傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

あわよかばない

 疫病が流行しているのでよぶんな外出を控えるようにという通達が出された。そのために人が人に話しかけるハードルは劇的に上がった。対面して声を出すことは相手にリスクを負わせるおこないであり、軽々にしてはならない。そういう合意がすみやかに形成された。
 そのために私の友人は「少なくとも一点でとても楽になった」と言うのである。その一点とは、女性である彼女に対する、知らない男性もしくは顔見知りの男性からの、色気含みの「連絡したい」「二人で話したい」「二人でどこかへ行きたい」というオファーである。

 平たく言えばナンパ、または知人からコナをかけられるというシチュエーションだけれど、彼女はこれにとにかく悩まされてきた人である。見た目の華やかさももちろんあるのだが、どうもそれだけではない。同性で彼女に恋愛感情を持っていない長年の友人である私から見ても、ほとんど理不尽なまでに「この人の特別な人間になりたい」と思わせるところがある。ちょっと油断すると「ほかの友だちよりわたしを優遇してほしい」と思ってしまう。
 ぜったい言わないけど。彼女が昔からそれに悩まされていたことを知っているという、ひそかな優越感をもって、私はそんなこと、言わないのだけれど。

 彼女はかつて、わたしたち十代だからだね、と言った。十代ってそういうものらしいからね。二十代だものね、とも言った。みんなパートナーが欲しくて活動的になるんだよね。三十代を過ぎれば、とも言った。それでも状況は変わらなかった。彼女はやがて、視線だけで相手をしりぞける技術を研くようになった。表情に嫌悪感を載せる方法を会得した。
 そして私たちはとうに四十を過ぎた。それなのに、疫病前に彼女とわたしが食事をしていると、やっぱり誰かがやってきて、あからさまに彼女の視線の上に来るように移動し、そして彼女に話しかけるのだった。

 あるとき私がそのことを話題にしたら、彼女はどこかつめたく感じられる豪快な笑いを笑って、それから言った。ああ、もう、しかたない、わたしが、そういうたちなんだ。
 彼女の容姿は相応に年をとって、彼女はその容姿に居心地良く座っていて、そして彼女は、やっぱりとても、人目を引くのだった。年をとってもそんなだから、もしかすると昔から、容姿のために話しかけられるのではないのかもしれなかった。そこには説明のつかない磁場のようなものがあるのかもしれなかった。
 主に男であるような人々、それからいくらかの男性でないような人々が彼女のまわりを物欲しげにうろうろするのは、だからしかたのないことなんだろう。魅力は権力だというのが私の認識である。そして権力はその持ち主にとって必ずしも出し入れ自由なものではないのだろう。

 いいかげんにしてほしい、とくに異性愛男子、と彼女は言った。わたしはね、男性の友だちがもっといるはずだったのよ。でも何かというと「あわよくば」ってなるんだよ、異性愛男子、けっこうな割合で。
 あわよかばない。あわよかばねえよ全然。「あわよかばない」って書いたTシャツ着たい。でもできない。せめて「あわよかばない」Tシャツがいらない数少ない男性の友人たちのことを大切にしようと思う。

 彼らは可能性に寄ってくるんだと思うよ。彼女はそうも言った。いっぱつやれそう、あるいは、自分に恋をしてくれそう、そういう可能性。異性愛女子なら、親友とか庇護者とか、なんらかのレアな存在になってくれそう、みたいな可能性。わたしにはそのような可能性の隙間があいているように見えるのだと思うよ。
 でもほとんどの場合、わたしはそうではない。わたしには隙間なんか空いていない。わたしは友人と食事をする。それは知らない人に話しかけられるためではない。あるいは友人だと思っていた人に「友人ではなくて別の何かになれ」という欲求を向けられるためではない。
 私は彼女の苦労を理解する。私は彼女が被っている迷惑を理解する。しかし一方で、私自身もほんとうは彼女の特別でありたいのにな、と思う。彼女は手を変え品を変え、「わたしと食事をしたいならわたしの特別になりたいという欲求を1グラムも出すな」と、彼女のすべての友人にいいつけている。それが彼女の友人の座の代金なのである。

