傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

人でなしの誘惑

イラストを描いて生計を立てはじめてもうすぐ十五年になる。学生の時分から仕事をもらっていて、そのまま職業イラストレーターになった。企業に所属してはいるが、企業側の役割はほぼエージェントであり、中身は自営業者の集まりに近い。所属を経由してでき…

家を作れなかった男

わたしの両親はわたしが十一歳のときに離婚した。そのことはとくにうらみに思っていない。わたしが小学校に上がるころまで、父はよくわたしや妹の面倒を見てくれた。父は乳幼児の相手が上手い人であったように思う。一方でわたしが少し大きくなるとなんだか…

愛されない子のピアノ

両親から相続した小さな二階建てをリフォームしてひとりで住んでいる。空き部屋があるので、ときどきそこに人を住まわせる。たいていは自分の住居を見つけて出て行くから、わたしはまたひとりになる。しばらくひとりでいて、また別の人を住まわせる。わたし…

愛された子のピアノ

メイ先生の家に行く。メイ先生はわたしが小学生のときに近所でピアノ教室をしていたおばあさんである。息子たちが独立して久しく、五年前に夫が亡くなってひとり暮らしをしている。さみしかろうと思ってときどき行く。 わたしにとてピアノはただの手習いのひ…

お知らせ(書き下ろし)

今週の原稿は他媒体への書き下ろしです。本ブログの更新はありません。 fuminners.jp

長い法要

もうすぐ帰国します。二週間ほどいるので、お暇な日を教えていただけませんか。日本っぽいものが食べたいな。 そのようなメッセージが入る。履歴をさかのぼると去年にも似たようなメッセージがある。その前は一昨昨年。海外に住む知人から、「帰国するから食…

あなたが憎くはないけれど

この世には暗黙の了解とされることがたくさんある。彼女はそのルールをこまかく読むことのできる人間である。職においては短いスパンで客先に常駐し、大量の聞き取り調査を実施し、その場その場の暗黙のルールを察知する。暗黙のルールはだいたいの場合、職…

かわいいを作れない

彼女は美容師である。都心の、美容室とギャラリーとファッションブランドが延々と並ぶ街で働いている。彼女のキャリアは結構なものだし、料金も高めなので、主なお客は二十代半ばから三十代の、美容に関心の高い女性だ。キュートなスタイルが得意で、美容室…

野蛮な風穴

この世には私の知らない複雑なルールがあり、みんなはそれにしたがって事を運んでいる。法律や規約なら書いてあることを読めばよいのだが、そういうのではない。「空気を読む」みたいなやつである。私にはそれが見えない。だからルールを知らないまま、見よ…

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羽鳥先生は静かに暮らしたい

わからない、と同僚が言う。そう、と僕は言う。そして説明をはじめる。僕にとって、わからないのはぜんぜん悪いことではない。その理屈はわからない、というならより多くの説明があればいいのだし、その感覚はわからない、というなら双方が「そんなものか」…

プリキュアになれなかった女の子

世のため人のために働くんだと思っていた。わたしは無邪気な自信家だった。将来はずっと口を糊することができると信じていて、それ以外の余剰があって、それでもって人に尽くすんだと思っていたのだから。高校生になっても、大学生になっても、なんなら社会…

バグ対応にストーリー

何かから逃げている。何かはわからない。でも逃げている。そのような感覚をずっと持っている。物心ついてからずっとある気がするけれど、強くなったのは高校生のころだった。そのころから、「逃げている」という感覚にとらわれると生活できないとわかってい…

劇場から出ない

だって仲良くなって何度かおたがいの部屋に泊まった相手なら、部屋の中を下着でうろうろするものでしょ。 私がそう言うと彼女は完全に沈黙し、それから、ほう、とつぶやいた。そのつるりとしたひたいに「保留」と書いてあるかのようだ。インテリジェントな人…

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夫が病気になったので

朝はテレビのニュース番組をつけっぱなしにして、見ていたり見ていなかったりする。わたしの家の朝の日常的な光景だ。夫は決まってトーストとコーヒー、わたしはそれに加えてヨーグルトかチーズを食べる。トーストを焼くのは夫、コーヒーを淹れるのはわたし…

