傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

乞食の顔をしている

人からよくものをもらうたちである。 若いころはもらうに相応の理由があった。貧しく、かつ身よりがなかったのである。そういう人間が知り合いにいて、たとえばまだ使える冷蔵庫があるけれど新しい冷蔵庫が欲くなったとき、「あの人にあげようかしら」と思う…

永遠から少し離れて

かつて希望は永遠だった。だから無根拠に何でもできる気がしていた。絶望すればそれもまた永遠で、だからそれは地獄なのだった。愛は永遠だった。憎しみは永遠だった。 しかしそんなのはもちろん、永遠ではないのだった。わたしの希望は今や具体の水準まで縮…

そういう係

今年は給料を上げることができたのでちょっと安心している。 わたしは勤め人だが、「給料が上がった」とは言わない。報酬は職位や役職を得ることによって、あるいは労働組合を経由しての交渉によって「上げる」ものである(わたしの職場には労組があり、わた…

キックボードの子ども

犬を飼っているので、近所の小学生に何人か顔見知りがいる。犬を飼っている家の子どもが何人かと、その友だちである。子どもたちは犬をわしゃわしゃ撫で、ボールを投げてやるなどし、ぱっと子ども同士の遊びに戻る。 そんなだから、知っている子どもの後ろに…

推しと遠い日の花火

地元のお祭りであの人に会ったのだと、友人が言う。 この友人の言う「あの人」は一人だけである。友人と中学三年生のとき同じクラスだった、えっと、なんて言ったかな。仮に山田くんとしよう。なんで仮名かっていうとですね、友人がめったにその人の名前を口…

誰も殴らない兵隊さん

父親の墓参りに行く。 東京から新幹線と在来線を乗り継ぐ。慣れた道をたどり、墓掃除をする。まだ寒いが、実家の雪おろしがないだけ気楽なものだ。母親は父親の一周忌を終えて以降、近隣の施設で暮らしている。母親は高齢でいろいろなことを忘れているが、墓…

忘れていても世界は

子どもがひっくり返って泣きながら暴れている。理由は箸が転がったからである。どぉおおぉしてええええええ。どおおおおしぃてえーーーー! 箸が転がるのは、この家が地球にあり、地球には重力があり、箸が置かれた場所には傾斜があり、それに対して摩擦係数…

眠るために生きている、あるいは「自己肯定感」が要らない人間

よく眠れたら気分が良い。しかし、少々の睡眠不足もそう悪いものではない。「今日の寝つきはさぞ良いだろう」と思えるからである。 レストランでコースを食べてデザートにコーヒーを合わせるのは特別なときだけである。夜に、しかもアルコールとちゃんぽんで…

母数が大きいところ

転職して半年が経った。転職先の環境はきわめて快適である。 新しい勤務先はフルリモートワークOKで、最初の一年は制限があるとか、そういうのを想像していたのだけれど、「いえ研修二日間やってもらったら三日目からは好きにしていただいていいのです」との…

かわいいと言ってくれてもかまわない

かわいいと言われたくなかった。正確には、大半の人に言われたくなかった。 なぜ言われたくないのかと問われたら、むしろ「なぜ言われて嬉しいと思うのか」と問い返したかった。守るべき子どもではない成人に対して別の属性の人間が「かわいい」と言うとき、…

いいよいいよ、溜め込んでな

五十の坂が見えるとにわかにホットになる話題が「親の家の片づけ」である。 友人が言う。うちの親もね、わたしがちょいちょい顔出してやいやい言ってるし、近所の友だちに対する見栄もあるから、一階はきれいにしてる。でもさあ、なにしろ田舎の立派な一軒家…

女のいない男にしない女

疫病が流行していわゆる行動制限が課されているあいだ、重要でない人間は放っておいた。たとえばテンポラリな色恋の相手である。 わたしは経済や生活の上で自立していて、色恋は娯楽である。自分で働いて買った自分の基地であるような自宅に、わたしは男を呼…

わたしの老いたbot

昨年のことである。会話式のAIがたいへんな話題になり、わたしも試した。こんなに話題になるのだから、きっとかしこくて今ふうに気が利いて、とっても素敵なのにちがいない。そう、わたしの老いた話し相手よりも、ずっと。 二十年前、将来の自分の話し相手に…

どうか俺を推さないでくれ

好きじゃないんだよ、推しなんだよ。 つまりさ、その人たちは俺に「つきあってください」とか言わない。仮に他の誰かに「つきあいたいんですか」って訊かれたら「そういうんじゃなくて、推しなんです」って言う。実際あの人たちはそうなんだと思う。 俺は思…

わたしたちの些末な運命の謎

年末年始に質問箱をあけたの。このところ毎年やってるんだ、ふだんは書くだけ書いてしゃべらないからさあ。たまにしゃべると楽しいの。 質問箱とは言うけど、投稿者が匿名で自分の話をしに来る場所なんだ。わたしの話なんかしてもしょうがないじゃん、いつも…