 しかしそのあと世界は変わった。人が人に話しかけることの意味が変わった。彼女の架空の「あわよかばない」Tシャツをみんなが着ているような世の中になった。 彼女は言う。ソーシャルディスタンスってほんとうに素敵。ねえ、みんな、ちょうどよくそばにいて。そしてそれ以上近寄ってこないで。

あなたを守ってくれた人

 疫病が流行しているのでよぶんな外出を控えるようにという通達が出された。そのために新規の彼女を作るのがなかなかたいへんになった。そうしたら、「あんたに泣かされる女子が減ってよかったじゃん」と友人が言うのである。

 僕が女性を泣かせるというのは正しくない。単に交際が長続きしないだけである。別れるとき泣く人は少なくて、だいたいは怒る。そうでなければ落ちこむ。
 怒るのは「彼氏を作ったのにすぐだめになったのはその彼氏のせいだ」と思っている人である。落ちこむのは「彼氏を作ったのにすぐだめになったのは自分のせいではないか」と思っている人である。泣く人は一人しか見たことがないけれど、あれは怒りや落ちこみを涙で表現しているので、悲しくて泣いているのではなかった。僕と別れるのが悲しくて泣くような仲になった相手なんか今までひとりもいないよなと僕は思う。だって、一人あたま十回とかしか会ってないんだから。

 こういう話をすると、僕が多くの女性と性的関係を持ちたがる唾棄すべきクソ野郎だと思われることが多いんだけれど、僕はセックスはそこまで好きじゃない。だからつきあった相手と必ずしているというわけではない。とくにこの二年ほどは「セックスするとなんか取られたみたいな気持ちなって怒る女性がいるようだ」と認識したのでやっていない。でもやらないほうが怒られるようにも思う。

 そして交際を終了させるのは僕ではない。相手の女性である。でも彼女たちだけが原因なのではもちろんない。デート数回で僕のテンションがダダ下がり、どうしたらいいかよくわからなくなり、放っておく。そしてふられる。いつもこのパターンである。コピペみたいだ。

 パターンが維持されるのはあんたが変わらないからだ、と友人が言う。人間関係の癖はその人を写す鏡だよ。新しい出会いがないうちに変えておきな、まわりがいい迷惑だから。
 友人は幼なじみである。実家が近所で親同士の仲が良く、友人の両親の都合がつかないとよく僕の家にいた。
 人間関係の手癖は親のせいにするのが定石なの、と友人は言う。たとえばわたしはさ、弟が手のかかる子で両親とも忙しくて、いろんな人に助けてもらって育って、今でもゆるくいろんな人と助け合うのがよくて、誰かと一対一で密な関係を築くとか全然合ってないわけ。だから彼氏も別にいらないわけ。誰もが彼氏彼女作っていずれ同居して、みたいなのに合うわけじゃないんだよ。昔はともかく、今はそういう型みたいなのに自分をぶちこまなくても生きていけるんだから合わないことする必要ない。
 こういう自己理解みたいなものがあんたにはないわけ、それが問題なわけ。友人はこのように話を締め、僕はちょっとあきれた。そんな簡単にいくわけないだろ。

 友人はちょっと笑って僕を見て、お父さんに似てきた、と言った。外見だけはね。かっこよかったよね、あんたのお父さん。シュッとしてて頭よくって。実質あんたんとこの会社を大きくしたのはおじいちゃんじゃなくてお父さんでしょ。でもチャラついてなくて、あの年代のわりに家のこともできて、料理上手で、わたしなんかもよくお世話になったでしょ。「みんなまとめて守ってやる」みたいな人で、あんたんちの家族も会社の人もお父さんのこと大好きでさ、あんな人が将来のモデルとしてまず提示される同性の親だっていうのはなかなかたいへんなことだよ。だからあんたは「守ってくれ」という態度をちょっとでも出されるとテンションめっちゃ下がるんだよ。