夏の子ども

巨大で清潔で管理された水たまりに行った。凶暴な日差しが濃い影を作る水辺、といったら楽しそうだが、なにしろ膝までしかない水たまりなので、それだけあっても楽しいものではない。幼児を解き放って水遊びさせるための設備だ。プールより手数をかけず安全…

折り返し地点の転倒

寝苦しいのは冷房のせいだと思っていた。このところの気温の高さで、眠るときにも冷房をつけたままにしているからだ。でもそうではなかった。うとうとし、何度か目が覚め、そのたびに「悪い夢を見ているんだな」と思った。そうして何度目かに認めた。これは…

バスタブの桃

丸ごと皮を剝いた桃を片手に湯船につかる。指の腹に果汁がじんわりしみる。肩から下の温度を感じながら白い桃を眺める。それからがぶりと噛みつく。わたしが動くと湯気がぼわりと揺れ、浴室に桃の匂いがたちこめる。入浴剤ともハーブのオイルともちがう、気…

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関係のない人

業務用のソフトウェアを企業に売る仕事をしている。わたしの所属する会社がそのソフトウェアを開発しており、わたしは営業である。ソフトウェアの使用を検討している会社に出向き、彼らの話を聞き、マッチしているようなら導入のための計画を立て、導入に障…

分散派の言い分

彼女には恋人がふたりいる。恋人がいない期間もある。恋人がひとりだけということはない。生物として活性化すると恋をするので一人では足りないのかな、と思って話を聞いていた。でもどうもそうではないようなのだった。彼女は恋をするとあわててもうひとり…

人格を売る

医者だから高潔な人格者だなんて今どき誰も思わないって、わたし、思ってた。医学生のとき。だってそんなわけないじゃん。わたしたちはただの、そこらへんの、生きるために仕事してるだけの人じゃん。でもさあ、医者は特別にきちんとした立派な人間だと思っ…

八木さんのこと

わたしの仕事を非難するとき、八木さんは必ずわたしの名を呼んだ。ーー藤井さん。独特の間をあけて、ゆっくりと発音するのが常だった。わたしの胃はひゅっと縮みあがり、冷や汗がどばっと出る。今度は何をしでかしたんだ、と思いを巡らせ、ああしておけばよ…

弱者になれない弱さ

目の前の男はぜったいに困っているはずだ。あらためて、そう思う。どう見ても彼のできる仕事がないからだ。以前のことは知らない。合併前は別会社にいた人だし、仕事上のつきあいもなかった。推測するに、そもそもあんまり仕事ができるほうではなかったのだ…

執着の技術

半年前に知り合った女の子がいて、いいなと思って、もう大人だから女の子って言うのもなんだけど、でも、僕やマキノさんに比べたら若い人ではある。ちゃんとしてるんだけど、どことなく不安定で、脆い生き物という感じがして、でもとてもエネルギーのある人…

幸福な水槽

老けたね。まあ、わたしもだけど。おばあちゃんの葬式以来か。十年前、いやもっと経ってる。わたしの子ども?元気だよ。旦那も元気。みんな、ふだんはあんたの存在とか忘れて暮らしてるから、だいじょうぶだよ、あんたは今までどおり、好きにしてなさい。は…

いいから主語を拾ってこい

好きなんじゃないかと思うんですよ。 隣のテーブルの男の声を拾い、私はぱっと耳をそばだてる。私はあまり耳がよくないんだけれど、隣のテーブルの会話を拾う能力はやけに高い。下世話なのだ。覗き趣味があるのだ。独裁者になったらすべての人にできるだけ自…

素朴の義務

警察官の姿が見えた。ひやりとした。話しかけられたら東北弁で話そう。 そう思った。何か悪いことをしていたのではない。自宅の鍵を部屋に忘れて入れなくなっただけだ。オートロックでたまにやっちゃうやつ。鍵を忘れて出るくらいだから、そもそも鍵をかける…

ときちゃんの死なない工夫

ときちゃんはこのあいだ四十三歳になった。一年九ヶ月の無職期間を経て派遣社員として働いている。長々と休もうが満期を待たず辞めようが次の仕事があるのはときちゃんにそれなりの能力があるからで、ときちゃんはそのことをうっすらと自覚している。でもそ…