をしない。あなたには、そのうち、飽きない恋人ができるかもしれない。そしたらわたしは、負ける。わたしは、それが怖い。
 同居人は笑う。それからうつむいて、口をひらく。
 そんなこと不安に思ってたんだねえ。そしたらわたしの不安も教えてあげよう。あなたがあなたと同じように恋愛しない人と知り合って、意気投合して、その人がわたしよりすぐれていて、そしたらわたしが捨てられるだろうと、そう思ってたよ。そんなの恋愛よりよっぽど特別なことでしょう。
 わたしは思う。恋愛しないからわからないけど、このわたしたちの関係だって、恋愛より特別なんじゃないかしら。

石を投げられたくないだろ?

 親戚は怖いなあ。僕がそう言うと、彼氏はのんきに、みんないい人だよ、と言う。
 僕らは先日、マンションの共同購入を決めたところである。このところの東京の地価高騰は異常で、たぶんバブルで、買っても長く持っていたら得はしないだろうけど、それでも賃貸のままだと引っ越し先を探すのもたいへんだ。今の家は狭い。僕が軽い気持ちで彼氏の家にころがりこんで早三年。狭い。リモートワーク用のデスクを置くスペースがほしい。
 幸い予算内でいい物件が見つかり、手続きを進めている。そしたら彼氏が「これも節目だ、正月に親戚の集まりに来ないか」と言うのである。「いとこたちも俺の彼氏を見たがっているから」などと、のんきな顔して言うのである。
 僕は彼氏をとても好きだが、こういうところはまったく理解できない。僕は基本的にクローゼットなのである。
 親戚のみなさんは、そりゃいい人なんだろうけどさ、いい人だからって甥っ子やら従兄弟やらが男の恋人を連れてきて大歓迎するわけじゃないだろうよ。がんばって気を遣って「多様性」とか言いながら甥っ子への心配がダダ漏れになるんだよ。だって、俺の弟がゲイだったら俺、心配するもん。なんでかっていうと、俺が苦労したから。

 大切な身内には苦労してほしくない。それが偽らざる本音だと思う。その本音を口に出すのは差別だと言われれば、うん、差別だ。俺は俺を差別してるんだと思う。なんでかっていうと、さんざっぱら差別されたからです。身内にはそんな目に遭ってほしくない。
 僕は言いつのる。だっておまえ、たとえば離婚した母親がものっそい年下の男連れてきて、再婚するって言って、その男の職業が、えっと、そうだな、タトゥー・アーティストで、顔にも芸術的な文様が入っていたら、びっくりするだろう。
 彼は少し考え、言う。職業と外見には、きっとびっくりするけど、それは単に珍しいからだと思う。すごく若くて収入が不安定だったら、その点は心配かも。だって、結婚したら双方の収入が双方のものになる、だから経済はいくらか気になるかな。
 そうだろそうだろ、と僕は言う。シングルの母親に彼氏ができるなら、堅めの仕事で、同世代で、実家に問題がなくて、誰にも石を投げられないようなやつのほうが、安心だろうよ。
 うーん、と彼氏は言う。そう言われたら、そちらのほうが、安心では、ある。

 それみたことかと僕は言う。大切な人には「普通」に幸せになってほしいだろ。石を投げられたくないだろ。
 おまえは気にしすぎ。彼氏はそのように言う。あのね、俺がもし「普通」が好きなら、自分で「普通」をやる。母親がそうなら母親自身が「普通」をやればいい。母親は俺じゃないんだから、関係ない。親戚もそう。俺は、俺やおまえに失礼なことされたら、怒る。そんだけ。おまえほんと、気にしすぎ。
 えらいねと、僕はつぶやく。さすが佳子さんの子だ。

 佳子さんは彼氏の母親である。僕はたいそう彼女を尊敬している。
 一緒に住み始めて一年が過ぎたころ、佳子さんは僕に会いに来た。僕は内心「僕の母親よりはマシだといいな」と思っていた。
 僕の母親は僕がゲイであることを示す場面があると(彼女を作れと言われて断るとか)、それを見事に無視して、それから体調を崩すのである。息子の同性愛に文句を言うのではなく、そんなものはありませんというふうに振る舞って、それが破綻すると寝込む。つくづくうんざりして、実家にはろくに戻っていない。
 一方、佳子さんは僕の前でとても「普通」に振る舞った。息子とその恋人と三人で話すのが嬉しいみたいだった。不快な顔をしたのは一度きりだ。
 この子、すごく理屈っぽくて、けんかしても理詰めでしょう、ごめんなさいね、あれ、ストレスよね、わたしはほんとに、あれがイヤでねえ、誰に似たんだろうって、この子が高校生の時なんか、もう、イヤでイヤで。
 そう言われて、僕はびっくりした。けんかしても理屈でものを言うのは彼氏の美点だと思っていたからである。
 あの、すみません、僕も、そうなんです。理詰め系です。
 僕がそのようにこたえると、佳子さんは「マジで」みたいな顔をした。「やだわー、この人と一緒には暮らせないわー」とフキダシをつけたいような顔をした。あの人めちゃくちゃ顔に出るんだよ、とあとで彼氏が言っていた。
 そんな人が楽しそうに僕と話してくれるんだぜ。ほんと、嬉しくなっちゃうよな。

