傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

JR両国駅前24時30分の和平

わたしはあたたかいラーメンを待っていた。両国には商業施設もあるが、お隣の錦糸町よりは繁華でない。終電近くの時間帯に駅前のラーメン屋に入るのはだいたい帰途にある住民である。そんなだから、見知らぬ者同士ながら、店の中には何となく連帯感が漂って…

彼女は私をゴミみたく捨てる

人間が精神的に乱れるのは思春期にかぎったことではない。人生の中で何度か起こりうる。そのときはできるだけいろんなリソースを使って立ち直るのがよいと私は思っている。だから昔の友人知人が連絡してきて不安定なようすであった場合、できるかぎり力にな…

主人は子煩悩じゃありませんから

子どもたちがいっせいに笑った。読み聞かせが受けたらしい。読んでいるのはわたしの夫である。保護者会の後に子どもたちと保護者たちの交流の時間があって、その一環として読み聞かせの場がセッティングされ、わたしの夫が立候補したのだった。わたしがにこ…

犠牲者は誰だ?

彼と組むくらいなら辞めます。女性医師がそう言う。「彼」が何をしたのかといえば、彼女には何もしていない。ただ酒の席で不用意な発言をしたらしいという、それだけのことが明らかになっている。それでもわたしは、何度検討しても彼に辞めてほしくって、彼…

インターネットに向いてない

おいバズってるけどだいじょうぶか。 そういうLINEが入った。私はソーシャルメディアが得意でない。 Twitterは数日に一度見る。言われて見てみるとたしかに私が投稿した短編がバズっていた。稀にあることだ。今年の春先にもあった。でもそれより規模が大きい…

セフレですよ、不倫ですよ、ねえ、最低でしょ

仕事の都合で別の業種の女性と幾度か会った。弊社の人間が、と彼女は言った。弊社の人間が幾人かマキノさんをお呼びしたいというので、飲み会にいらしてください。 私は出かけていった。私は知らない人にかこまれるのが嫌いではない。知らない人は意味のわか…

脆弱とマヨネーズ

世の中にいるのはみんないい人だと思っていた。僕は二十七歳で、パリ近郊の鉄道駅にいて、一文無しになったところだった。 会社が海外でMBAを取らせてくれるというからフランスに行くことにした。ラッキー、と思った。学校では主に英語を使うけれど、現地語…

メイクと実存

年に一度、友人にメイクを習いに行く。友人は何段にも分かれたメイクボックスを持っていて、いくつかの色をわたしの顔にあてる。彼女は眉の描き方を修正し、アイカラーとアイライナーを変えて塗り方を教示し、新しいアイテムとしてハイライトをわずかに使う…

切り離された跡

勤務先は単科病院としては小さくない規模で、それでも医師はわたしを入れて十人。非常勤を入れてローテーションを組む。コメディカルの人数も知れたもので、全員で助け合わなければやっていられない。専門性と年齢とキャリアは考慮するけれど、負担は比較的…

このタイトルちょっと高尚なんで変えてもらっていいですかね

出版市場は実は縮小していない。出版される本の数は増えている。大ヒットが出にくい、書き手と出版点数の増加でパイが小さくなって専業作家が成立しにくい、作家以外の職も担い手が分散している、そういう状態である。 わたしの職能は雑誌編集、単行本企画、…

呪いをかけられなかった娘

三十歳前後からまわりの女たちの半分くらいが変な感じになった。結婚するとかしないとかできないとかしたくないとか、そういうことをやたらと言うようになった。わたしは全員に「そお」とこたえた。そんなの好きにすりゃあいいじゃんねえ、と思った。日本に…

なりふりかまわず手当たりしだい

自宅のある階でエレベータを降りようとしてそれに気づいて指が痛くなるほど強く「閉じる」ボタンを押した。見るな、見るな、こちらに顔を向けるな。エレベータが一階に降りても恐怖は消えず、あとも見ずに走った。 LINEでつかまった女友達に通話を頼んで、言…

ユキコはいい子、いつも、ずっと

ユキコはまじめな女の子だった。わたしたちは中学生で、同じ塾に通っていた。保護者が熱心に勉強させている家庭の子が行くたぐいの塾で、入塾試験が難しいと評判だった。わたしは間違って入ってしまったみたいな感じで、いつもびりに近かった。ユキコは精鋭…

シンデレラボーイの妻

夫のことをよく知らない。 夫と知り合って十五年、結婚して十二年になる。わたしは夫の仕事の内容や給与や日常のルーティンや食べ物の好みを知っている。何に対してセンシティブで何について無関心かだいだい把握している。暇になるとすることのパターンもわ…

送り盆の日

ときどき、自分の頭に不満を持つ。私が考えたいこと、覚えていたいこと、想像したいことに脳が追いつかないときに、不満を持つ。頭が悪い、と思う。誰と比べて、というのではない。私の欲望に対して、私の頭が、悪い。 夜の夢はあまり見ない。年に何度か、ほ…

