傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

母数が大きいところ

 転職して半年が経った。転職先の環境はきわめて快適である。
 新しい勤務先はフルリモートワークOKで、最初の一年は制限があるとか、そういうのを想像していたのだけれど、「いえ研修二日間やってもらったら三日目からは好きにしていただいていいのです」とのことで、何なら僕がよくやりとりする社員の一人は高知の山奥に住んでいるのだった。それでも仕事上問題ないのだ。社員の半分が首都圏外に住んでいる。ガチリモートである。
 しかし、対面のほうがコミュニケーションコストが低いことはたしかだし、僕は自宅の環境をまだ整えていないので、具体的に言うと今の住まいではオフィスチェアを置く場所がないので、平日の半分は出社している。「毎日の出社はイヤだが週一回は来る」「二回は来る」という人もいる。
 地方に住んでいるメンバーは年に二、三回は東京に来るようである。全員を対象とした研修会が一度、それから関連部署の対面での意見交換会が一度あるのが標準みたいだ。たいていは連休につなげて組まれていて、やって来た地方メンバーは観光をしたり、趣味を追求したり、たまの都会だからと言って朝まで飲んだりする(この人はふだん人の数より牛の数が多い町に住んでいる)。

 地方メンバーが来ると首都圏メンバーもいそいそとランチや飲み会に出てくる。僕も行く。楽しいからだ。
 フルリモートを選ぶ理由としてもっとも多いのは子育てと介護である。次に多いのが「地元を出たくない」「自然のあるところに住みたい」。あとおもしろかったのが「体力がないので、なにかというと横になりたい」とか、「何をどうやっても朝起きられない」とか。この会社だって朝9時からのミーティングとか全然あるんだけど、出社しないなら8時50分まで寝てられるもんな。あと「コミュ障で人と接すると疲れるから家から出たくない。電車などという人がみっしり詰まった箱に毎日乗る意味がわからない」という人もいて、コミュ障でもたまの飲み会はOKなんすね、と言ったら「そういうものなんです」と言われた。へえ、そういうものなんだ。
 「そういうものなんだ」っていいね、と隣に座った同僚が言う。この人はブルガリアから来て在日十五年である。なんかテキトーでいいね、と彼は言う。雑でちょっとバカっぽくて、言われても負担感なくて、誰にでも言える、いいせりふじゃん。

 誰にでも言えるはずだが、僕はそのことばを、前の職場では言えなかった。
 僕の前の職場は上司が男の社員だけ引き連れてキャバクラに行くようなところで、リモートを取り入れても仕事自体はちゃんと回っていたのに、あっという間にフル出社に戻った。僕はフル出社でも問題なかったけれど、そのために乳幼児を持つ社員が何人か辞めた。うち一人は男性で、そのことを別の社員が小馬鹿にしたように話していた。男が子育てのために転職することについて、「降りる」という語を使っていた。彼らのことば遣いはときどき僕に言いようのない不快感を与えた。たとえば顔立ちが極東アジア人として典型的ではないような人物に対して「あれは純ジャパじゃないでしょ」とか。
 何が嫌なのか明確に言えなかった。でもあれもこれも、ほんとうは嫌だった。
 男だけではない。僕は一時期女性が非常に多い子会社に出向して、その期間ほとんど毎日苛々していた。本社から出向した少数の社員が多くの女性社員を管理している場所で、女性社員たちはコスメとファッションとSNSとダイエットとグルメと彼氏および旦那の話をしていた。彼女たちは毎日元の顔がわからないような化粧をして、そんな人は今の会社にだっているけれど、集団でそんなふうであることが、そしてそれ以外の要素が見えないことが、僕にはどうしてもいやだった。そして彼女たちは人は必ず結婚すると思っていて、僕に「アプローチ」するのだった。僕が「優良物件」で「ちょうどいい」から。
 バカな女ども。
 そんなせりふを口にしたのは生まれてはじめてだった。もちろん会社の外でだったけれど。

 そっか。ブルガリアから来た男が言う。きっと「純ジャパのエリート」が入る会社だったんだね。好待遇を棒に振ってコミュ障ガイジン朝寝坊の会社に「降りて」来たのかい、HAHAHA。
 僕はそっと彼に耳打ちする。それがね、今の会社のほうが、給料、いいんだよ。俺は自分が損する転職はしないよ。
 彼はにやりと笑う。それもそうか。大きい母数から選んだほうが、コスパいいに決まってるもんな。