傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

永遠から少し離れて

 かつて希望は永遠だった。だから無根拠に何でもできる気がしていた。絶望すればそれもまた永遠で、だからそれは地獄なのだった。愛は永遠だった。憎しみは永遠だった。

 しかしそんなのはもちろん、永遠ではないのだった。わたしの希望は今や具体の水準まで縮み、わたしの絶望はわたしが寝れば一緒に寝つくほど弱く、愛は「お互いがお互いを思いやってうまいこと暮らしていけるなら、その間は続くかもね、そうじゃないかもわからないけど」という程度の重さしかもたず、憎しみに至ってはときどき夜明けの夢に影を落とす残滓にすぎないのだった。
 それはわたしが年をとったからである。
 若いときにだって、人生が永遠でないことはわかっていた。いつか死ぬのだと思っていたし、それがとても怖かった。同時に「いつか」と今のあいだは、永遠と見まごうほどに長かった。わたしの希望はそこを目指して飛んでいった。小さい点になって見えなくなって、見えなくなってもずっと飛んでいることだけがわかった。だからそれは永遠でしかないのだった。
 今はそうではない。

 若いころに身の裡の何かが永遠のように見えるのは、事実と異なるという意味では愚かだが、主観的にはいいことだと、わたしは思う。永遠のような何かを見なければ抜けることのできないどこかを通り過ぎなければたどり着けない小さな場所が今ここなのだと、そんなふうに思う。
 でもあなたは永遠の愛なんて誓ったことはないじゃない。若かったときにだって。
 彼が言い、わたしはこたえる。ないよ。だって愛は永遠じゃないからね。何を言っているんだろう、そんなの当たり前のことじゃないか。十代のころから知っていたよ。それに、永遠の愛みたいなものを誓わせる連中のやり口が、わたしは昔からすごく嫌いなんだ。だからたとえ愛が永遠に見えるときにだって、そんなことはやらないんだ。わたしのまぼろしの永遠はわたしだけのものだったし、今はもうない。
 そしてそれはいいことだと思っているよ。愛をやりましょう、永遠じゃないほうの愛を。地味で小さくて、てのひらに載せれば重さのあるほうの、あなたの手の中で潰すこともできるような、個別具体的な愛を。

 永遠から離れて、わたしはつまらない有限の生活をやる。あと一万回か一万五千回かの夕食を食べ、そのうちのいくらかを同じ人とともにし、いくらかを別の人とともにし、またいくらかを一人で片づける。春になればシャツを買って百回着て百回洗ってそれから捨て、新しいシャツを買って百回着て百回洗い、それを百回繰りかえす。
 もちろん、それらはもっと少ないかもしれない。でもたいした違いではない。万とか千とか、それくらいの数しか、わたしには残されていない。
 年をとるというのはそういうことである。
 そしてその数の中にはまだ少し、永遠の気配がある。だってそれは一ではないからだ。十でもないからだ。一万回の夕食を、ありありと思い浮かべることができないからだ。
 わたしの想像力がとぼしくてよかった。あるいは頭脳がすぐれていなくてよかった。そんなふうに思う。一万回の夕食のパターンを何通りでも思い浮かべてその味を脳裏で再生することができたなら、さぞかし食欲が失せるだろう。

 わたしは愚かだから、この先の自分が有限であることの実感が、まだ完全でない。まだいくらかは、「いつか」と今のあいだに見えない部分がある。だから永遠が見えなくても、手を伸ばすことはできる。わたしの希望はもう、まっすぐ進んで小さな点になって消えることはないけれど、薄ぼんやりした霧の中に入ることは可能なのだ。
 先のことなんかわからないんだから、とわたしは言う。もう一回仕事を変えるのもいいな。今の仕事なんか、勤務先どころか業界ごとなくなっちゃうかもわからないんだからね。そしたらもう一回進路を考えて、悩みながら勉強したりして、生き延びようと必死に努力して、ねえ、そんなの青春じゃないか。恋もしようかしら。こういう糠くさいのじゃなくって、身も世もない恋に落ちるやつを。そしてなんやかんやあって外国で知らないことばを話して知らないものを食べて知らない人たちにかこまれて暮らすの。いいと思わない?
 いいと思う、と彼は言う。雑な返事である。そして言う。長生きしますよ、あなたは。
 わたしもそう思う。頭の片方で死ぬまでの夕食のカウントダウンをしながら、もう片方で永遠の気配をはらむ霧をながめている。