傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

何者?

 娘が進路について考えているという。
 時の経つのは早いものである。小さいころはよく病気をして、おっとりしているものだからいじめられたこともあって、そりゃあ大変だった。その時分には、いや、もしかしたら昨日まで、永遠に子育てに走り回っているものだと、どこかでそう思っていた。
 そんなわけないのに、わたしは子どもが大きくなることを、どこかでわかっていなかった。大きくなったなあとは思って、でも大人になるのは今よりずっとあとなのだと、永遠みたいに先なのだと、そんな気でいた。子どもは気がついたら中学生で、きっと、もうすぐ成人してしまう。だってこんなに背が伸びて、だってこんなに立派な口をきいて、大人みたいに服を選んで、だって、こんなに。

 「お母さんはどのようにキャリアプランを立ててたのか」というのが娘の本日の質問だった。
 キャリアプラン。むつかしい言葉である。
 わたしはキャリアをプランした覚えがない。職業は「いやなことが少ない」という方針で決めた。努力というやつは、まあしたのだが、崇高な理念とかはなかったし、長期的な見通しもなかったように思う。
 わたしはなにしろ年長の男性ばかりが威張っている場所が嫌いで、理不尽なルールが多いコミュニティが嫌いで、それが変えられないほどにものが言えないところが嫌いで、それからからだを締めつける服を着るのが嫌いで、できるかぎり裸足でいたくて、昼休みは好きなときに少なくとも一時間きっちり取りたくて、なぜかといえば昼の腹の減り具合は日によって違うし食べたいものも違うから、それで、そんな好みがかなえられるような仕事がいいと思って、職種を選んだ。今の職場は業界内でも服装がさらに緩かったので、十年前に移ってきた。わたしの判断基準は、けっこう大人になったあとでも、その程度のものだった。
 わたしだけがぼけっとした若者だったのではなくて、まわりもそれほど立派ではなかった。友人たちは「響きがかっこいいから」とか「親のあとを継ぐのがラクそうだから」とか「モテそうだから」とか「とにかくカネがほしい」とか、なんなら「朝はできるだけ寝ていたい」とか、そんな理由で進学先や就職先を決めていた。意識の低い吹きだまりみたいな友人関係である。
 しかし、あとになると、思春期にはそうでないときもあった、と彼ら彼女らは言っていた。「何者かになりたい」というような欲求があった、と語った。わたしはそういうのはなかったので、何者かって何、と訊いた。すると友人の一人は笑ってこう答えた。いやいや、何ということもない、ただのイメージだよ、わたしの場合は「特別扱いされたい」「友だちの中で見劣りしない、キャラがかぶらない」という程度のものでしたよ。今の子の言葉だと「キラキラしたい」かな。え、この言い回しももう古い? そうか。とにかくそのくらいのものだよ。中身はないよ。社会貢献したいとか言ってたけどね。
 実際彼女は職業を通じて多くの人々の役に立っているので、わたしは社会を構成する一員として彼女に薄い感謝の念を持っているのだが、それでも本人は「どこかで見聞きした雑なイメージでキラキラしたかっただけ」という。「社会貢献ということばも要するにキラキラのうちよ」なんてと言う。
 そして彼女はこうも言った。その程度で満足しちゃうんだから、わたしの差異化の欲望はたいしたものじゃなかったんだな。「人とちょっと違っていれば満足だ」という程度のもので、しかもその「人」は自分のまわりのいくらかの人と、あとは薄ぼんやりしたイメージでしかなかった。それが満たされたら満足するんだから、「何者か」なんて、まったくたいした欲求じゃなかった。自己実現とかいまだによくわかんないもん。

 わたしの場合は彼女よりさらに意識が低い。そして同じく、自己実現という語の意味はわからない。なるたけやる気が出やすい内容を選び(やる気が出ないことをやるのはほんとうに苦痛である)、食いっぱぐれず、いやなことが少ない人生であればそれでよかった。特別というのは何かの基準で上位十%に入るとか三%に入るとか、そういうことだと思うのだが、そういうのあんま考えてなかった。お金にもそこまで興味がなかった。かっこいいのはいいことだけど、かっこいいことより裸足で就業できるほうが大事だった。おしゃれは我慢である。おしゃれな人は好きである。でもわたしは我慢をしない。

 なんかごめん、とわたしは言う。娘は苦笑して、いいよ、と言う。