 そして、と友人が言う。そこで言葉を止めるのは友人としては一応配慮しているつもりなのだろう。でもそんなのぜんぜん配慮にならない。
 僕は父のようになってはいけないのだ。死ぬから。働き盛りで突然病気になってあっというまにやつれて死ぬから。
 父は自分が死ぬとわかってもみんなを慰めて励ますほど強い人だったのに、僕にだけこっそり言ったのだ。お母さんと妹をよろしくな、守ってやってくれよ。
 僕は十三歳だった。

 実際のところ母も妹もたいがい強靱な連中で僕に守られる必要なんかなくて、あれはただ父が感傷的になって言っちゃっただけのせりふなんだろうと思う。思うが、僕はそれでも自分の「守る」アレルギーが治る気がしない。

 いや、だから、と友人が言う。「守ってあげます」「守ってください」じゃない関係もあるでしょうよ。そういうのを作ればいいんだよ。さみしがりで惚れっぽくて彼女はほしいんだからさあ。だいじょぶだいじょぶ、そういう人も探せばどっかに落ちてるよ。

こんなもの握りつぶしてしまいたい

 疫病が流行しているのでよぶんな外出を控えるようにという通達が出された。感染状況に波はあれどなるべく出歩かないという方針は常態化し、弊社ではどうしても対面でなければならない業務以外は基本的にオンラインのままである。
 僕は運悪くというかなんというか、管理職になって二年目に疫病の波に見舞われた。まあしかたないんだけど、しかたないっていうかもうどうしようもないんだけど、業務のオンライン化のための僕の仕事量は結構なものだった。そうしてとくに評価されるでもない。上司から「よくやっている」とは言われるのだけれど、会社から出た手当は、何をかくそう最初の月にもらった一万円だけである。残業代だってつかない。
 でもやたらと忙しいことも待遇がついてこないことも実はわりと平気だった。僕はけっこう辛抱強いのだ。地味に地道に徹底的に、というのが平素からの僕の信念である。

 それなのに今回はほとほとまいってしまった。
 週末が来ると僕は完全な無気力に陥った。ほぼベッドから出なかった。

 簡単に言うと、職場でハラスメントが起きたのだ。とはいえ被害に遭ったのは僕ではない。そして被害者は自分が被害に遭ったことを知らない。ことはオンラインの業務コミュニケーションついでの雑談の場においてのみ繰り返され、エスカレートした。
 僕がなぜそれを知ったかといえば、それが起きたチームの構成員がリークしたからである。きっちりとファイル名に日付を入れたスクリーンショットの量が、彼の(リークしたのは男性、被害者は女性である)怒りを物語っていた。
 僕がこれまでに扱ったことのあるハラスメント案件は超露骨なセクハラ一件と関連会社を巻き込んだパワハラ一件、いずれもどこからどう見ても百パーセントひどいので管理側としてはある意味ラクだった。加害者は単体の「ひどいやつ」であって、そういうのは(被害者には申し訳なんだけど)第三者としては割り切って扱えるので、精神的ダメージはさほど大きくない。

 今回はその反対だった。被害者は自分の被害内容を知らず、加害者は単体ではなく、どこから「ひどい」と言えるようになったかの切り分けがわからない。結果はものすごくひどいんだけど、どこが境界線なのかわからない。

 僕はあのスクリーンショットを忘れることができない。
 決定的な文言が出る前のやりとりを読むと、特定のメンバーにイレギュラー業務が集中することについて、他のメンバーは軽い罪悪感を持っているような雰囲気があった。それが発端だったのだろうと思う。
「いや、まああの人がやってくれるっていうから、いいでしょ」
「ああいう人が一人いると組織としては使い勝手良いよね」
 トリガーはこの「使い勝手」という言葉だった。日を重ね、月を重ねるうちに、被害者本人がいないやりとりにおいて「便利ちゃん」という語が出現した。やがてそれは「お便利ちゃん」になった。

