傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

もうどうでもいいや あるいは老いについて

 疫病が流行しているのでよぶんな外出を控えるようにという通達が出された。それから三年が経過したので、わたしたちの犬も三歳である。夫はずっと飼いたがっていたし、わたしだって犬は大好きなのだが、わたしが誓いを立てていて、それでずっと飼わずにいたのである。

 わたしは七歳のときから犬と暮らしていた。耳が半ば垂れていて、耳と目のまわりが茶色の、ちょっと短足の犬だった。そのころ父の事業の景気がよくて、わたしたちは庭のついた二階建ての家に住んでいた。都心に近い場所のわりに立派な家であったように思う。自家用車があり、夏休みと冬休みには家族旅行に出かけた。わたしは何不自由ない環境で育った子どもで、その環境に疑問を持ったこともなかった。九つのころ、犬の朝のお世話を自分でやると宣言した。わたしはその犬をとてもかわいがっていた。
 わたしが十一歳になった年、父の事業が頓挫した。あれよあれよという間に父の会社は人の手にわたり、自宅も何もかも売り、わたしたち一家は狭いアパートに引っ越すことになった。もちろん犬なんか飼えない。犬は母の友人だった近所の人の家にもわられていった。わたしは号泣して犬に謝った。ごめんね、ごめんね、わたしにお金がないから、わたしが大人じゃないから、わたしが責任を持てないから、わたしが何も知らなかったから。
 それなのに能天気にかわいがって楽しく暮らして、ごめんなさい。
 犬を引き取ってくれた家のお嬢さんはわたしよりいくつか年上で、わたしが小さいころ何度か遊んでくれたお姉さんでもあって、やさしく「いつでも会いに来てね」と言ってくれたけれど、わたしは後ろめたくて、一度会ってまた別れるのがいやで、わたしより引き取り手のお姉さんになついているはずなのがつらくて、犬が寿命をまっとうするまで、一度も顔を見にいけなかった。そしてわたしは心に誓った。わたしは一生、犬を飼わない。

 そんなのもういいじゃん、と夫は言った。最初は結婚したとき、次はわたしがお店を持ったとき(わたしは美容師である)、その次は子どもが小学校を出たときだったと思う。飼っちゃえばいいじゃんと夫は言うのだった。きみはもう無力な子どもじゃないんだから、ちゃんと責任を持てるよ。
 夫は自分が会社勤めでわたしの協力がないとペットを迎えられないものだから、節目節目でわたしをけしかけるのである。
 冗談じゃないとわたしは言った。わたしはわたしの誓いを守ります。あなたが犬を欲しいなら、定年後にでも別室で勝手に飼ってちょうだい。潔癖だなあと夫は言った。大丈夫だよ、きみがお店つぶしたって僕が給料もらってくるよ。美容師さんって食いっぱぐれ率低そうだしさあ。どうとでもなるって。
 いやなの、とわたしはこたえた。そんないい加減な姿勢で生きていたくないの。

 疫病がやってきたあたりで、わたしは唐突に誓いとかがどうでもよくなった。いわゆる退職年齢であるところの六十歳になったからかもしれない。お店を任せられるスタッフが育ってくれたからかもしれない。そのスタッフもいい歳で、ゆくゆくは髪染めと常連さんのカットを中心にのんびりやろう、などと話しているからかもしれない。
 そしてわたしは「犬を飼いましょう」と言った。夫はとても喜び、それから小さい声で尋ねた。ほんとにいいの。あんなにかたくなだったのに。いいの、とわたしはこたえた。なんだか何もかもどうでもよくなっちゃったわ。年のせいかしらね。
 犬のことだけではない。わたしは避けていた食品添加物を「まあいいや」と摂るようになり、子どもには決してさせなかったことも孫には「まあいいや」と見逃すようになり、仕事のための勉強時間も減らし、白髪染めもやめた。もういいじゃない、そんなの。

 わたしが十一歳のときに思った「一生」はたぶん六十歳を過ぎていなかった。わたしにも祖父母がいたし、彼らは長生きしたし、だから七十八十の人間がいることは知っていたのだが、自分がそこまで生きることをありありと想像できなかった。
 わたしはジャックラッセルテリアを飼った。年寄り向けの犬ではない。運動量がすごいし、気質もやや難しい。しかしわたしはあのとき別れた犬とよく似た外見の犬を選んだ。名前もその犬のをつけたらいい、と夫は言った。わたしはきっと夫をにらんだ。そんなことしない。あの犬はあの犬、この犬はこの犬です。生き物を別の生き物の代わりにするなんて絶対に良くないことよ。
 相変わらず潔癖だなあ、と夫は言った。そんなこと全然ないのに。