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傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

義務と娯楽

お疲れ、と言う。つかれた、と彼女は言う。教科書どおりの膝下の礼服を着て二重のパールのネックレスをさげ(一重でないのは弔事でなく慶事であるというコードのひとつだ)、よく見れば生け花としてはやや前衛的に配した生花を胸につけている。 そのコサージ…

彼女の失敗した結婚

わたしの結婚はねえ、と彼女は言った。失敗だったわよ。なくてもよかったものだったのよ。仕事だってそう。わたしはちょっと美容院をやって景気のいいときに土地を転がしただけよ。かれはかれにしかできない仕事をしたから、わたしよりはましね、でもたいし…

人格の責任

名家というのが今どきあるかは知らないけれども、歴史と伝統と家業と土地と財産のある家なら知っている。知っているというか、わたしのクライアントに複数そういう家がある。わたしは出入りの業者のようなもので、ただしその出入りは不定期だ。 本家だの分家…

愛がなくては住むところもない

また拾ったの。私のその発言は質問ではない。確認だ。友人が相続した細長い建物の、その一階は元工場で、いまの季節は事務室だった空間に灯油ストーブを常時稼働させてようやく適温になる。居住性が高いとはいえない。その一階に友人が布団を出して寝泊まり…

愛と希望が救えないこと

わたしは愛と希望で満たされている、のだそうだ。たぶん息子ふたり、夫(むかしは恋人)、あと両親と妹を指しているんだと思う。あるいは仕事があるという意味かもしれない。 今、ぜんぶ、どうでもいい。 わたしたち夫婦はどちらかになにかあっても子を育て…

買母の量刑

ただいまあ、という。おかえり、と返ってくる。週に一度はあまり残業をせず、夕食といってよい時間帯に帰ることにしている。月に何度かは作りたてのごはんを出したいという母と、疲れたら作りたてのごはんを食べたいというわたしの思惑が一致して、なんとな…

孤独死OK、超OK

いつもより早く起きる。川を渡り、友人の家まで歩く。友人の犬を連れて河川敷を走る。犬は往復の道で私を先導し、ときどき私を振り返り、信号ではぴたりと止まる。引き綱をつける必要もほんとうはない。でもつけてほしいと飼い主は言う。顔見知りじゃない人…

飛行機とサンダル

取引先での会議がいつになく長引いた。彼は腕時計の盤面を視界の端でとらえ、直帰、と思う。よく来る場所だから、道はもう覚えていて、通り道も固定されつつあった。でも、と彼は思う。今日は、帰ってすぐ寝るような時刻でもないから、ちょっとうろうろしよ…

つまらない顔

年に一回、化粧品を買う。毎日きちんと化粧をするのではないから、スキンケアと日焼け止めと粉は買い足すけれども、色を塗るものは一年保つし、なんなら余る。なにごとにも流行はあり、最新の、とは言わないけれども、年に一度、簡易なメイクとフルメイクを…

明るい人の明るい理由

あけましておめでとうございます。あ、アウトだ、これ。 渡部さんがそう言い、私はあいまいに笑う。視界に入っている他の二人も、おそらく同じような表情をしている。私たちは社内読書部(会社非公式。活動内容・ときどき都合のついた者が集まってランチ会ま…

背泳ぎができるようになった話

背泳ぎができないと思っていた。 十九のとき、つきあいでプールに行ったら、予想に反してひどく楽しかった。すぐに競泳水着を買い(つきあいで行ったプールではひらひらしたのがついたセパレートの水着を着たのだけれど、本気で泳ぐためのものではないことは…

アレルギーかもしれないので

乾燥ですね。医師はそう言い、わたしは、はあ、とはい、の中間くらいの声を出す。それから尋ねる。病気じゃあないでしょうか。アレルギーとか。アレルギーはありえます、と医師は言う。とくに、職場や住居など、よく身を置く環境が変わって皮膚にこういう、…

まず、ストレスを与えます

そうしてそれを解消します。あたかもその人が「自分で解消させた」かのように。 私はちょっと困惑し、一秒後にはすっかり感心して、口を半開きにしたまま、彼女のせりふの続きを待っていた。それから気づいた。あ、今のもですか。彼女はうっそりとほほえんで…

