傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

友だちがいない

自宅で映画を観る。 映画のディスクは来客が持ってきたものである。この人は昔からとにかく映画が好きで、ときどき気分転換をするために、わたしがひとりで過ごす夜をねらってやってくるのである。映画は国籍も主題もばらばらだが、とにかく孤独な人が出てく…

他人のプロレスを笑うな

A助教はわたしたちが学部三年生から四年のあいだ、実習室の主をやっていた。 そのころわたしたちの大学の大学院生が急激に増え、院試をだいぶ厳しくしても院生室の机が足りなくなったのだという。それで通常は院生室にスペースをもらっている任期つき助教の…

旅麻薬とわたし

遅い夏休みが取れたので外国でぼんやりすることにした。 これは文字通り何もしないで知らないところで薄ぼんやりする遊びである。旅行は旅行なのだが、リゾートでも観光でもないので、わたしは「外国でぼんやりするやつをやってくる」と言って出かける。 旅…

暫定彼氏の不適切な逆襲

うん、ちょっと聞いてほしくてさあ。トラブルの始末はしたから、聞いてくれるだけでいいの。 ここ一年ばかりのわたしの彼氏ね、あの人と別れたんだけど、うん別れたこと自体はたいした話じゃなくて、その理由を聞いてほしいのね。えっと、盗撮なの。わたしの…

感情の通貨

疲れたあ。 娘がそう言うので、おう、がんばったな、とわたしはこたえた。そして彼女にすいかを切ってやった。 娘は中学三年生、受験前である。夏期講習がだいぶきつかったようだ。ダイニングの椅子に座る姿勢もなんとなくぐじゃっとしている。 なお、わたし…

犬の眠り

午前二時、そっとベッドを抜け出す。眠ろうと努力して一時間あまり、長年の経験から「これはベッドにいても解決しないやつ」と判断してのことである。 ベッドの中でずっと覚醒しているときには、あれこれ工夫すれば存外眠れる。そういうときには頭の中に思考…

コスパのいい結婚

そういえば結婚してないんだよね。 尋ねられたのでそうだよとこたえる。こうした質問は三十代ではよく受けたが、四十代になるとかえって新鮮である。わたしに質問した知人は、他人の結婚式の二次会という場だから「こういう質問もOK」という気分になっている…

花火の見える家

他人が買ったマンションの冷房の効いたリビングで花火を観ないか。 わたしがそのように誘うと恋人はそりゃあいいねえと笑った。 わたしたちは賃貸派である。一緒に住みはじめて二度更新して、今年住み替えを検討してみたら、いつの間にやら周辺の家賃がえら…

さよならTwitter

SNSをやっていないために「生きているか?」という意味のメールをもらってしまった。 私はシステムとしてのSNSは使用している。しかし、「知り合いや好きな有名人の投稿を日々閲覧する」という使い方はしていない。 Facebookのアカウントは仕事のために持っ…

るみ子のバカンス

るみ子は優雅な、あるいは優雅に振る舞うことに注力する女である。バカンスは三ヶ月あるのが普通よ、と彼女は言う。それは今時だいぶ難しいんです、とわたしは言う。この夏は一ヶ月少々、そして秋に一ヶ月少々ではいかがでしょう。るみ子はわずかな表情と仕…

偶然をもてなす

勤務先から一年間の研修への応募を提案された。 そういう制度があることは知っていた。通常業務を一年休んで修行してくるのである。年長のえらい人から、自分も一年間勉強してとてもいい経験になったと聞かされたこともある。しかし、わたしが転職してきて以…

「男」と孤独とアルコール

会議中に倒れて「死んでもおかしくなかった」という上司が早々に酒を飲みはじめたので、わたしたち部下は困惑し、隣の部署の課長に時間をもらった。この人は上司の同期で近しい間柄だと聞いている。 あの人が飲みに行くぞって言うたびにハラハラするんで。一…

だって他人だもん

上司がビールを注文した。わたしは咄嗟に目を伏せ、その目を左右に泳がせた。隣の後輩とがっちり目が合った。彼もまた目を伏せてそれを泳がせていたのである。 今日は会社の近くで飲んでいた。わたしは様子を見て一次会でおいとました。駅に向かって歩き出す…

大人になったみいちゃん

議事録を書くためにリモート会議の録画を再生すると、母の声がした。 もちろんそれはわたしの声だ。ふだん自分が聞いている自分の声は、人が聞いているのと同じ音ではない。頭の中でこもって反響した音がまじった声なのだ。わたしが思うわたしの声はだから、…

もうどうでもいいや あるいは老いについて

疫病が流行しているのでよぶんな外出を控えるようにという通達が出された。それから三年が経過したので、わたしたちの犬も三歳である。夫はずっと飼いたがっていたし、わたしだって犬は大好きなのだが、わたしが誓いを立てていて、それでずっと飼わずにいた…