 最後のスクリーンショットにはこう書かれていた。「それもお便女ちゃんに処理してもらえばいいじゃん」。

 僕はきっと幼いところがあるのだろうと思う。他人より多くの仕事をしたら感謝されるにちがいないとどこかで思っていた。誰かに何かしてもらったらありがとうと僕は思うから、それが当たり前だとどこかで思っていた。そんな人間ばかりではないと、逆恨みだのヘイトクライムだのもこの世にあふれていると、頭ではわかっていたのに。その仕組みだって理屈では了解しているのに。世界史とかで習った。本だって読んだ。そういうテーマの映画も観たことがある。人間は理不尽に特定の属性の人間を貶め、貶めるための会話を仲間内の娯楽にする。
 そうしたことを、僕はほんとうにはわかっていなかったのだろう。だから送られてきたスクリーンショットを見てこんなにもダメージを受けている。

 僕は被害者にこの話を聞かせたくない。加害者たちには相応の処分が下るだろう。こういうものを野放しにしておく会社ではない。でも被害者はどうなる。組織として詳細をそのまま知らせることはないにせよ、人の口に戸を立てておくことはできない。
 ぜったいにそんなことはしないけれど、僕はこのスクリーンショットを握りつぶしてしまいたいと思う。彼らの会話のどこからがアウトなのかの境界線を引ききれない自分、すなわち彼らと同様の心根を隠し持っているかもしれない自分も一緒に、握りつぶして、なかったことにしてしまいたいと思う。

ロマンティックなラブ像の局地的な破壊

 疫病が流行しているのでよぶんな外出を控えるようにという通達が出された。そのために僕らは暫定的に今の相手だけを色恋の相手にすることに決めた。疫病のリスクを負ってまで新規のアフェアを探す気にはなれないし、探さなくてもあらわれるような状況でもない。

 僕はつきあっている相手がいるとき積極的に他の男を捜したいタイプではない。ないが、超タイプの男から誘いがあって乗ったことはある。それに、つきあっている相手がいても「そろそろ終わりかな」と思っている段階では別の男と気軽に寝る傾向にある。そのなかから次の彼氏ができたりもする。僕はそういうのを「のりしろ」と呼んでいて、浮気にはカウントしていない。
 僕の現在の彼氏に至ってはもっとアクティブというかラフというか積極的というか、一対一の恋愛関係を維持しながら常時ほかにひとりふたり楽しいだけの色っぽい相手がいるという立ち位置を好む男である。僕としてはそれがそんなにしんどいわけでもないので、「まあ彼氏は俺だしな」と思ってつきあってきた。

 ゲイが全員そういうタイプというわけではない。もちろん。一対一の排他的な性関係を指向する者はとても多いし、そもそも性行為にあまり執着のない者や、ごく淡い接触で満足だという者もいる。あるいは一対一のカップル関係や情緒的な愛情とセックスを結びつけることをせず、あっけらかんと楽しんでいる者もいる。

 しかし世界は変容した。罪のないアフェアは罪深い接触になった。それで僕らは暫定的に(性的にも)一対一のパートナーシップを締結したというわけである。毎週末をともに過ごし、たいていのことは話すというような、よくある関係である。

 そんなわけで弟がミキに会いたいっていうんだけど。
 彼氏がそう言うので僕はたいへんに驚いた。僕は幹久という名で、たいていの親しい人からはミキと呼ばれている。いやそんなことはいいのだ。そうじゃなくて弟って、おまえ、弟って。
 僕の彼氏には二歳下の弟と十歳下の弟がいる。母親が早世したために、父親と大きい子どもたちがタッグを組んで幼児だった末弟を育てたのだそうだ。とくに長子で早熟だった彼氏は末弟の小学校の授業参観にすべて参加したという。途中までは高校生だったが、当たり前のように自分の学校を休んだそうである。
 そうして一昨年、末弟が高校に入った年に、真ん中の弟に半同棲する彼女ができた。家族にも紹介して交際は順調、しかしある日突然、その女性は真ん中の弟の全財産を持って失踪した。疫病の流行が始まる少し前のことである。

