傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

推しと遠い日の花火

 地元のお祭りであの人に会ったのだと、友人が言う。
 この友人の言う「あの人」は一人だけである。友人と中学三年生のとき同じクラスだった、えっと、なんて言ったかな。仮に山田くんとしよう。なんで仮名かっていうとですね、友人がめったにその人の名前を口にしないからなんだよ。いつも「あの人」って言う。だから山田くん(仮)。
 友人が山田くん(仮)の話をするのは三年ぶりである。忘れたころに話題に出てくる。山田くん(仮)と友人はつきあったことはなく、ほどよい距離感の元クラスメイトで、大学生のときに何かきっかけがあって何度か二人で出かけたのだそうだ。
 それだけなのだそうである。
 それだけの相手だが、友人の熱の入れようはそりゃあたいしたものだ。あの人はこの世でいちばんかっこいい、と言う。写真を見せてもらったら、たしかに整った顔立ちではあるものの、普通と言える範囲だった。SNSに掲載されている最新の写真を見せてもらったが、こちらも「いい感じに中年期を過ごしている、普通の人」である。
 山田くん(仮)は進学で東京に出て、就職のために故郷に戻り、しかしその就職先の会社が倒産し、今では故郷の隣県の本屋さんに勤めているのだそうである。すてきよね、昔から読書家なの。友人はうっとりと言った。瞳孔が開いていた。
 そんなに特異な経歴だろうか。普通の範疇じゃないだろうか。
 そう思う。でも言えない。だってあまりに様子がおかしい。
 そう、この友人はふだん冷静なタイプで、若い頃の色恋沙汰でも、年を重ねてからの家庭の話でも、あるいは職業生活で突発的な幸運や不運に遭ったときにも、常に地に足の着いた話し方をする人間なのである。それが山田くん(仮)の話をするときにだけ、目がこの世を見ていない。別の場所を見ている。どう見ても様子がおかしい。
 ではこの友人が結婚相手と別れて山田くん(仮)と一緒になりたいのかといえば、別にそうではないのだそうだ。だって、と友人は言う。セックスしたら誰だって変な顔になったりするじゃん。結婚なんかしたらわたしノーブラ部屋着でうろうろするし。そんなのぜったいにいや。
 何がどう嫌なのかは、友人が顔をおおって「ない」「実際的にも起こりえないことで、起こしたいとも思わない、それはとても良いことだ」などと言うので聞きそびれた。

 わたしは仮説を立てた。「山田くん(仮)はいわゆる推しなのではないか」というものである。
 しかしその仮説は不完全である。ここ数年のブームもあって、推しの話をする友人知人は幾人もあるが、彼女たちは山田くん(仮)の話をする友人のようにはならない。推しへの感情を尋ねれば、「パフォーマンスが大好き」とか「成長を見守りたい」とか「そりゃあ、できることならつきあいたい、無理だけど、きゃっ」とか「ファンが求める完璧なところだけ見せてほしい、そうでないところは見せてほしくない」とか、そんなふうにこたえる。これらはいずれもわたしの理解するところの推しへの感情の範疇である。
 わたしには推しがいないから実感としてはわからないけど、そういう対象を楽しむ心情があることは了解している。彼女たちはそれなりにはしゃぐし、ほどほどにテンションが上がるんだけど、好きなんだからそりゃテンションも上がるでしょう。
 そういうのじゃないのだ、山田くん(仮)トークは。なんか話してる人が別人みたいになるんだよ。推し活トークをしている他の人とはぜんぜんちがうんだ。

 わたしがそのように話すと、推しのいる知人のひとりが言う。それはね、年をとってからの推し活はだいたい穏やかなものだからです。わたしたちにはもうそんなにエネルギーが残されていないのです。もうね、中間管理職だし、子どもが受験生だし、焼き肉屋でカルビを注文しない。とんかつ屋とかも行かない。もっとカサカサしたもんを食う。そのようなわたしたちにとって、推しは遠い日の花火なのです。目を細めて眺めるものなのです。
 でも若いころに出会った推しならそうではないこともある。あるいは、精神のある部分がものすごく若い人もいる。そこにハマる推しがいると、推し活はぜんぜん穏やかではなくなります。
 山田くん(仮)トークをする人にとって、山田くん(仮)はきっと、たましいの若い部分の永遠の象徴なんですよ。だから中年の推し語りの様子とは違うんだと思います。生々しさや現実的に対等であることから逃れているからこそ美しい、人生の短いひとときを結晶にして閉じこめたような相手なんですよ。それが推しであることもあれば、そうじゃないこともあるんじゃないでしょうか。