傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

わたしの中のかわいい女

 このところわたしばかりが仕事を休んでいる。
 幼児は熱を出すものだ。ここ半年は誇張でなく隔週ペースである。そうなると親が仕事を休まざるをえない。そしてこのところそれを担当するのがわたしばかりなのである。
 結婚話が出たときに、わたしは夫と家事子育ての話をした。夫はもともと自分のことは全部自分でする。しかしわたしは、フルタイムで働く女たちの夫が家事育児をせず、その結果、けんかしたり(意外と少ない)、我慢したあげくにキレたり(けっこういる)、女友達に愚痴を言いながらなぜか家事は引き続き全部していたり(これが多数派)するのを、さんざっぱら見てきたのである。
 わたしはそんなのはぜったいにいやだった。「夫を育てる」みたいなのも冗談じゃなかった。わたしは「夫」がほしかったことなど一度もなかった。一緒に楽しく暮らすための努力を二人ともができる、そういう相手がいたから、はじめて結婚のオファーを検討したのだ。
 夫は「じゃあ試してみよう」と言い、しばらくはただ一緒に暮らして、わたしがOKと言ってから、「では」と区役所の紙を持ってきた。いい男、とわたしは思った。

 夫は子育てにおいても非常にパワフルである。「妊娠出産はきみがしたから」という理由で、赤子の世話の主担当をやってのけた。互いの産休育休あけからは家事育児の負担は半々でやっているが、彼は育児に関してわたしより適性がある。
 わたしがそのように褒めると、夫はドヤ顔して言ったものである。きみは真剣に子どもと向き合っていて素晴らしい。子を常にひとりの人間として扱っている。でも幼児というのはそういうものではない。はしゃいでいるときの三歳児は生後半年の柴犬だと思いたまえ。僕は知っているんだ、年の離れた弟がいるから。
 年の離れた弟妹のいる人間のすべてがそんなではないと思うが、とにかく彼はそのような人間である。

 しかし誰にでも仕事の波はある。夫にもある。夫は今年にわかに忙しくなり、本人もそれを良しとし、キャリアアップの正念場と考えている。そこでわたしは、わたしが育児の八割を引き受けることを提案した。幸いわたしは比較的裁量が大きい仕事をしている。
 しかしながら、幼児は融通が利く日にばかり熱を出してくれるのではない。なまじそれまで分担できていたものだから、「今日だけはだんなさんにお願いできない?」と上司に訊かれたりもする。
 一時的な育児八割負担はOKだが、キャリア全面犠牲はNGである。わたしは腹をくくって夫に話をすることにした。
 わたしはダイニングのホワイトボードに概略を書いて説明する。夫は話が終わるまで黙って聞く。疲れて帰ってきたのにかわいそうだな、と思う。そしてそれをぐっと飲みこみ、ぜんぶ話す。
 なるほどそれはキャリアダメージが大きすぎる、と夫は言う。しかし僕はあと半年は身動きが取れない。その後はだいぶましにできる。約束する。小一の壁の前にフルリモートを実現して夜にも作業するつもりでいる。だから今だけお願いできないだろうか。買い出しは僕がぜんぶやるし、毎晩おかずを作り置きしておくから。
 わたしは涙腺を引き締める。それから言う。うん、わたし、上司に交渉する。

 わあ、さいてー。何様?
 わたしの中のかわいい女が言う。甲高いかわいい声で言う。
 なんでそういうこと言うの? なんでそういう言い方するの? ありえない。百歩譲って、せめてやさしく言わなきゃ。まずは感謝しなきゃ。愛想尽かされないのが奇跡。明日にでも出てっちゃうかもね。男は今くらいの年齢からモテるんだから。忙しい彼を支えられない妻なんて、愛されないどころか、捨てられちゃうよ?

 わたしはその女を仕舞う。かわいくていつもきれいにしていて笑顔で気が利いて甘え上手な愛され妻を仕舞う。
 それからはじめて、その女のことを夫に言う気になる。わたしの中にこういう女がいて、いちいち文句を言うんだよ。今日はめちゃくちゃ言われたわ。
 夫は非常に驚く。そして言う。きみの中にもそんなのがいるの?
 わたしはほほえむ。夫はわたしを、「愛される女像」なんか歯牙にもかけない女だと思っている。その種の固定観念から自由な人間だと買いかぶって一緒に暮らしている。

 そんなわけないじゃないか。
こんな世の中に女の戸籍で女のなりして産まれて育って、そんなわけないじゃないか。わたしの中にだってインストールされた「女像」があるに決まってるじゃないか。わたしはただそいつがものすごく嫌いで、そいつにでかい顔させたくないだけだ。
 そうかあ、と夫は言う。好きだよ、とわたしは言う。好きだよ、と夫は言う。