傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

忘れていても世界は

 子どもがひっくり返って泣きながら暴れている。理由は箸が転がったからである。どぉおおぉしてええええええ。どおおおおしぃてえーーーー!
 箸が転がるのは、この家が地球にあり、地球には重力があり、箸が置かれた場所には傾斜があり、それに対して摩擦係数が不足していたからである。念のため子どもがわかりそうなことばを選んでそのようにこたえたのだが、子どもにとって意味がないだろうことはわたしにもわかっていた。子どもはこの世に重力のあることがそもそも納得いかないのである。あるいは皿のふちに傾斜のあることが。もしくは皿の上を何かが滑ることが。そのような、この世の法則のすべてが。

 もっともなことである。だってそんなのはみんな自分のあずかり知らぬところで勝手にできた法則なのだし、そのような法則がどれだけ大量にあるかも、子どもは(ほんとうのところはわたしも)知らないからだ。これが理不尽かつ強烈な不安でなくて何だというのか。たとえば明日「今日から重力はありません」ということになったらわたしだって床にひっくりかえって大暴れする。最初に重力とやらを飲み込んだときも、かなり不承不承だった。不本意ながらしょうことなしに飲み込んだように記憶している。ぜんぜん納得できなかった。ほんとうは今でも納得しているのではないのかもしれなかった。
 「そういうものだ」ということばはすべて役に立たない。なぜそういうものなのかがわからないからだ。
 今でもわからない。
 わからないことを便宜的に忘れて、適応のために忘れつづけて、何もかもわかったふりの大人の顔して、あまつさえ子どもをこさえて「そういうものだから」と言う。奇妙なことである。世界は、わたしが忘れているあいだも、いつもこんなにも理不尽で不可解で、そのことをはっと思い出すだけで遠い遠い宇宙の果てに飛ばされるような気のするものなのに。

 子どもがもう少し大きくなったら、自然法則、すなわち「そういうものだと解釈されていて、基本的に変更がきかないもの」と、社会の慣習、すなわち「そういうものだとされているが、場所によって異なり、人々の働きかけによって変えることが可能なもの」を峻別させるために、話し方に気をつけなくては、と思う。わたしの親は悪くない親だったし、感謝もしているが、そのあたりは雑だった。学校教育と読書で区別がつくようにはなったが、自分がつくった家庭内でごっちゃにしたくはない。
 そのように思いながら、保育園行く、と言う。子どもは幸い保育園を好きである。行く、と言う。疲れるまで暴れて声がかれている。わたしが子どもに語りかけているあいだに床の上の皿と食べ物を片づけた夫が濡らしたハンドタオルを持ってきて子どもの顔を拭く。はい、おはな、びー、と言う。
 夫は子どもが泣きわめいてもとくに気分を害さない。わたしは「わかるわあ」と思って共感しながら「しかし食べ物を投げるのはよくない。やめなさい」などと語っているのだが、夫はそうではない。子どもを「マジ何考えてるかわかんない生き物」と言う。子どもが先ほどのように大泣きしているときは、「そうだなー、思いどおりにならないなー。腹立たしいなー。うん、そのとおりだ。よーし、泣け泣け。泣いて立派な大人になれ」と思っているのだそうである。どのあたりが「そのとおり」なのかと尋ねれば「そんなのぜんぜんわかんない。適当に言ってる。あと、片づけめんどくせえなと思ってる」と言う。
 そういえばこの人は実家の犬が(散歩もフードも足りているのに)不満顔してうにゃうにゃ鳴いていたときにも「おう、本当にお前の言うとおりだ。なるほど実にもっともだ。犬さんはまこと慧眼ですなあ」などと言っていた。雑な男なのである。

 夫には、わたしの世界に対する感覚はわかるまい。子どもだって、きっとわたしと同じ感覚ではない。もし子どもが考えていることを言語化する能力があったとしたら、わたしが推測して共感している内容はまったくの見当違いだろうと思う。
 夫は子どもを保育園に連れて行く支度をしている。わたしは出勤する。わたしが早出で子どものお迎え係、夫が送りの係、リモートと組み合わせてどうにかやっている。歩道を歩く。駅に近づくにつれて人が増える。人ごみ用の速度調整をしながら地下鉄の階段を下る。自動改札機にスマートフォンをかざす。ホームに立つ。仕事のメールを返す。わたしの一部はまだ、わたし以外誰もいない宇宙の果てに向かって飛ばされていて、何ひとつ納得していない。