法律婚とわたし

法律婚はしないと宣言して生きてきた。 わたしは生き延びることの次に己が思想信条を優先するという基本方針を持っている。なんとなれば自分の思想に悖る振る舞いをすると気持ち悪くてQOLが下がるからである。そして、現代日本の婚姻制度はわたしの思想に合…

暇なやつ、それから悪いことしないやつ

わたしがどのような人間か説明するとしたら、そのひとつに「暇そうで悪いことはしなさそう」という項目を入れる。 わたしはものすごい方向音痴である。それなのに道を訊かれる。外国でも訊かれる。電車の乗り方を訊かれる。それからちょっとした頼まれごとを…

彼のスタイル

わたしが彼氏と出会ったのはインターネットのオフ会だった。十年前にはそういうのがあったのだ。映画好きのオフ会である。いわゆるシネフィルの集まりで、面倒くさい人間ばかりが来ているのだろうなと思って(わたしもそうだ)、面倒くさい人間同士で楽しく…

年末年始バー願望

就職した次の年から、年末年始はだいたい海外にいた。 わたしは高給取りでもお金持ちの子でもない。基本的に倹約家で、旅行にばんばんカネを使うのである。年末年始の旅費は高額で、だから旅行好きの中には「正月に旅行するものではない」と言う人も少なくな…

世が世ならスターだったような人

直属の上司に関して、人事からの聞き取り調査が入った。要は「あなたの上司、パワハラやってませんか」という話である。 この部署では、二年前にメンバーがひとり、次の転職先なしに辞めている。それから一人が見るからにまいってしまって休職した。その後つ…

そうそう、戸籍の附票とかあれこれロックしたのよ

わたしには長年のストーカーがいるじゃない? 生物学上戸籍上の母親ね。そう、わたしが断絶を宣言して、賃貸の緊急連絡先から何からぜんぶ赤の他人にして行方をくらまして、そしたら母親が戸籍の附票とりまくって引っ越したら秒で手紙出したりマンションの前…

わたしの愚かなきょうだい

姉が来た。 姉の住処はさほど遠くないから、わりとしょっちゅう実家に戻ってくる。姉が来ると高齢の祖母の介助をいくらか任せられるから、わたしも両親もやや助かる。祖母は施設に入ることが決まっているから、家にいる間にたくさん顔を見せてほしいし。 玄…

典型に回収される

あの子ね、もうわたしたちの話、通じないよ グループLINEから抜けた同級生について、一人がこのように投稿した。それは時たま思い出したように動くだけの、やけに多くの同級生が加わっているグループで、だから誰かが「退室した○○って、誰のこと?」と投稿す…

愛せなくなったらどうしよう

わたしにはペットの同期がいる。 近所にはたくさんの犬友がいるが、そういう人や犬のことではない。彼らは犬好きで犬を飼っていて、犬を通して人づきあいできる程度には社交的であり、彼らとわたしが共有する感情は「犬かわいい」である。 わたしが同期と呼…

恋愛より特別なこと

わたしが一緒に住んでいる女は恋人ではない。 妻でもない。妻であればラクだとは思う。お互いのオフィシャルな緊急連絡先になって、どちらかが入院したらもう片方も病室に入れて、先に死んだほうの遺産が残ったほうに自動で行く。いいなあ、めちゃくちゃラク…

石を投げられたくないだろ?

親戚は怖いなあ。僕がそう言うと、彼氏はのんきに、みんないい人だよ、と言う。 僕らは先日、マンションの共同購入を決めたところである。このところの東京の地価高騰は異常で、たぶんバブルで、買っても長く持っていたら得はしないだろうけど、それでも賃貸…

わたしの中のかわいい女

このところわたしばかりが仕事を休んでいる。 幼児は熱を出すものだ。ここ半年は誇張でなく隔週ペースである。そうなると親が仕事を休まざるをえない。そしてこのところそれを担当するのがわたしばかりなのである。 結婚話が出たときに、わたしは夫と家事子…

わたしのすべての変数

わたしは将棋を好む。 自分でも指すが、それはたいして好きではない。スポーツ以上読書未満の、やれと言われたらやれて、嫌いでもなく、素人としては楽しめる程度に素養がある、というほどのものである。祖父の趣味で、親はやらないが従弟のひとりが真剣に取…

何者かになる あるいは夢について

中学生の娘の進路相談の件を職場の後輩に話すと、彼女はがははと笑って、先輩はいい親やってると思いますよ、と言った。 ありがとう、でもわたしみたいな夢のない人間だけでは参考にならないし、夫も似たようなものだから、夢がある進路を選んだ大人の話も参…

何者?

娘が進路について考えているという。 時の経つのは早いものである。小さいころはよく病気をして、おっとりしているものだからいじめられたこともあって、そりゃあ大変だった。その時分には、いや、もしかしたら昨日まで、永遠に子育てに走り回っているものだ…