伝統宗教にも新宗教にも属していないという意味では無宗教だが、だからといって自分に信仰心に類するものがないとは思わない。たとえば和室のある家に入ったら畳の縁は踏まないし、自宅の箸や茶碗はメンバーごとに専用のものを使うという感覚がある。
わたしは、科学的な根拠のない習慣と宗教の区別を、最後の最後でつけることができない。超越者の存在を信じるか否かで区別していたのだけれど、仏教のお坊さんの中には「頭にぶつぶつがある、あの仏さまが実際に存在すると思っているのではない」と断定する人もいたし、他の宗教の聖職者ポジションの人も同様のせりふを言っていた。そうなると生活習慣と宗教の区別が、わたしにはつかないのだった。
そう、慣習やタブーの意識は、わたしにとって宗教に近い。
箸なんか洗ったらきれいになるので、家族のものを使ってもまったく問題はないはずなのだが、試しにやってみようとするとなんともいえない居心地の悪さがある。そういうものを、ここでは広く「信仰」と呼ぶことにする。
若い時分はそういうのはぜんぶとっぱらっちゃえばいいんじゃないかと思っていた。科学的根拠のない習慣のすべてに対して、「その文化圏でうまくやりたければ同調しなければならないが、内面化する必要はない」と思っていたのである。
そのように考え、愛についても検討した。たとえばわたしは対等な一対一の恋愛関係を指向するが、これだって幻想である。べつに三人で恋人同士になったっていいだろう。
しかしわたしは排他的な二人一組の幻想を、どうやら信仰しているのだった。その信仰がたしかであるのか検証するには三人でつきあってみないとわからない、とも思ったが、その機会はなかった。
「対等」にいたってはそれ以上に幻想の度合いが高い。経済的な背景などがないと仮定して、当事者全員の自由意志による隷属の何が悪いかと問われれば、「悪くないです」としか言いようがない。自由意志をもって誰かのセカンドポジション(愛人とか)をやったりハーレムを形成したりするのもその人たちの自由である。「おまえもそうしろ」「一対一? だせえ」などと言われるのでなければ、わたしは黙っていたらいいのである。
三人でつきあってみるのは、相手が見つからないという意味で難しいが、畳の縁なんか踏んでもいいと決めて実行するのは容易で、おそらくすぐ気にならなくなる。
しかしその調子ですべての科学的根拠のない慣習を手放すと、わたしは少しずつ、この世から遊離してしまうのではないか。そんな気がするのである。法律だってそういう慣習をもたらす信仰的な何かを取り入れて作られているのだから、真のノー幻想パーソンになったら、法律を守る動機づけも減るだろう。わたしは、無法者をやれるほど強い人間ではない。
だからわたしは、いくらかの信仰を持っていよう。そして他人の信仰には口を出すまい。
そう思う。
同時に、他人が自分の信仰に積極的に口を出してきたら、戦うことも必要だ、と思う。個人的な「宗教戦争」をやるべき時はあると。
たとえばわたしは「女性は結婚すると幸福になる」という幻想が提示されたら、拷問されてもうんとは言わない。法律婚は任意に締結する民事契約である。幸福とは関係ない。自分が女性とされていることに特段の異議はないが、それだって「そういうことになっているらしいですね」という程度のもので、そもそもそんなに区別する必要もないと思っている。
わたしはそのような信仰を持っており、しかし一方で結婚を「聖なるもの」とする人もたくさんいる。そして彼らの中には、自分の信仰にしたがわない人間にひとこと言わずにはいられない人がけっこういるようなのである。彼らはわたしに「結婚しているのか」と問い、結婚式や新婚旅行の検討すらしなかったことや結婚指輪をつけないことをいぶかしがって、「まあともかく、結婚できてよかったね」と言う。
したくてしたのではない。住宅ローンの都合でやむなくしたのである。わたしは幸福だが、それは結婚とは関係がない。わたしはわたしのパートナーをとても好きで、できることならカネなんか関係ないところでずっと一緒にいたかった。
しかし彼らはそのような言い分を許さない。結婚は幸福でなければならないと、彼らは思っている。「しかたなく結婚した」と言う人間を、とくに女性を、彼らは許さない。そんなのわたしとわたしのパートナー以外に許すも許さないもない、とわたしは思う。
わたしにとって、それはとても大切なことである。だから彼らにうなずかない。「こういう考え方の人間を、いないことにさせない」と思う。