傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

法律婚とわたし

 法律婚はしないと宣言して生きてきた。
 わたしは生き延びることの次に己が思想信条を優先するという基本方針を持っている。なんとなれば自分の思想に悖る振る舞いをすると気持ち悪くてQOLが下がるからである。そして、現代日本の婚姻制度はわたしの思想に合わない。問題が多すぎる。付随する慣習やイメージも嫌いだ。だからやらない。
 二十代終盤以降、彼氏的な人ができるたびにそのように宣告してきた。彼らはいったんそれを了承し、しかしいずれは去るのだった。愛が足りない、とわたしは思った。結婚とわたしとどっちが大事なのさ。
 いや結婚のほうが大事なんだろうけど。わかってらい、そんなこと。

 四十代になってやけに年下の、やたらと気の合う彼氏ができ、それまでは半同棲しかしなかったわたしがはじめて一緒に暮らしたいと思った。すると彼は結婚願望を表出しはじめたのだが、その手法は期限をつけて見限るというものではなかった。「自分と結婚するとこのようなことが可能になる」「自分の親族はこのような人々であり、嫁役割を振られる可能性はない」などと、徐々に包囲網を絞るやり方だったのである。
 そうして、わたしも年をとった。ずっと一緒にいたい人がいなくなるのはいやだなと思った。それに、彼氏はたぶん知らないだろうけど、何年も二人で生活しているのだから、彼氏にはすでに「内縁の夫」としての権利が発生している。訴えられたら負けるのはこちらである。
 それで彼氏に尋ねた。最低限の問題を片づける契約書を条件に法律婚を了承しようと思うんだけど、どう。

 彼氏はのんきに、契約書ね、と言った。いいよお。なに書くの?
 わたしは、法律婚すると財産がどうなるかは知っているよね、と尋ねた。彼氏はこたえた。今までどおり割り勘で生活して、二人のための貯金を一緒にすればいいんじゃないの。きみの稼ぎはきみのものだよ、もちろん。
 わたしは絶句した。法律婚という強烈な民事契約をオファーしておきながらその内容を知らないとは。民法読んでからしなさいよそういう提案は。
 わたしは説明した。婚姻期間の稼ぎは二人分を足して二で割ったものが双方の権利になること。日本の給与のピークは四十代から五十代であり、わたしたちの年の差は十六歳であること。すなわち彼氏が貯蓄せず給与のピーク到達時に離婚すれば、わたしがせっせと貯めた老後の資金の半分を持っていく権利が発生すること。
 うひゃーと彼氏は言った。なんてこった。
 わたしは疲れ切ってこたえた。だからさ、婚姻期間に使うだけ使って相手に貯めさせて離婚するのがいちばんトクなのよ。わたしとあなたでどんな契約をしても民法のほうが強いから、究極的にはあなたがわたしの老後の資金を半分むしって離婚することはできるよ。でも契約書を作っておけば、裁判して取るほどの金額じゃないから、落とし所としてはいいかなと。ついでにわたしのほうが長く働いていてため込んでるから婚前資産も明記しておかないと、もっと取れる可能性が出てくるのよ。だからそういうのを契約書に書いておきたいわけよ。

 もちろん、彼氏がわたしの老後の資金をむしって離婚するために法律婚したがっているとは思わない(そんな時間と手間に見合う収入はない)。でもそれが可能な状況に身を置くだけで相当な負担である。まずはそのことをわかってほしかった。
 わたしたちはそれから契約書の内容を作り、弁護士に依頼して整え、公証役場で確定日付をもらった。
 弁護士は手慣れたようすで、昨今はこうした契約書を作る方もちらほらいるんですよと言った。それも極端な高収入の方ではなく、しっかり働いている女性からの依頼が多いです。男性は資産家や経営者しか経験がないですねえ。
 いまだに男性のほうがずっと稼ぎが多い国なのに。大丈夫か高収入男性。それとも、女性に家事育児ぜんぶやってもらうからOKとか、そういう感じなのかしら。はー、合わないわねえ、つくづく。

 そのように苦労して法律婚の手続きを済ませ、いちおう直属の上司に報告すると、上司はシンバルをたたくお猿のおもちゃみたいな表情と仕草をして笑った。フキダシをつけるなら「ウケる」である。職場の皆はわたしの考えで籍を入れていなかったことを知っている。
 いいじゃない一緒に生活してるんだから籍くらい、ねえ。上司は愉快そうに言った。わたしにとっては重大なことなのに、「ちょっとしたケチ」みたいな感じで言わないでほしい。
 わたしがむっとしていると、上司はまたシンバルをたたくお猿のポーズをした。わたしもちょっと笑った。まあ、大げさに扱われるよりはずっといいや。