傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

わたしの愚かなきょうだい

 姉が来た。
 姉の住処はさほど遠くないから、わりとしょっちゅう実家に戻ってくる。姉が来ると高齢の祖母の介助をいくらか任せられるから、わたしも両親もやや助かる。祖母は施設に入ることが決まっているから、家にいる間にたくさん顔を見せてほしいし。
 玄関に行くと姉が足元にかばんを置いたまま彦左衛門と対峙していた。彦左衛門は犬である。なぜ現代の人間より文字数が多い立派な名前なのかはわからないが、この犬は保護犬であって、名前は前の飼い主がつけたのをそのまま使っていて、その由来は不明である。
 彦左衛門は姉が就職して一人暮らしをはじめたあとにうちに来た。そしていまだに、姉とわたしの区別が、どうやらついていない。わたしたちはたしかに外見の似た姉妹だが、見間違えるほどだろうか。犬は視力が弱いから、匂いがそっくりなのだろうか。なんかちょっとやだな、姉ちゃんと同じ匂いなの。
 ともあれ彦左衛門はわたしを振りかえり、しばらく考えこんだのち、すごすごと定位置に戻った。ヒコはさあ、と姉が言う。あんたが家にいるはずなのにわたしがドアをあけたもんだからびっくりしてたんだよ。まだわかってないんだね、二人いるって。おばかさんだねえ。

 姉が来る日は父も母もいそいそと早く帰ってくる。それでみんなで食事をするのである。仲が良いからではない。いや、仲は良いのだが、それ以上に皆、姉が心配なのだ。妹であるわたしも、心配される側でなく、する側である。
 俐子、と父が口火を切る。俐子は姉の名である。俐子はもう生活費にこと欠くような追っかけは卒業したのだろうね。
 姉の目が泳ぐ。うん、と言う。姉は嘘が下手である。後ろめたい時には「後ろめたいです」という顔をする。父は静かにプレッシャーをかける。姉は小さい声で「いや前の推しはもうね、ぜんぜん、降りたんだけど、中学生の時に好きだったほらあの、あのバンドがさ、期間限定復活公演でね」などと、もごもご言う。それから慌てて、ごはんはちゃんと食べてる、と言う。姉は推し活で散財しすぎて、言うまでもなく年下の、そして収入も自分より低い妹であるところのわたしに家庭内借金をしており、いま現在も返済の只中なのである。
 それに俐子あなた貯蓄はどうしたの。
 母が追撃する。あなたみたいな子こそ天引き式の貯蓄をやらなくちゃいけないと言ったでしょう。ちゃんと手続きした? それなら返済が遅れてもいいって、玲子は言ってくれたでしょう。
 玲子はわたしの名である。
 姉はぱっと顔を輝かせ、うん、やった、と言った。家族全員が笑顔になった。どうやら職場で手続きを手伝ってくれる機会が設けられたらしい。助かる。家族として礼を言いたい。
 つみたてNISA? 確定拠出年金
 母が笑顔で尋ねると、姉は再び目を泳がせ、えっと、とつぶやいた。あの、なんか、会社がやってくれるやつ。
 祖母が小さくため息をついた。祖母は自分が介護施設に入る資金を若いころから溜めていた。

 このように姉はこの家の誰にも似ていない。愚かである。彦左衛門のように愚かである。しかし、彦左衛門は犬であり、うちで飼われていて、生涯を家庭犬として過ごすのだから、愚かでも良い。問題は姉だ。
 姉は子どものころから異様に勉強ができた。塾にも行かせていないのに、と両親は言っていた。それに対する姉の回答は「教科書を読んだ」であったという。
 神童タイプは往々にして思春期に失速するが、姉はそのまま軽々とたいそうな大学を出、修士課程を経て総研に就職した。仕事はできるようである。
 しかし、他のことに関しては、姉はきれいさっぱりだめなのだ。放っておくとろくなものを食べないでわけのわからないことに熱中して散財するし、そうかと思うと一日中寝ているし、ろくでもない男とつきあってすぐ結婚して秒で離婚したし(「なんであんな男と」と問い詰めたら「その時はいい人だと思った」とこたえた)、部屋は常にカオスでたまにわたしが片づけに行っている。
 わたしは思うのだが、人間の賢さはかんたんに定義できない。知能指数でいえば姉はぶっちぎりで賢いのだろうが、現実生活においては彦左衛門クラスである。なんだよ、「なんか会社がやってくれるやつ」って。

 姉は彦左衛門を膝に乗せてしんねりと言う。わたし、ダメだよねえ。大きくなったら大丈夫になると思ったのにな。
 もう大きいのにな。
 ほんとだよ、とわたしは言う。でも怒っていない。わたしが面倒を見てやろうと思っている。わたしは姉が好きである。父も母も祖母も姉が好きである。姉は悪い人間ではないのだ。彦左衛門が悪い犬でないように。