傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

わたしのすべての変数

 わたしは将棋を好む。
 自分でも指すが、それはたいして好きではない。スポーツ以上読書未満の、やれと言われたらやれて、嫌いでもなく、素人としては楽しめる程度に素養がある、というほどのものである。祖父の趣味で、親はやらないが従弟のひとりが真剣に取り組んでいて、わたしも中学生くらいまでその練習相手をつとめていて、つまりは環境による、受動的な趣味である。
 ほんとうに好きなのは自分が指すことではなくって、プロ棋士の対戦を観覧することだった。将棋はテレビ放送のある、なんだか優遇されているゲームだから、わたしはそれにかじりついた。ただのゲームなのに、とわたしは思った。もっと人気のあるゲームだってあるのに。木っ端を動かしているだけなのに。わたしの高校の部活にだってないのにね。
 なんでこんなに好きなんだろう。

 今にして思えば、将棋は記録が残るから、だから好きだったのだと思う。わたしは棋譜を読むことができて、本や映像もたくさん手に入り、昨今はログの残るインターネット対戦もさかんであって、だからわたしは、わたしが指す凡庸な将棋でない、歴史に残るかもしれない名勝負を、何度だって楽しめるのだった。
 記録が好きすぎるのは将棋にかぎったことではなく、わたしは毎日日記をつけた上でインターネットで他人の日記を読み歩くログ魔なのだが、その長いキャリアをもって、わたしは断定する。人生のログは不完全にもほどがある。穴が多すぎる。秘匿が多すぎる。よしんば因果関係が記されていたところで、まったく信用ならないものだ。偶然のかたまりにわかりやすい物語が塗り重ねられ、欺瞞のからだにきらびやかな衣装が着せられる。
 人生はそういうものである。本音と建て前の区別など本人にだってついていないし、因と果をつなぐのは物語でしかなくて、わたしはその物語を楽しめれば、それでかまわない。ふだんは、それで。

 将棋はそうではなかった。思考が手筋になるものだった。そういう種類のゲームだからだ。だから好きだった。
 わたしは必然的に駒の動きを追う行為を趣味にした。
 それは時に論理的でないように感じられる。わたしに理解できる程度の論理性から外れているという意味だけでは、たぶんない。棋士は動物としての身体を持つ人間だから、調子の良し悪しがあり、好みがあり、相性がある。気まぐれでさえある。そのように見える。
 わたしはそれを読み取ることが好きなのだった。一手の、その背景にある将棋の歴史や、棋士の個人史、その他諸々の要素を想像し、ときに資料を引きながら。

 とても面白いよ、と友人が言う。友人は出版社に勤務している。そうしてわたしが書いた将棋に関する趣味の文章を読んで、言う。
 このような描写は珍しい。ルポルタージュとして価値があると思う。でも書き手の動機がわからないな。将棋が強くなりたい人間のすることではない。それにしては効率が悪い。特定の棋士が好きでずっと見ていたいという感じはあるけど、近づきたいという欲望はない。距離がある。その距離を必要としている。そのくせ、客観的に見えて実は好みに合う要素を選択している。エゴは明確にあるんだけど、わかりやすいエゴじゃないんだよな。なんというか、対局の理解を通して自分の中の世界を理解したいというような、感じ。そこがいい。でも売りようはないな。宣伝しにくいし、部数が出ない。
 売らなくていいんだとわたしは言う。売り物じゃないんだ。あなたが読みたいと言うから読ませたんだよ。
 友人は笑う。そうだねと言う。わたしがお願いして読ませてもらったんだものねと言う。ずいぶんと愉快そうな顔をしている。

 すべての要素を書こうとしないのは、と友人は言う。不可能だからかな。
 そうだよとわたしは言う。ほんとうはそうしたいんだよと言う。あの日のあのときの、気温と湿度、皮膚感覚、昨夜交わした会話、小さいころの家族のひとこと、小学生のときのあの対局、三日前に研究に倦んで早めに寝たこと、そのとき窓の外で鳴いていた虫のこと、ああぜんぶ、ほんとうはぜんぶ、影響しているはずなのに。
 あなたは、と友人が言う。その対局のすべての変数を記述したいんだね。あなたのとても好きな場面について、何がそれを成立させたかを、完全に記録したいんだね。

 わたしは笑う。そんなことできるわけないじゃないか。わたしはそれを、とうに諦めた。変数が見えるような気分になれるゲームを好み、しかしそこにもやはり把握しえない大量の変数を垣間見て、くらくらとめまいを起こして、それを楽しんでいるのだ。