傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

キックボードの子ども

 犬を飼っているので、近所の小学生に何人か顔見知りがいる。犬を飼っている家の子どもが何人かと、その友だちである。子どもたちは犬をわしゃわしゃ撫で、ボールを投げてやるなどし、ぱっと子ども同士の遊びに戻る。
 そんなだから、知っている子どもの後ろに知らない子どもがいて、犬を撫でる列に加わっても、とくに変には思わない。
 その子はそのようにして何度か子どもの集団の後ろのほうにいたのだと思う。小学校三年生くらいの女の子で、髪がとても長く、いつも薄むらさきのキックボードを使っていた。
 あるとき、その子どもが単独でわたしの犬の名を呼んで駆けよってきた。わたしは強い違和感をおぼえ、きびすを返した。すると子どもは無視して去るわたしについてきた。
 わたしははっきりと「ついてこないでください」と言った。するとその子どもはきれいにわたしのことばを無視し、「目の前にはなにもありません」という顔で、そばにあった水飲み場にからだを向け、蛇口をひねった。わたしは急いで公園をあとにした。
 その子どものようすはもとより他の子どもとは違っていた。かわいいかわいいと騒ぐものの、犬に興味があるようには見えなかったのだ。それから、何というか、話しかたがベタっとしていた。敬語を使わないのは、小学校中学年ならそんなものだろうとは思うのだが、幼児的な甘えた感じで、しかも相手が話を途切れさせにくいような、妙なねばつきのある話し方をした。
 そしておそらく、集団で犬に群がる顔見知りの子どもたちの誰の友だちでもないのだった。

 わたしはその子どもと遭遇する公園を散歩コースから外した。大人にも子どもにも、距離感がおかしい人はいる。その気配があったら、相手が自分に声をかけられる圏内に入らないことである。
 ある日、ふだんは行かない公園で、犬のふんの始末をしていた。うなじと背中を何かがかすめ、わたしは反射的にそれをよけた。そうしてとっさに犬を抱えて振り返り、警戒音のような声を発した。
 そこにはあの子どもがいた。とてもとても近いところにいた。黙ってわたしの背後から近づき、しゃがんでいるわたしの背中に手を伸ばしたのだ。
 わたしは大きな声を出しそうになり、ぐっと飲み込んだ。それから言った。触らないでください。近づかないでください。
 子どもはまた、あの独特の無視をした。わたしは急いでその場を去った。

 ああ、あの子ねえ。
 犬友だちが言う。うちね、週末はだいたいA公園に行くのね、そうそう、犬が集まる時間帯があって、あのキックボードの子、そこに来るようになったの。最初は誰かの親戚かと思ってた。「おやつあげたくなっちゃったあ」って言うから、誰かが犬のおやつをわけてあげてたこともあったと思う。
 でも確認したら誰の親戚でも知り合いでもなかったし、おやつをあげるふりをして引っ込めて犬をからかったりするのよ。注意すると、すーっと別の人のところに行くの。おかしいでしょう。だからみんなだんだん無視するようになったのね。
 でね、A公園て、たまにイベントやってるでしょ。屋台やキッチンカーが出たりして。そのときに、犬連れの大人の間に立って、大きい声で言うの。あっちのお店、行きたくなっちゃったあ、って。
 連れて行ってくれと言われたら、図々しい子どもだなとは思うけど、それより、その、なんだか持って回った、でもやけに強い圧のある言い方が、ちょっとこう、びっくりしちゃう感じでさ。
 誰のどういうツテかわかんないけど、まあ近所のことだから、どうにかして保護者を特定して、つきまといをやめてほしいって、申し入れしたみたいよ。
 そしたらその子、今度は一人で犬の散歩してる人を見つけては寄って行くようになったの。うちもねえ、見かけると逃げるんだけど、一回キックボードで追いかけ回されて、びっくりしちゃった。なんだか気の毒ではあるんだけどねえ。

 あの子どもは、何らかの問題を抱えていて、おそらく支援を必要としているのだと思う。思うが、わたしももう嫌悪感が先立ってしまって、「どうにかして保護者を特定した」人を探す気力が、どうにも湧いてこないのだった。
 どうにかして誰かの注意を引こうとする。「○○したくなっちゃったあ」と言って要求を通そうとし、都合の悪いことを言われると相手が存在しないかのように振る舞う。そういう種類のコミュニケーションを学習した子どもをどうすればいいのか考えるエネルギーが湧いてこない。知らない大人にべたべたとまとわりつくことの危険性も。