無駄のない生活

僕の生活には無駄がない。 朝は五時に起きる。ごく軽いストレッチと筋力トレーニングを済ませ、シャワーを浴び身支度をして部屋を出る。僕の住んでいるマンションでは二十四時間ゴミ出しを受け付けてくれるけれど、その恩恵にあずかっているのは僕というより…

親になったらわかること

親になったらわかるって、言われるんですけど。若い部下が言う。彼は名を山田といい、たいへん優秀であって、しかしかなり繊細であり、私はよく彼の悩みごとなどを聞く。夜の、人のすくなくなったオフィスで、なんとなく開始した休憩の途中、複雑な家庭の事…

私の職場の亡霊の話

帰ったふりしてオフィスにいちゃだめ。仕事の持ち帰りも禁止。社外でのメールチェックも控えるように。あと有給、最低でも三割は消化して。言うこと聞いてくれないと、僕、泣いちゃう。 上長がそう言った。私が言われたのではない。私は頼まれなくても有給休…

心めあて

忙しいのに来てくれてありがとうと僕は言う。それから、どうしてと訊く。こんな時間に来てもらうなんてあきらかに僕のわがままだよね。どうしてそんなに甘やかしてくれるの。 僕はそのようなせりふを、できるだけ軽く発する。あなたに気に入られようと思って…

夢の腐敗

わたし、夢がないんです。彼女はため息をついてそう言った。そうですかと私はこたえた。それは夜に見る夢ではなく、「きりんになりたい」とか「マラソンでサブスリーを達成したい」とか、そういう夢でもなく、「将来就きたい具体的な職業がない」という意味…

被差別売ります

もてるよねえと女たちは言う。可愛いものねえと私も言う。そんなことないですよおと彼女はこたえる。その回答はありふれているのにとても愛らしく、ちょうどいいタイミングで、ちょうどいい視線とともに発せられる。私は感心して、それから、言う。ねえ、も…

信じてなかった。愛してた。

信じてたのに。隣の部署で働いている社員が悲痛な顔をし、ため息をつく。その発言により、会社の飲み会の一角が「妻に裏切られた彼をなぐさめる会」としてセッティングされてしまい、私はどうやって離脱しようかと思案する。 妻は家事をするもの。育休中なら…

頭のなかの寄生虫

おめでたー?ね、そうでしょ、おなかちょっと大きくなってきたわね?はじめは辛いわよねー。気をつけなきゃいけないことも多いし! テーブルをはさんで対面している取引先から裏返った声が浴びせられて私はとっさに当たり障りのない表情をつくる。いいえ、と…

あなたに話しかける資格

これは、仕事ですか。 いい質問ですね。僕は仕事ではないと思っています。あなたは? わたしはわかりませんでした。言わずもがなでなんとなくお酒の席にいるのもいやでした。だから訊きました。 当然の質問です、「このあと時間ありますか」って訊いたの、僕…

邪悪

子の保護者と思われる女性が子の髪をつかみ強く揺さぶった。あんたは、あんたは、と女性は叫んだ。比較的すいた、平日昼間の電車のなかでのことだった。車内には私をふくめ、仕事中の移動と思われる格好をした大人、学生らしき若者、老夫婦などがいた。全員…

琥珀を削る仕事

学生時代にときどき、出版前の原稿に赤ペンを入れるアルバイトをしていた。最初は誤字脱字の修正を頼まれて、そのうち用語の統一や読みやすさに関する提案も入れるようになった。自分の専門に近い(いかにも売れなさそうな)書籍について、誤字脱字の修正を…

大人になれば世界は

目を閉じて、ひらいて、そうして同じものが見えることを、いつも不思議に思っていた。世界がなくなっていない。それはとてもおかしなことであるように思われた。私にとって世界は、またたきのあいだに反転していてもおかしくはないような、あやういものだっ…

恋愛前夜

その日はやけに酔った気がしたし、なにかしら不快にも感じられ、帰るなり浴槽に湯をためてじっくり浸かり睡眠導入剤を服んで眠った。いつも薬を使うのではない。眠れない予兆があるときに使う。自己管理というやつだ。 起床すると頭に煙が詰まっているようで…

