傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

かわいいと言ってくれてもかまわない

 かわいいと言われたくなかった。正確には、大半の人に言われたくなかった。
 なぜ言われたくないのかと問われたら、むしろ「なぜ言われて嬉しいと思うのか」と問い返したかった。守るべき子どもではない成人に対して別の属性の人間が「かわいい」と言うとき、その大半は「御しやすそう」という意味を含む。若い女同士だと別のコードが発生する。たとえば「若い女として価値が高いとされる容姿である」とか「一緒にいるときに都合が良い容姿である」とか、そういう意味である。
 わたしはそんなのひとつも嬉しくなかった。
 わたしをかわいいと言っていいのは親と仲の良い友だちとつきあいが長くて信頼している彼氏だけだ、と思っていた。そういう相手の言う「かわいい」はわたしに対する評価ではなくその人の感情である。それは言ってくれてもかまわない。わたしも言う。わたしが日常的に感情のやりとりをすることを相互に了解している相手だからである。
 それ以外の「かわいい」は、たとえば大学や会社で親しくもない男性から発されるもので、わたしにとっては「ナメられている」以外のなにものでもなかった。ナメかたにはいくつかの種類があり、「女にはこう言っときゃ気をよくするだろ」という無思考な慣用句から、「おまえこの仕事ではおとなしくしてろよ」という意味を持つもの、「ニコニコしてホステス役をしていろ」との含意があるもの、さらにはセックスの相手になるんじゃないかという打診が含まれた。
 「ナメている」と思った。若くて潔癖で攻撃的だったというのもあるが、中年期のいま思い返しても、「うん、ナメられてたよな」と感じる。わたしは童顔の女であるだけでなく、背が低くて体重が軽くて、要するに見た目が弱そうというか、体当たりしたら物理的に負ける側なのである。人間もまた動物であり、物理的に強いやつはナメられにくい。わたしのように筋肉量が少ないタイプの人類はそれをおぎなうだけの防衛を必要とする。
 若いわたしはだから、自分と私的な関係がなく、この先それを持つつもりもない相手からの「かわいい」を真顔で無視した。無視が効かないときには「何言ってんだこいつ」という意味の表情をつくった。そういうのは練習すればできるようになる。
 彼らはわたし個人を選んでナメているのではない、とわたしは思った。わたしのポジション、たとえば大学や会社の後輩で性別が女であるような人間をナメたいのである。だから同じような属性の別の人間と比べて扱いにくい、すなわちコスパが悪いとわかれば、ターゲットを変える。わたし個人に執着があるのではないから、技術さえ身につければ追い払うことは可能である(わたし自身に執着しているケースを排除するのはもう少したいへんである)。
 若いわたしはそんな具合にナイフみたいに尖っては「同じポジションの男には言わない『かわいい』」を言う者みなシカトして生き、そのために困難が生じないわけではなかったが、トータルとしては自分にとって快適な環境を手に入れることができた。人生は戦いであり、手持ちのカード、わたしなら「小さい女」というカードが配られても、武器を持って戦って生き延びるしかないのである。

 そのようにして生き延びたわたしは現在中年であり、職場においては社歴の長い中間管理職で、会社の中でささやかな権力を保持する「うるさいおばさん」である。こうなると少なくとも会社ではさほどナメられない。ラクである。
 今の若い人はわたしたちが若かったころとは別の意味で「かわいい」と言うことがある。多くの場合「あなたはまだ『女性として』価値がないわけではないですよ」という意味を含むので、言われたいとは思わないが、それ以外の意味のほうが強く、かつナメ度が低い場合は、完全に拒絶するところまではしない。なぜならわたしは彼らにとって媚びへつらったほうがいいのではないかと誤解させるポジションにいるからである。

 ほーん。わたしがこのような話をすると、夫は妙な声を出す。おれはかわいいって言われたらうれしい。おれにとってはきみもタロちゃんもかわいいので、かわいいと言う。おおかわいい。
 タロちゃんはわたしたちの犬である。
 あなたがかわいいと言われてうれしいだけでいられるのはあなたがでかい男だからだよ。そう思う。
 かわいいかわいい、と夫は言う。かわいいかわいい、とわたしは言う。夫は何も考えてない顔して笑う。犬みたい、とわたしは思う。