 しかたがない。僕の恋人と僕の尊敬する女性が「来るように」と言っているんだから、親戚の集まりとやらに行こうじゃないか。心配されたところで、それはその人の問題だ。

わたしの中のかわいい女

 このところわたしばかりが仕事を休んでいる。
 幼児は熱を出すものだ。ここ半年は誇張でなく隔週ペースである。そうなると親が仕事を休まざるをえない。そしてこのところそれを担当するのがわたしばかりなのである。
 結婚話が出たときに、わたしは夫と家事子育ての話をした。夫はもともと自分のことは全部自分でする。しかしわたしは、フルタイムで働く女たちの夫が家事育児をせず、その結果、けんかしたり(意外と少ない)、我慢したあげくにキレたり(けっこういる)、女友達に愚痴を言いながらなぜか家事は引き続き全部していたり(これが多数派)するのを、さんざっぱら見てきたのである。
 わたしはそんなのはぜったいにいやだった。「夫を育てる」みたいなのも冗談じゃなかった。わたしは「夫」がほしかったことなど一度もなかった。一緒に楽しく暮らすための努力を二人ともができる、そういう相手がいたから、はじめて結婚のオファーを検討したのだ。
 夫は「じゃあ試してみよう」と言い、しばらくはただ一緒に暮らして、わたしがOKと言ってから、「では」と区役所の紙を持ってきた。いい男、とわたしは思った。

 夫は子育てにおいても非常にパワフルである。「妊娠出産はきみがしたから」という理由で、赤子の世話の主担当をやってのけた。互いの産休育休あけからは家事育児の負担は半々でやっているが、彼は育児に関してわたしより適性がある。
 わたしがそのように褒めると、夫はドヤ顔して言ったものである。きみは真剣に子どもと向き合っていて素晴らしい。子を常にひとりの人間として扱っている。でも幼児というのはそういうものではない。はしゃいでいるときの三歳児は生後半年の柴犬だと思いたまえ。僕は知っているんだ、年の離れた弟がいるから。
 年の離れた弟妹のいる人間のすべてがそんなではないと思うが、とにかく彼はそのような人間である。

 しかし誰にでも仕事の波はある。夫にもある。夫は今年にわかに忙しくなり、本人もそれを良しとし、キャリアアップの正念場と考えている。そこでわたしは、わたしが育児の八割を引き受けることを提案した。幸いわたしは比較的裁量が大きい仕事をしている。
 しかしながら、幼児は融通が利く日にばかり熱を出してくれるのではない。なまじそれまで分担できていたものだから、「今日だけはだんなさんにお願いできない?」と上司に訊かれたりもする。
 一時的な育児八割負担はOKだが、キャリア全面犠牲はNGである。わたしは腹をくくって夫に話をすることにした。
 わたしはダイニングのホワイトボードに概略を書いて説明する。夫は話が終わるまで黙って聞く。疲れて帰ってきたのにかわいそうだな、と思う。そしてそれをぐっと飲みこみ、ぜんぶ話す。
 なるほどそれはキャリアダメージが大きすぎる、と夫は言う。しかし僕はあと半年は身動きが取れない。その後はだいぶましにできる。約束する。小一の壁の前にフルリモートを実現して夜にも作業するつもりでいる。だから今だけお願いできないだろうか。買い出しは僕がぜんぶやるし、毎晩おかずを作り置きしておくから。
 わたしは涙腺を引き締める。それから言う。うん、わたし、上司に交渉する。

 わあ、さいてー。何様?
 わたしの中のかわいい女が言う。甲高いかわいい声で言う。
 なんでそういうこと言うの? なんでそういう言い方するの? ありえない。百歩譲って、せめてやさしく言わなきゃ。まずは感謝しなきゃ。愛想尽かされないのが奇跡。明日にでも出てっちゃうかもね。男は今くらいの年齢からモテるんだから。忙しい彼を支えられない妻なんて、愛されないどころか、捨てられちゃうよ?

