傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

愛せなくなったらどうしよう

 わたしにはペットの同期がいる。
 近所にはたくさんの犬友がいるが、そういう人や犬のことではない。彼らは犬好きで犬を飼っていて、犬を通して人づきあいできる程度には社交的であり、彼らとわたしが共有する感情は「犬かわいい」である。
 わたしが同期と呼ぶのは彼らではない。「かわいいと思えなくなったらどうしよう」という不安を共有した人である。

 四年ほど前、わたしは犬を、友人は鳥を飼う計画を立てていた。わたしもこの友人もペットに関しては非常に慎重であって、ずっと飼いたくはあったけれど、条件が整うまでがまんしていた。年を重ねて経済的に安定し、マンションを購入し、出張もあまりしなくてよくなり、長く家を空けなくて済むように勤務態勢をととのえ、旅行も気が済むまでして、ペットについての勉強もした。
 一般的には「満を持して」である。
 それでもわたしは不安だった。この不安をわかってくれそうな人はいないかとあたりを見渡して、そうして、鳥を飼う予定の友人に本を貸した。『不時着する流星たち』という短編集である。この中に文鳥の話があるんだ、とわたしは言った。友人はその本を読んだ。

 それはこんな話である。
 老夫婦が文鳥を飼う。文鳥はかわいらしい仕草で夫婦にほほえみをもたらす。夫婦は競って文鳥を可愛がる。
 文鳥は早朝からさえずる。やがて夫婦はそのさえずりを「うるさい」と思う。そのしぐさにも飽きてくる。
 文鳥は鳥籠に布をかけると静かになる。夫婦はなにかというと鳥籠に布をかけるようになる。そして、

 怖い、と友人は言った。めちゃくちゃ怖い。
 読んでくれてありがとう、とわたしは言った。これから鳥を飼う人に対するおよそ最悪なセレクトだ。それはわかっている。あの作家には『ことり』という、鳥と心を通わせる主人公の素晴らしい長編があるんだけど、そっちじゃなくてこっちの怖い短編を読んでほしかったの。なんでかっていうと、わたし、この短編の夫婦みたいになったらどうしようって思ってるから。
 そう、わたしは自分の飽きが怖かったのである。
 自分の感情の永続性のなさはよくわかっている。世界一愛していると思っていた人が数年後にたいした存在でなくなったこともある。ましてペットなら、どういう気質の個体に育つかわからずに飼うのだ。気が合わなかったり、病気がちであまりに手間がかかってうんざりしてしまうかもしれない。老年期には介護だって必要になる。
 ペットを飼うということは、相手を愛せなくなっても死ぬまで一緒にいる、その可能性を引き受けることだ。成人とつきあうよりずっと大変なことだと、わたしなんかは思う。だって人間の大人は、飽きたら一方的に関係を断ち切ることができるし、逆に相手がわたしに飽きていなくなっても、わたしは生きていけて、他の人と友愛なり恋愛なりをやることができる。
 わたしも友人も、一度飼ったペットに無責任なことはしないだろう。最後まできっちり世話をするだろう。でも生き物は生きるための環境だけでなく、誰かの感情を必要とする。群れをなし、あるいはつがいを作って同族と交流して暮らすはずの生き物を、自分が可愛がりたいという理由で群れから引き離して自分の家族にする。ペットを飼うというのはそういうおこないでもある。そんなことをしておいて、飼った生き物がかわいくなくなってしまったら、わたしはどうしたらいいのだろう。

 わかるよ、と友人は言う。これはとても怖い話だよ。自分の感情なんかあてにできない。明日変わるかもしれないんだもの。
 でも飼う、とわたしは言う。でも飼う、と友人も言う。

 それから四年が過ぎた。わたしたちのスマートフォンの待ち受けは相変わらずペットである。すごいねえ、と友人は言う。わたしの鳥は毎日かわいくて、すごいねえ。わたしも言う。わたしの犬も毎日かわいい。甘やかしたくて毎日二時間散歩してる。

 めでたし、めでたし?
 いや、まだわからない。わたしたちのペットが死ぬまで、わたしたちはわたしたちの愛の永続性を疑いつづける。でも絶対死んでほしくない。ずっと元気でいてほしい。
 わたしは言う。わたしの犬に言う。どうしてこのような素晴らしい動物がこのおうちにいるのかしら? ーーうん、ブリーダーさんのところに行って買ってきたからだねえ。どうしてこんなにかわいいのかしら? ーーなるほど、生まれつき。そうかい、それはすごいねえ。
 犬はため息をつく。毎日そう言われているから、たぶんもう飽きている。