 このご時世、と老けたせりふを、末弟は使ったのだそうだ。できれば助け合って生きていきたいじゃん。兄貴の彼女連れてきてよ、いるんでしょ。

 僕は男で、男が好きだから、異性愛者男性だという末弟くんの気持ちについて見当違いな想像をしているのかもしれないけれど、お兄さんの交際相手ですよと言って僕があらわれたら、かなりきつい体験になるのではないだろうか。
 上の兄ふたりはよく覚えている優しかった母親のことを自分だけがほとんど覚えておらず、すぐ上の兄に彼女を紹介してもらって近い将来「お姉さん」なんて呼ぶのかなと思っていたら普通に悪人で、いちばん頼りにしている長兄の交際相手を紹介してもらったら髭が生えている。

 まずい。それはまずい。僕がそのような見解を述べると、彼氏は太平楽な顔して、なんで、と言うのだった。ミキは俺の全財産持って逃げるの。
 逃げねえよ。でも男じゃねえかよ。僕はそのせりふをぐっと飲み込み、それから言った。だって、そんな経験をしてきた子には、「普通」の「彼女」を見せてやりたいよ、僕は。弟くんだって「普通」がいいだろうよ。

 すると彼氏は鼻で笑って、言った。そんなん言うなら「じゃあおまえが『普通』をやれよ」って言う。「ばかじゃねえの」って言う。まあ、ばかじゃねえと思うけど。

 僕はそれを聞いてなんともいえない気分になった。もしも僕らが「この国に同性婚の制度があれば絶対に結婚していて、ほかの人なんか目に入ったことがないんです」と宣言できる間柄なら、まだなんていうか、末弟くんが少しは納得しやすいと思う。
 でも僕らはそうじゃない。疫病以前にはそこいらへんの別の男と寝たりしていた。それを悪いとは思っていない。思っていないが、ロマンティックなラブへの夢とは決定的にマッチしないケースではあると思う。

 僕がそう言うと彼氏はもう一度鼻で笑って、くそくだらねえ、と言った。それから宣言した。じゃあいいよな、弟の予定きいとくから。
 じゃあって何だよ、じゃあって、と僕は思い、それから、いいよ、とこたえた。

わたしは孤独に死ぬだろう

 疫病が流行しているのでよぶんな外出を控えるようにという通達が出された。そのため人の死に目に会えるのは親族のみになった。感染の状況によっては親族さえ会えないこともある。

 わたしはいまだ五十の坂を越えたばかり、昨今の平均寿命から考えると死が近いとはされにくい年齢だが、平均はあくまで平均なのであって、人によっては強く死を意識する。具体的には病気をするとか、そういうことで。
 わたしは病気をした。生きて帰ったが、年に一度検査をして「まだ死なないでしょう」というようなお墨付きをもらっている。もう数年そうしている。そんなだから死について考えることは日常であり、特段の悲劇とも受け取れない。法的に有効な形式の遺言も書いたが、自筆なので、公正証書遺言にして後の憂いを断ったほうがよいのではないかと考えている。
 一方で「もう法定のままでよいのかもしれない」「死んだあとのことなんかどうでもいいのかもしれない」「だって、どうせ思い通りにはならないのだし」とも思う。

 というのも、近ごろわたしより少々年かさの友人が亡くなったのである。わたしは赤の他人だからもちろん終わりのほうには会えなかったのだけれど、連絡はとっていた。彼女はしきりと周囲に感謝しながら最期の時を過ごした。彼女の親族たちーー夫、息子と娘、自分の姉妹、高齢の親までーーは、それぞれの能力や取得可能な余暇に合わせてチーム戦のように彼女を支え、およそ考え得るかぎりの環境を提供して、彼女が治療の苦痛で精神的に荒れたときにも辛抱強く相手になった。
 それは彼女が血縁ある関係の人々に感謝され、恩を返したいと思うような人生を送ってきた、そのことの結果である。もちろん、相手によっては恩も忘れるだろうから、よい人生を送れば弱ったときに恩が返されるというものではないが。

