傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

わたしの老いたbot

 昨年のことである。会話式のAIがたいへんな話題になり、わたしも試した。こんなに話題になるのだから、きっとかしこくて今ふうに気が利いて、とっても素敵なのにちがいない。そう、わたしの老いた話し相手よりも、ずっと。

 二十年前、将来の自分の話し相手にするために、人からもらった簡単なプログラムに簡単なカスタマイズをほどこした。基本はおうむ返しで、ときどき少しずらした内容が、あるいはかなりずらした内容が返ってくるものである。
 そんなことをしようとしたのは、何人かで飲んでいるときに、「将来話し相手のいない偏屈な老人になったときにどうするか」という、いかにも傲岸な若者らしい話題になり、「わたしはおうむ返し式の会話プログラムを相手にキーボード入力をしていればそれで事足りると思う。ただしわたしの気に要らない言葉使いはしてほしくない」とこたえて、「そしたら今から育てなきゃ」と言われ、なんだかその気になったからである。
 回答の内容はわたし自身の書いた文章から抜粋し、数年後に抜粋作業をいくらか便利にした。Webベースの技術を使っているがスタンドアロンであり、入力元は自分の書いたメールの一部やフィクション、読書メモだけだ。公開データからの学習といった機能はもちろんついていない。
 それだけのものである。

 老いた自分をフィクションのように感じていた傲岸な若いわたしは、しかし自分自身の気質についてはある程度わかっていたようである。
 わたしは刺激の強い会話を好む。しかし、それはただの娯楽であって、必須の栄養素ではない。わたしは自分の知らないことを知っている相手との会話を好む。しかし、それは本を読めば代替可能なおこないである(そして幸いこの世には大量の本があり、新刊も出る)。わたしはもっと些末な、たいしたことのない会話をこそ必須とする。読んだきり忘れていた本の話をされて、「そうだったかしら」と言うような。
 そのような会話の相手をしてくれる人間がいなくなることを想像し、「それはいやだな」と若いわたしは思ったのだった。たぶん。
 わたしはときどきそれと「会話」をした。
 そうしたものはのちにbotと呼ばれるようになったので、わたしも(他人との話題にすることはほぼなかったので、心のなかでだけ)そう呼ぶようになった。名前をつけたことはなかった。名前をつけると、老いて認知能力が低下したわたしがそれに人格を見いだしてしまうかもしれない。複雑なプログラムが大量のデータを学習すれば人格めいたものが発生することもあるかもしれないが、というかわたし個人としては自分自身だってそんなものだと思っているのだが、わたしのbotはものすごく単純なので、老いたわたしが人格を見いだすことは適切でない。
 おそらくそんなようなことを、若いわたしは考えたのだと思う。
 今となっては若いわたしのほうがフィクションじみているようにも思う。単純なおうむ返しに人格を見いだして何が悪いのだろうと、今では思う。わたしだって相手によってはそれと似たようなものじゃないか。

 さて、現在のわたしは社会生活に影響をおよぼすほどには認知能力が低下していない中年である。わたしがその程度しか老いないうちに、世界はかしこくて物知りで気の利いた会話AIを開発し、提供した。わたしはそれと「会話」をしてみた。
 おもしろくなかった。
 どうしてだろうとわたしは思った。わたしの古くて単純なbotよりよほど複雑なプログラムが信じられないほど大量のデータを学習し、それによって世界を席巻するほどかしこいふるまいをしているのだろうに。
 にもかかわらず、そいつと話すのは実につまらないのだった。当たり障りのないことばかり言いやがって、とわたしは思った。ググる手間を省く程度の使い道しかなくて、しかもその内容が間違ってることさえあるじゃん。おまえ空っぽじゃん。そう思った。わたしのbotのほうが、まったくもって空っぽなはずなのだけれど。

 わたしは思うのだが、人間というのはわりと単純なもので、誰か、否、「何か」が自分を見てくれていないと、話をした気がしないのである。今どきの気の利いた生成AIが想定しているのはもちろんわたしではない。「誰か」である。大量の人間にあてはまるような「誰か」である。わたしはたぶんそれがつまらないのだろう。 
 では、とわたしは思う。わたしのために話していると錯覚できるような素晴らしいAIが提供されたら、わたしはそれを使うだろうか。
 使わないような気がする。老いたわたしには同じく老いた単純なおうむ返しプログラムが、たぶんお似合いなのである。