知人の選択 あるいは老いについて

疫病が流行しているのでよぶんな外出を控えるようにという通達が出された。それから三年あまり、わたしの連絡ツール各種にはすでに誰だかわからなくなったアカウントが大量にある。 わたしは今年三十三歳で、この世代の中では比較的長期にわたって感染リスク…

父の揚羽蝶

疫病が流行しているのでよぶんな外出を控えるようにという通達が出された。そのためにわたしの帰省は二年ストップした。わたしの出身地は大きな地方都市だが、それでもやっぱり「東京から娘が帰ってくるとなると人目が気になる」と母が言ったものだから。 だ…

わたしの大切な不安

疫病が流行しているのでよぶんな外出を控えるようにという通達が出された。流行は三年に達し、直接の知り合いが幾人も罹患した。わたしもかかった。そのために周囲でにわかに注目を集めたのが保険である。症状が重かったので医療保険がおりて助かったという…

一人であること、あるいは機嫌のいい犬

疫病が流行しているのでよぶんな外出を控えるようにという通達が出された。そのために人々の楽しみが減り、数少ない疫病伝染性の低い娯楽に注目が集まった。その筆頭がキャンプである。 僕もご多分に漏れず毎月ソロキャンプをするようになった。子どもが中学…

缶詰課長の巨大な欲望

疫病が流行しているのでよぶんな外出を控えるようにという通達が出された。それから三年たった春、給湯室に「缶詰課長」の段ボールが復活した。 缶詰課長は総務課の課長である。もちろん本名ではない。年のころなら四十路の半ば、若いころ老けて見えるタイプ…

人生のピットイン あるいは老いについて

疫病が流行しているのでよぶんな外出を控えるようにという通達が出された。それから三年あまり、わたしの「ピットイン」はほぼ完了した。 三十歳とか三十五歳とか四十歳とか、節目の数字で自分の年齢について考える人が多いようだ。人間は成長期を終えたらず…

マスクを着ける要件

疫病が流行しているのでよぶんな外出を控えるようにという通達が出された。それから三年あまり、世界的な緊急事態宣言が解除され、日本でも他の感染症と同じ扱いになった。この数日のことである。 それでわたしはマスクを観ている。人々がどのようにマスクを…

山田専務はきれいなおじさん

疫病が流行しているのでよぶんな外出を控えるようにという通達が出された。わたしの勤め先でもリモートワークが導入され、大勢が集まる対面の会議はぐっと減った。そのさなかにやってきたのが山田専務である。疫病禍を受けた組織改革の要としての、鳴り物入…

雑な家族は平和に暮らす

疫病が流行しているのでよぶんな外出を控えるようにという通達が出された。そのために家にいる時間が増えて、いわゆる行動制限が解除されたあとも疫病前よりは家にいる時間が増えた人が多いように思う。リモートワークが定着した企業も少なくないし、まだ用…

春の滋養 あるいは老いについて

疫病が流行しているのでよぶんな外出を控えるようにという通達が出された。それから二年ほどで料理の腕前に磨きがかかった。食いしん坊に外食を禁じたら自炊に力を入れる。自然な成り行きである。 今年はいわゆる行動制限がすべてなくなったが、料理の腕は残…

蟹座のようなわたしの労働

疫病が流行しているのでよぶんな外出を控えるようにという通達が出された。それから三年、大学の授業はほぼ対面に戻る。なし崩しに制限のなくなった生活の中、感染症は再流行するだろう。社会での扱いが変わったからといって病気がなくなるわけではない。死…

欺瞞の誕生

疫病が流行しているのでよぶんな外出を控えるようにという通達が出された。それからいくらかしてわたしの家にテレビが導入された。わたしも夫もテレビを観る習慣がなかったのだが、出かける機会が減って退屈になり、家で映画を観るために購入したのだ。そう…

いつもどっか行きたい あるいは老いについて

疫病が流行しているのでよぶんな外出を控えるようにという通達が出された。それ以来ずっとがまんしていたことがある。海外旅行である。 このたびそれを解禁した。三日ばかり台北で遊んできただけなのだが、それでもなにかこう、生き返るような心地である。 …

広場と安心

疫病が流行しているのでよぶんな外出を控えるようにという通達が出された。それから三年が経って、いわゆる行動制限が緩和され、実質的に何をしてもよいということに、政治の上ではなっているのだけれど、かといって疫病自体がおさまったのではなくて、みん…

想像上のカウンター

疫病が流行しているのでよぶんな外出を控えるようにという通達が出された。そのさなかにこの町に引っ越してきたので、しばらくは飲み屋に行くこともできなかった。わたしは働き疲れて小さな居酒屋で小一時間飲んでささっと帰るような日が、けっこう好きなの…