 わたしは彼女とは正反対の人生を送ってきた。当時としても珍しいほど男の子どもばかりを大切にする家で、わたしが皿を洗っているあいだ弟が塾に通っているという、簡単にいえばそういう家だった。家庭内労働や教育や投下される費用の面での差別は、しかし本質ではなく、「蔑まれる係」としての役割を生活の隅々に至って与えられていることのほうが、わたしにはこたえた。だからわたしは十八ですべての血縁を切って捨てた。
 もう一度人生があるのなら、やはりわたしはそうするだろう。しかし切って捨てられた両親は自業自得として(あんなの、いま考えても一切の感情を持つ必要がない)、弟についてはどうか。ただの甘やかされたぼんくらであり、はちゃめちゃに邪悪だったというわけではない。少なくとも父親のしていた日常的な娘への性的な言動をまねることはなかった。そんなのは感謝するようなことではないが、両親と一緒くたに切って捨てて何の感情も抱かなかったことについては、もしかするとやりすぎだったのかもわからない。

 わたしのすでに短くなくなった人生において、わたしを助け、わたしを愛し、わたしを笑顔にしてくれたのは、いつも赤の他人だった。だから自筆で遺言を書いたとき、わたしは「わたしが働いてためた老後のための貯金、早死にしたとしても血縁者になんかびた一文もやるものか」と思って、そのように書いた。
 でも、法的な関係のない人々に、国家が把握し法律が管轄する「親密さ」のない人々にお金を残そうとするのは、それはそれで迷惑なことなのかもしれない。彼ら彼女らは笑っていいよと言ってくれたけれど、いざとなったら揉めるかもしれず、そもそも「ほんとうは自分を指名してお金を残したりしないでいてくれたほうがありがたいけれど、相手の意思を尊重したいから」という姿勢なのかもしれない。会社員ひとりが貯められる額面だからたいしたことはないが、それでもその程度の金額でも人間や人間関係がおかしくなることは珍しくない。
 それならばわたしはおとなしく法定相続人にわたしの遺産をくれてやったほうがいいのかもしれない。

 わたしはきっと孤独に死ぬだろう。わたしの親密な人々は誰もわたしの病室に入れない。法と国家が把握していない関係だから。カテゴリ「知人」にすぎないから。一緒に生活していようが、たがいの危機を何度助け合おうが、「知人」にすぎないのだから。
 正しい「親密さ」を築いてきた人間だけが、死に目を誰かに看取ってもらえる。それが人生の総決算というものだ、とでも言われているようだ。

 それならそれでかまわない。わたしは孤独に死ぬだろう。わたしは幸福なまま、ひとりきりで死ぬだろう。

あの人たちいったいどこに行っちゃったんだろう

 疫病が流行しているのでよぶんな外出を控えるようにという通達が出された。そのためにオンラインでのコミュニケーションが活発になり、ふだん会わない人とのインターネットを介した「再会」が(わたしの周辺で)ちょっとしたブームになった。今どうしてる。そう、それはいいね。

 疫病のはじまりから一年、再会ブームもひととおり落ち着いた。なにしろふだん会わなかった人なので、十年二十年ぶりに連絡がついたからといって、そのあと濃密な人間関係が生じる確率はきわめて低く、「どうしてる」「それはいいね」が終わればだいたい用はないのである。「久しぶりに集まろうよ」ができないご時世だから、なおのこと。

 そうしてわたしたちはいつもの人間関係に戻った。戻ってだらだらとオンラインで話をする。今日は高校生の時分からの友人と、高校生のとき空き教室やコーヒー二百円のカフェで延々と話していたように話している。