可愛いだけが取り柄でしょ

犬を飼おうと思う。 わたしがそのように言うと彼は首を曲げてこちらを見たあと、ゆっくりと元に戻した。そうして、いいんじゃないですか、と言った。この人が敬語を使うのは、わたしに何かを言い聞かせたいときと、もっと突っ込んで聞いてほしいときである。…

お知らせ

2011年に出した電子書籍アプリが仕様変更で利用できなくなりました。そこで、このアプリのために書き下ろした短編をnoteで公開しました。偶然を贈る|槙野さやか @kasa_sora|note(ノート)https://note.mu/kasa_sora/n/n633dddd15a3e

親密さの設計

二十歳のとき、「作戦を立てずに生きていたらいずれ人間関係がなくなるな」と思った。わたしは基本的にひとりでいたかった。自分の家族を持つにしてもひとりでいる時間はほしいと思った。昔の村社会みたいなところに所属するのはいやだった。でも完全にひと…

この町を出て、永遠に戻らなかった

東京の下町に生まれた。放課後の主な居場所だった区立図書館には「郷土の本棚」というのがあって、区内の歴史の本だとか、区内を題材にした落語を集めた本だとか、区内が登場する近代文芸のオムニバスだとか、そういうのが並んでいた。気が向いていろいろ読…

生徒会長から雲をもらった話

西脇くんは生徒会長でわたしは書記だった。中学生のころのことだ。わたしたちは素直ないい子で、クラスで推薦されて先生からもやってほしいと言われて全校生徒の前で選挙に出て生徒会をやっていた。わたしはピアノが得意で芸高の受験準備をしていた。西脇く…

好意なし、友情あり

いや、みんな、だいたい、おたがい、知ってます。部下がそう言うので、ははあ、とわたしは返した。間抜けである。部下は笑った。うちのチーム、お互いの私的な事情はだいたいわかってます。もちろん、濃淡はあるけど。「あの人は今年お子さんが受験だ」とか…

憤怒の才能

嫉妬って怖いですよね。歓送迎会でよく知らない人がそう言うので、そうなんですね、と私は言った。とくに意味のない、社交上のせりふである。歓送迎会はまとめてやるので、ふだんはかかわりのないよその部署の人がいるのだ。 そうなんですね。私が相槌よりや…

嘘つきサキちゃんの不払い大冒険

サキちゃんは小さいころから嘘つきでした。妹と口裏を合わせて凝った嘘をつくので、近所の人々から「あの嘘つき姉妹」と呼ばれていました。 嘘つきには、自分がついた嘘を嘘だとわかっている嘘つきと、自分がついた嘘をそのうちほんとうだと思いこむ嘘つきが…

わたしの部下は口を利かない

榊さんは口をきかない。そういう人なのだそうである。聴覚障害ではない。発声器官に障害があるのでもない。特定の場面、たとえば学校や会社などで口をきけなくなるのだという。榊さんは一度も口を利かないまま同じ会社の別のフロアで何年かアルバイトをして…

蟻の女

これからこの女とセックスするんだと思った。これは知らない女で、今からやってカネをもらうんだと思った。そう思わなければ50センチ以内に近づくことができなかった。実際のところ、セックスなんかぜったいにする気はなかったし、その「女」は僕の母親で、…

愛されにくさへの手当て

わたしは愛されにくい。ほとんど誰もわたしを愛さない。しかたがないから愛されにくくてもできるだけ楽しく生きていく方法を考えようと思った。十五のときのことである。 わたしは空気が読めない。口頭での会話が苦手で、人と話す場面でがちがちに緊張する。…

知らないなんて許せない

ソーシャルメディアをぜんぶ閉じた。ものを書いたときの通知に使用するSNSアカウントを一つ残したが、そこでも一切の相互性を排除した。誰もフォローしない。リプライはしないし、見ない。シェアや「いいね」はもとよりほとんどしないが、徹底してゼロにする…

あなたはこうしてキモくなる

人間関係におけるキモさというのは、僕が思うに、舐めながら期待しているときに生じるんです。なんていうのかな、「この程度の相手であれば、自分をよく扱うだろう」という感じ。好意が発生するときにはしばしば期待がともなうものだけど、そこに相手を見下…

今じゃなければ、さよならだ

子どもが泣いている。大人たちは笑っている。子どもは三歳半である。身も世もない、それはそれは悲しそうな泣きぶりである。 女友だちが寄り集まって小さい子たちを連れてピクニックに出かけた帰り、電車に乗って順次解散しているところである。いちばん小さ…

マジョリティの地獄

背後から女の声が聞こえる。 私は男に生まれなくてよかったと思うよ。私が男だったらさあ、ちやほやされて育って、ぜんぜん挫折しないもん。女の子にもモテる。もう絶対モテる。それでナチュラルに威張る。家庭のことは結婚相手に丸投げして、「子どもの教育…