 わたしはその女を仕舞う。かわいくていつもきれいにしていて笑顔で気が利いて甘え上手な愛され妻を仕舞う。
 それからはじめて、その女のことを夫に言う気になる。わたしの中にこういう女がいて、いちいち文句を言うんだよ。今日はめちゃくちゃ言われたわ。
 夫は非常に驚く。そして言う。きみの中にもそんなのがいるの?
 わたしはほほえむ。夫はわたしを、「愛される女像」なんか歯牙にもかけない女だと思っている。その種の固定観念から自由な人間だと買いかぶって一緒に暮らしている。

 そんなわけないじゃないか。
こんな世の中に女の戸籍で女のなりして産まれて育って、そんなわけないじゃないか。わたしの中にだってインストールされた「女像」があるに決まってるじゃないか。わたしはただそいつがものすごく嫌いで、そいつにでかい顔させたくないだけだ。
 そうかあ、と夫は言う。好きだよ、とわたしは言う。好きだよ、と夫は言う。

わたしのすべての変数

 わたしは将棋を好む。
 自分でも指すが、それはたいして好きではない。スポーツ以上読書未満の、やれと言われたらやれて、嫌いでもなく、素人としては楽しめる程度に素養がある、というほどのものである。祖父の趣味で、親はやらないが従弟のひとりが真剣に取り組んでいて、わたしも中学生くらいまでその練習相手をつとめていて、つまりは環境による、受動的な趣味である。
 ほんとうに好きなのは自分が指すことではなくって、プロ棋士の対戦を観覧することだった。将棋はテレビ放送のある、なんだか優遇されているゲームだから、わたしはそれにかじりついた。ただのゲームなのに、とわたしは思った。もっと人気のあるゲームだってあるのに。木っ端を動かしているだけなのに。わたしの高校の部活にだってないのにね。
 なんでこんなに好きなんだろう。

 今にして思えば、将棋は記録が残るから、だから好きだったのだと思う。わたしは棋譜を読むことができて、本や映像もたくさん手に入り、昨今はログの残るインターネット対戦もさかんであって、だからわたしは、わたしが指す凡庸な将棋でない、歴史に残るかもしれない名勝負を、何度だって楽しめるのだった。
 記録が好きすぎるのは将棋にかぎったことではなく、わたしは毎日日記をつけた上でインターネットで他人の日記を読み歩くログ魔なのだが、その長いキャリアをもって、わたしは断定する。人生のログは不完全にもほどがある。穴が多すぎる。秘匿が多すぎる。よしんば因果関係が記されていたところで、まったく信用ならないものだ。偶然のかたまりにわかりやすい物語が塗り重ねられ、欺瞞のからだにきらびやかな衣装が着せられる。
 人生はそういうものである。本音と建て前の区別など本人にだってついていないし、因と果をつなぐのは物語でしかなくて、わたしはその物語を楽しめれば、それでかまわない。ふだんは、それで。

 将棋はそうではなかった。思考が手筋になるものだった。そういう種類のゲームだからだ。だから好きだった。
 わたしは必然的に駒の動きを追う行為を趣味にした。
 それは時に論理的でないように感じられる。わたしに理解できる程度の論理性から外れているという意味だけでは、たぶんない。棋士は動物としての身体を持つ人間だから、調子の良し悪しがあり、好みがあり、相性がある。気まぐれでさえある。そのように見える。
 わたしはそれを読み取ることが好きなのだった。一手の、その背景にある将棋の歴史や、棋士の個人史、その他諸々の要素を想像し、ときに資料を引きながら。

 とても面白いよ、と友人が言う。友人は出版社に勤務している。そうしてわたしが書いた将棋に関する趣味の文章を読んで、言う。
 このような描写は珍しい。ルポルタージュとして価値があると思う。でも書き手の動機がわからないな。将棋が強くなりたい人間のすることではない。それにしては効率が悪い。特定の棋士が好きでずっと見ていたいという感じはあるけど、近づきたいという欲望はない。距離がある。その距離を必要としている。そのくせ、客観的に見えて実は好みに合う要素を選択している。エゴは明確にあるんだけど、わかりやすいエゴじゃないんだよな。なんというか、対局の理解を通して自分の中の世界を理解したいというような、感じ。そこがいい。でも売りようはないな。宣伝しにくいし、部数が出ない。
 売らなくていいんだとわたしは言う。売り物じゃないんだ。あなたが読みたいと言うから読ませたんだよ。
 友人は笑う。そうだねと言う。わたしがお願いして読ませてもらったんだものねと言う。ずいぶんと愉快そうな顔をしている。

 すべての要素を書こうとしないのは、と友人は言う。不可能だからかな。
 そうだよとわたしは言う。ほんとうはそうしたいんだよと言う。あの日のあのときの、気温と湿度、皮膚感覚、昨夜交わした会話、小さいころの家族のひとこと、小学生のときのあの対局、三日前に研究に倦んで早めに寝たこと、そのとき窓の外で鳴いていた虫のこと、ああぜんぶ、ほんとうはぜんぶ、影響しているはずなのに。
 あなたは、と友人が言う。その対局のすべての変数を記述したいんだね。あなたのとても好きな場面について、何がそれを成立させたかを、完全に記録したいんだね。

 わたしは笑う。そんなことできるわけないじゃないか。わたしはそれを、とうに諦めた。変数が見えるような気分になれるゲームを好み、しかしそこにもやはり把握しえない大量の変数を垣間見て、くらくらとめまいを起こして、それを楽しんでいるのだ。