 わたしが再会ブームを話題にすると、そうだそうだ誰それはこうだった誰それは意外なことにこうだった、とちょっとだけ盛り上がった。それから彼女はおそらく手元の皿かなにかを下げて(そういう音がした)、低い声で言うのだった。あのさ、こういうときにも連絡を取らない、取れない、なんなら思い出さない、大学出て何年かのあいだにわたしたちの前からいなくなっちゃった人たち、いるじゃん、この世からいなくなったわけじゃないはずなのに、再会ブームでも名前があがらない人たち。それから低い声のまま当時教室でいくらか話をする仲だったクラスメートの名を複数挙げた。

 わたしたちはいわゆる就職氷河期世代である。就職先がなかった。それはもう、ぜんぜんなかった。そんなだからわたしの同世代の友人には外資と公務員と資格職がやたらと多く、一部が大学院進学やベンチャー立ち上げを経験しており、転職経験のない者がきわめて少ない。職業生活の初手からけちがついたので景気がよくなってから転職するのは当たり前のことだったのだ。

 でもそれはいわばコミュニティに残った人間から見える景色である。

 もちろん、このたび再会しなかった人々が不本意な人生を歩んでいるとはかぎらない。彼ら彼女らは単に高校大学の薄い友人たちに愛想をつかしていて、誰にも連絡を取りたくないだけかもしれない。その後の人生が幸福にすぎるのでインターネット経由で誰かと再会するなんて思いもよらないのかもしれない。たいへんなお金持ちになったので下心のありそうな連中とは接点を持ちたくないのかもしれない。

 しかしそうとはかぎらない。もちろん。なにしろたいへんな不景気だったのだ。都内有数の進学校で、あるいは有名大学で、自分はできるのだという意識をすくすくとはぐくみ、努力もして、そうしてまったく報われず、白紙の値札を下げて労働市場で買いたたかれた、そういう人がいっぱいいたのだ。全員が全員「じゃあしょうがねえな資格でも取るか」とか「日本がだめなら外資に行きましょ」と思って白紙の値札の重みに長いこと耐えられるわけではない。

 実際のところ、失踪は多かったよ、と友人が言う。友人は理系だったので、少々専門を変更してまで修士卒の需要が多い工学系の大学院に進み、修士課程に入るなり研究そっちのけで就職対策を打って、景気がよくなったところで転職した。そうして大学院時代に幾人もの「失踪者」を見たと、そのように言うのだった。休みがちになり、他人を拒絶するようになり、そうして次の進路も決めずいなくなる人がそれなりの数いたのだと。

 疫病なんて不景気よりなお悪いよ。友人が言う。もっと理不尽で、もっと突然なんだから。わたしが今の就活生だったとして、どうして一年前に大学四年生じゃなかったんだろうって思うよ。今の進学率は半分くらいだっけ、そしたら半分近くは高校三年生で就活してるとして、十八でそんなのに耐えられる?
 わたしだったら耐えられないな。大学四年生でも耐えられないかもしれない。あのころだって「どうしてバブルに間に合わなかったのか」「せめてここまで冷え込む前ならどんなによかったか」「こんなの一生不利になるじゃないか」と恨みに思ったし、実際、世代として一生ものの不利を背負っているでしょう。

 失踪した人がみんな幸福ならいいな。友人はそう言う。単に幸福にすぎてわたしのことなんか忘れてて、それで連絡がつかないならいいな、全員がそうであったら、いいのにな。でもきっとそうじゃないんだろうな。

恋はごみ箱

 疫病が流行しているのでよぶんな外出を控えるようにという通達が出された。そのためにわたしたちの身辺から恋の芽が完璧に摘まれた。摘まれ尽くした。ぺんぺん草も生えやしない。

