傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

彼のスタイル

 わたしが彼氏と出会ったのはインターネットのオフ会だった。十年前にはそういうのがあったのだ。映画好きのオフ会である。いわゆるシネフィルの集まりで、面倒くさい人間ばかりが来ているのだろうなと思って(わたしもそうだ)、面倒くさい人間同士で楽しく飲もうと思って行った。
 その中に彼はいて、そして、驚異的にめんどくさくなかった。なんでだろ、たましいの薄暗さはわたしや他の人と変わらないのにさ。
 いや俺はめんどくさいですよ。オフ会で意気投合して後日ふたりで飲みにいったら、彼はそのように言うのだった。あなたがあまりにめんどくさいから俺のささやかなめんどくささが気にならないだけでしょう。
 そうかい、とわたしは言う。そうですよと彼は言う。彼はずっと背筋を伸ばしていて、ジャケットの襟とまなじりとくちびるの端がナイフで切ったみたいなかたちして、いいにおいがして、わたしばかりがラフで、化粧もろくにしていなくって、だってわたしと彼は職場も関係ないし共通の知り合いもいなくて、だから旅先でよくするみたいに、知らない人と話をしに来た。
 彼は居酒屋のテーブルにもバーのカウンターにも決してひじをつかなかった。きれいな男の子、とわたしは思った。厚い黒髪を切れ長の目にかぶせて、眉間のすぐ下から鼻筋をのばした、色の白い、きれいな男の子。ぜんぜんわたしの好みじゃないんですけど。わたし濃いめのマッチョがタイプなんですけど。
 それはスタイルなの。
 駅に戻る道の途中でわたしが尋ねると、彼は足を止める。男性の平均身長ほどのわたしをちょっと見下ろしてわずかに首をかしげてみせる。
 わたしは不意に苛立つ。大股で歩く。
 可愛いね。いい男だね。若すぎるから、かしこくてよくしゃべる猫かなにかと同じつもりでいた。猫じゃなかった。ぜんぜん人間だった。こんなことならちゃんとしてくるんだった。きれいにしてくるんだった。
 気に食わない。
 なんだよ、余裕かよ。おまえ。
 わたしだけ急にぜんぜん余裕ないんだけど。なんで? さっきまで部屋着感覚だったんですけど。ねえなんで? なんでそんなにすっきりした顔してんの? わたし今しがた急にすっきりの反対になったんですけど? わたし気持ち悪いな。わたしだけ気持ち悪いな。
 おまえ何しに来やがった。

 彼は話す。
 はい。かっこつけてます。スタイルをやっている。
 彼は小さい声で言う。僕は、学生時代にバーテンダーをやっていまして、うん、とても小さい、オーセンティック・バーで。ほんとうは学業と両立できる仕事ではないんですが、近所のバーの店主にかわいがってもらって。ええ、お酒を飲める年齢になってすぐ通い始めて、カウンターの内側に立ったのは就活終わって卒業までの、ほんの少しだけ。
 若いころからバーにいたのは、どうしてだろうな。僕はきっと酒が好きだろうと、未成年のころから思ってはいたけれど、でもどうしてかな。さみしかったのかもしれないな。だから、僕は外に飲みに行くときに、身についたルールがあるんだと思う。
 だめだ。おれいまぜんぜんだめ。さっきから、かっこつける余力もないや。
 ターミナル駅が眼の前で光っている。
 わたしはぱっと振りかえり、「わたしきみのこといいと思ってるよ」という顔をする。それからちょっとかがんで、彼の視線の芯をわたしの目の焦点に入れる。わたしはそういうのを無意識のうちにやるタイプである。
 それですっとキスしたから、しかもいやらしくなくってそのままさわやかに解散するキスをやってのけたから、彼はそれからずっと、わたしの彼氏なのである。

 ねえねえ、とわたしは言う。あんたわたしのこと何も知らないでつきあったでしょ。
 そうさねえ、と彼は言う。そりゃもちろん何も知りませんでしたよ。仕事も自宅も過去も、なんなら本名も。なんかきれいなお姉さんに突然ツバつけられて、そう物理的につけられたわけよ、あれ? おれがつけたの? わかんねえや。すごい嬉しくって、スキップして帰って、そしたらえらい気が合うじゃん。もう転がりこむし引きずりこむよね。ずっと一緒にいたらいいじゃん。もうそろそろ腹くくってくださいよ。
 そうして彼はうっそりと笑って、言う。
 あなた彼氏いたよね、当時。
 いましたよ。わたしは言う。でもあれは名目上の彼氏にすぎなかった。好きな男ができたらなかったことになるものだよ。なんだ、知ってたの? わたしだけあなたが当時の彼女と別れるの待ったりして、ばかみたい。
 どうでしょうねえ。彼は言う。彼は今でもときどき敬語をつかう。外に飲みに行ったときなんかにつかう。おれのほうが、ばかみたいなんじゃないかな。