手札を並べよ

なあ、焼豚。その場に集まっていた友人のひとりが言った。学生が「起業するから大学を辞めます、起業の内容はこれから考えます」って言ったら、どう回答する?つまり、教授として。教授じゃない、と焼豚は応えた。准教授。 焼豚というのはもちろんあだ名だ。…

愛することなく愛されるということ

連絡先を流し見る。しばらく連絡していない相手を選択し、定型文をコピー&ペーストする。さまざまなアプリケーションでそれを繰りかえす。一日程度のあいだに、ぽつりぽつりと返答がある。もちろん半分以上の連絡先は沈黙したままだ。 誰かが僕の近況を訊く…

ジェントルマンの憂鬱

新しいパターンですね、と私は言った。彼は小首をかしげ、コーヒーをのみ、それから、どういうこと、と訊いた。間を置いたのは訊かなくても勝手に解説するのを待っていたのだろう。 大量の同期がいるわけではないので、入社時期が近いと社内での距離感も近い…

僕のために泣いてくれ

ねえ、マキノさんは、唐突な恋って知っている?つまり、相手のことをよく知らないのに、風景から浮かび上がるように誰かを見つけてしまうようなこと。そうしてその人がわたしの手を取ってくれるようなこと。 私もそれなりの年月を生きているから、うん、そう…

幸福に帰る

重いでしょう、と彼女が言う。重いねと私はこたえる。ごめんねと彼女が言う。誰かに聞いてほしくて。ひとりじゃ受け止められなくて。 こういう会話は何度目だろう、と私は思う。何十回もしたと思う。私は、人の話を聞くのが好きだ。何を聞いてもおもしろがっ…

「尊い犠牲」候補の反乱

わたしはその映画、気が進まないな。評判がいいのは知ってるけどね、うん、できがいい悪いじゃなくて、おもしろいおもしろくないじゃなくて、わたし、なんていうか、パニックものの映画、観たくないの、あんまり。怖いんじゃなくて、えっと、怖いのかな、怖…

JR恵比寿駅23時36分の狼煙

どうしてこんなところにいるんだろう。そう思う。自分も、向かいの人も。どうしてもこうしても、仕事上の必要がない相手を食事しようと言って呼び出したんだから、当たり前に適当なものを食ってるんだけど、お食事をしませんかという誘い文句の目的が食い物…

わたしたちの不合理な取っ手

エスプレッソを考えたイタリア人は偉いですね。偉いですよね、こんなに美味しいんだものね。でもこのカップは最悪、あきらかに持ちにくい、とくに、取っ手の穴、圧倒的に、意味がない。たしかに、指は入らないですね。そう、指が入らないんだから、耳たぶみ…

僕の大嫌いなブス

僕があの人を好きだったのはあの人がブスだったからだ。当の本人が、あっけなく、「きゅうりはみどりいろ」と言うみたいに、「わたしはブスだ」と言っていた。 あの人は大学の先輩で、まわりにいつも誰かがいた。僕は馬鹿じゃない。趣味も悪くない。本だって…

わたしの仕事

夫の転勤にともなって会社員を辞めたあと、大学で専攻していた分野に関連するライターを始めた。独身のころに何度か書いたことがあって、運良く継続的な原稿の依頼をもらえたのだ。ありがたいことにその後、別の媒体からも同様のお話があったけれども、子ど…

愛のもたらす具体的な効用

痛み止めを使えばすべての痛みが取れるのだと、ぼんやり思っていた。市販薬ならいざしらず、入院して病院で入れてもらうような痛み止めが効けば、苦しくないのだろうと。でもそうじゃないみたいだった。考えてみれば当たり前のことだ。解熱剤があれば熱が出…

屋根裏の奥の箱

うん、今日は女子会だから、じゃあね。前を歩きながら夫と通話していた友人のせりふが私の横を過ぎ、雑踏に消えていく。私は首をかしげる。女ばかり三人で週末の夜を過ごすから女子会というのだろうけれど、そもそもどうして性別で区切るのかわからない。友…