 恋はこのような世界にも存在する。なんなら燃え上がっている。わたしもそのような話をたくさん聞いている。しかしそれらの種は疫病の前に蒔かれ、疫病の前に息づいていたものである。恋はだいぶん原始的なものだから、フィジカルな接触が禁じられた疫病以降の世界では難産になるのだろう。
 もちろん恋はプラトニックなものでもある。精神的な活動のみで完結しうるものでもある。しかしそれは相互作用をもたらさない。しばしば一方的に誰かを「応援する」「奉仕する」というようなものだ。わたしはそういうものを好きではないが、世界はそれをも恋と呼ぶので、だから疫病下の世界でも恋は発生しているのだ。たとえばガラスとアルミニウムの小さく薄く四角なデバイスを通して。
 しかしそこには相互性はない。相互性のない恋はきっと存在するのだろう。しかしわたしは片恋というものを経験したことが一度もなく、だからそれを理解することができない。貧しいことである。わたしが他者を恋するとき、その他者はすでにわたしと(たとえば友人であるというような)何らかの個人的な関係があり、そのうえで「わたしはあなたに独占欲をともなう恋をしており、あなたもわたしにそのような恋をしていたらわたしは幸福なのだが、どうだろうか」とわたしがオファーする(あるいはされる)、それだけがわたしの恋だった。

 わたしの思う恋は相互に身体としての存在と大量の言語をやりとりするものだ。相互性なしの恋が想像できないのと同時に、言語のやりとりなしの恋もまたわたしにはわからない。ことばを通じて他者に触れ、そこに相互に固有であることの合意が発生するのがわたしの思うところの「恋の成就」である。
 自分を偏っていると思わないこともない。片恋がわからないなんて貧しいことである。人類はすでに、描かれた絵にも恋をしている。存在するが決して会えない人にも恋をしている。集会で宗教の教祖さまにひれ伏すのも、たぶん恋のようなものである。それらのすべてを理解しないわたしはきっと感情的な貧民なのである。

 いずれにしてもわたしたちは恋をする。わたしの理解するたぐいの恋は疫病下でその発生が抑制されている。すでに発生していた恋は燃え上がっている。そうでない恋についてはどうだろうか。人々の見解を聞きたいものである。もしかするとより盛んになっているかもしれない。
 というのも、わたしたちは名付けえない感情を持て余しているのだ。別の誰かへの執着、すでにない者への執着、皮膚や体温への執着、復讐心のようなもの、恩を返したいという欲求のようなもの、ただ誰かにやさしくして慰撫してやりたいと思う欲求、その他、わたしの知らない感情たち。
 それらをすべてぶちこんでも咎を受けないのは恋と呼ばれる箱だけである。

 わたしたちは恋と名付けた対象に自分の名づけていない感情や解釈しがたい執着をぜんぶぶちこめる。しかも箱の表面は幻想を映すスクリーンになっていて、だからやたらと美しい。 幻想の寿命は短い。投影された端から死ぬ。だから恋はすぐに腐敗する。そんなこと十代に知ったはずなのに、新しい幻想が映ると、性懲りもなく飛びついてしまう。
 わたしの知っている恋というのはそういうものである。とても美しくやたらと都合の良いごみ箱を呼ぶときの名である。

 もしかするとこの疫病下の世界に生きる人類はそのように美しいごみ箱をうしなってしまうのかもしれない。フィジカルな出会いが極端に制限された世界では、恋することはできないのかもしれない。だって、わたしたちは、画面越しに誰かにときめいたとしても、別の名前をつけるだろう。わたしたちはすでに名付けられた相手としか接続することができないだろう。そうではないか? 理由のないフィジカルな接触が禁じられた世界で、理由のないフィジカルな接触をともなう突発的な強い幻想の相手が生じうるものだろうか?
 親密な他者はすべて、「生活や家計をともにする契約を結んだパートナー」とか「養育を法律で義務づけられた相手」とか「カネや利便で購入している/されている相手」とか「片方だけががまんして都合のよい状態を提供する相手」とか「家族の一員として迎え入れたペット」とか「推し」とかだけになるのかもしれない。この世界において、恋はもう死んでいるのかもしれない。