傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

眠るために生きている、あるいは「自己肯定感」が要らない人間

 よく眠れたら気分が良い。しかし、少々の睡眠不足もそう悪いものではない。「今日の寝つきはさぞ良いだろう」と思えるからである。
 レストランでコースを食べてデザートにコーヒーを合わせるのは特別なときだけである。夜に、しかもアルコールとちゃんぽんで、カフェインを摂る! なんてこった。不良のすることである。
 朝は決まった時間に起きて日光を浴びる。これがもっとも重要である。運動も必須だ。週に二回はジムへ行く。

 わたしは眠るのがへたである。今は前述のような努力によって人並みに眠れるようになったが、以前はひどいものだった。もちろん医学的にもしっかり睡眠障害だった。苦しかった。それでずいぶんがんばった。
 若く貧しかったころは家賃を抑える必要があったが、朝の日光が大切なので、駅から遠くてボロボロでも日当たりの良い部屋を借りた。夜中まで働かなくて済むよう常に効率を考え、深夜まで出かけるのは月に一度までとし、年に二ヶ月はアルコールを完全に抜き(眠りに問題がある酒好きの人は試しに一ヶ月飲まないでみてほしい。一週間や二週間じゃなくて、一ヶ月以上。マジできく)、とくに楽しくもないジムを習慣にした。歯磨きみたいなものだ。だいたいの人は歯磨きを娯楽としていないけど、毎日何度もするでしょう。
 二十二かそこらで「眠れるようになる」と決意して十数年試行錯誤して、わたしは眠れるようになった。現在のわたしの人格は眠りに関する問題を基盤として形成したといっても過言ではない。

 そんなだからわたしはいまだに眠気を「いいもの」と思っている。休日の昼寝は夜の眠りを妨げる可能性があるやっかいな誘惑だが、トータルで睡眠時間が足りていないときは昼寝OKとしている。
 かくしてわたしは家族から「よく寝る人」とされている。年をとってから出会って、昔のわたしを知らないからだ。わたしは眠るべき、あるいは眠ってもよいときに眠気がやってくると眠気を讃える口上を述べて床に入るので、「睡眠の神を信仰している」とも言われる。
 みんなが睡眠神を信仰しないのは、眠くて苦しいのに眠れない、あるいはうとうとするなり冷や汗をびっしりかいて起きることがあんまりなかったからじゃないかと思う。
 眠りがダメな人の主観において、入眠できないのは「眠れない」というより「眠らせてもらえない」、中途覚醒は「起きてしまう」というより「たたき起こされる」ものである。自分でない、自分より大きなものによって決定されている感覚なのだ。だからその自分でないものに祈り、眠れそうなら感謝する。
 昔の文豪が「女というのは眠るために生きているのではないかしら」などと言っており、そいつは男だったのでなんか腹立つせりふだなと思うが、わたしに関しては、うん、人生の目的の半分弱は眠るためですね。あと半分近くは食うためで、残りちょびっとがその他諸々という感じです。快適な環境で眠って美味しく食べるためにがんばって働いております。

 友人が言う。動物だね。
 しかし現代人は少しくらい動物であったほうが快適なんだろうな。きみ、自己肯定感って聞いたことある?
 ある、とわたしはこたえる。意味はわかる? と友人は質問を重ねる。わたしは小さい声で言う。よくわかんない。ググってもわかんなかった。
 友人はうなずく。そうだろうね。「自己肯定感が低い」という人は、本人が肯定している対象が自分にまつわる属性や評価なんだ。稼ぎが多いのが偉いと思っていれば収入が下がると「自己肯定感が下がる」し、モテるのがが偉いと思っていれば性的に人気がなくなると「自己肯定感が下がる」。与えられた課題を失敗なく遂行することが偉いと思っていれば、失敗したときに「自己肯定感が下がる」。素晴らしい社会性だ。こういう人たちがいないと社会はうまく回らない。でも言葉の定義には問題があると思う。稼ぎも性的評価も、もちろん自己ではない。「与えられた課題を失敗しない」はもっとわかりやすくぜんぜん自己ではない。
 彼らの言う自己肯定感というのは評価基準の中での立ち位置で、重要なのは「稼ぎがあるやつが偉い」とかの尺度のほうなんだね。そう解釈するとよく理解できるんだ。自己自体は、そんなに見たくないんじゃないかな。だってきれいな属性をつけている人間も、剝いてみたら食って寝るだけのものだからね。あなたみたいな存在だ。まったくたいしたものじゃない。
 たいしたものじゃないと、いけないの、とわたしは訊く。友人はこたえる。彼らにとってはね。でもあなたは気にしない。
 気にならないな、とわたしは思う。今日の晩ごはんは何にしようかしら。