1/103の人間

あの映画、観たよ、人工知能の、おもしろかった、チューリング・テストって教科書に載ってたよね、懐かしい。そうだっけ、学生時代とかよく覚えてるな、思えば遠くに来たもんだ。十数年後にもこうやってしゃべってるなんて、ねえ。まともに話す相手なんかそ…

線形の報酬に関する問題、あるいは努力の正しい報われかたについて

あの、わたしの、彼氏、マナブさんていうんですけど、サネヨシマナブさん。彼女がはにかんで言い、空中に文字を書く。サネヨシさん、と私は繰りかえす。ちかごろ私の部下の若い女性たちのあいだで交際している相手のフルネームを告げるという妙な流行があっ…

ごく普通の家族の話

そうだこないだわたし養子に入ったの。うん、母が、わたしと妹ふたりに、死んだら貯金とかくれるっていうからさあ。そう、父の再婚相手。正確には再々婚相手。あ、そのあたり話してなかったっけ。 わたし七歳で実母を亡くしてるの。わたしと上の妹を産んだ母…

成熟と腐敗のあいだ

中年の危機かな。そう言ってみると友人はなんとなし上を見る。中年男が若い女の子とつきあうのって、そう呼ばれるんじゃないの、と僕は尋ねる。俺まだいける、みたいな、そういう欲望。友人は、うぅん、というような、否定とも肯定とも取れない小声を返し、…

「普通」審判への異議申し立て

マキノさんのとこは女子が優秀だよね。あー、成果出てますよね。やっぱりリーダーが女の人だとやりやすいのか。うちの会社もね、もっと増えるといいですよね、あとに続いてくれると、うん。ええ、たしかに。ねえ。あとは彼、ほら、二年目の。山田くんか。そ…

犬は老いても撫でれば喜ぶ

いいよ、と彼は言う。苦笑している。子どもじゃないんだから。彼女は適切な返事を思いつかず、あいまいに笑う。手の位置なんて、ふだんは意識しない。だからすこし困って、だらりと垂らした。子はちかごろ夜に起きることがない。うちの子はもう赤ちゃんじゃ…

目明きの恋

彼、才能ないから。友だちが言い切って、私はははあ、とへんな声を出す。それからなんとなく左右を見る。どうしたのと彼女が言う。私はもぞもぞと訊きかえす。いや、なんていうか、あなた、彼のこと、好きなんだよね。彼女はうなずき、それから眉を上げて言…

私のためにほほえまないで

職場の上長は有能であってほしい。それはもちろんのことだけれども、恐れ戦くほど有能じゃなくてもいい、私は思う。有能さと機嫌のよさの総計が高いほうがいい。どんなに有能でもやたらと不機嫌な、情緒の安定していない人のもとでは働きにくい。そう考える…

泣き虫、けむし

いつも笑われていた。だから物心ついたときには、隠すことに力をそそいだ。誰にも見られないところで、ひとりきりで、這いつくばって手早く済ませる。僕は早くから、そうしなければならないことを知っていた。嘲笑の要因をなくすことはできなくても、隠す技…

寄付への欲望

個人が個人にカネをやるのは精神的に負担が大きい。もらうほうにとってもあげるほうにとっても、なかなか危険なおこないだと思う。そう、あげるほうにとっても、実は負荷のあることだよ。自己評価が下がることもある。え?うん、まあね、あるよ。生きてれば…

人にカネをやるとはどのようなことか

彼はたいそう軽蔑したまなざしで私を見下ろし、キモ、とつぶやき、それから、やるの、と訊いた。エサ、やるの。私は先ほどから地面にかがみこみ、でれでれと猫をなで、気味の悪いことばづかいで話しかけている。そのようすがキモいことはまったく否定しない…

飛び込み営業スクリーニング

最初は、電話とか要らないと思ってた。固定電話。要らないじゃん。僕は要らない。でもうちの会社には要る。ファックスもある。この業界でもいまだにファックス使う人が残ってる。だから固定電話なんかもちろん、ぜんぜん現役だった。自分を標準だと思っちゃ…