身のまわりで生成AIが話題なので、会う人会う人に「AIに何をさせている?」と尋ねている。
わたし自身は仕事に使用している。大雑把にいって、わたしにとってのAIは、スケジュール管理ツールであり、検索エージェントであり、資料作成補助アプリであり、翻訳機(自然言語においても、コンピュータ向けの言語においても。生成AI向けプロンプトも生成AIに作成させている)である。
便利だが、便利である以上のものではない。
そう、と友人が言う。
この人はもともと犬友である。犬の散歩で知り合う相手をそう呼ぶのだ。だいたいは犬の名前しか知らない程度の距離感でたがいの犬をよきに計らうのみだが、稀に個人として仲良くなる相手がいる。
彼女はその数少ない相手だ。彼女の犬はドーベルマンをいくぶん小さくして和風に傾けたような外見の元野犬で、ふるまいに独特の思慮深さを感じさせる。わたしもわたしの犬も、彼女の犬を好きである。それでたまにその犬の部屋に遊びに行く。
犬の部屋というのは比喩ではない。人間のほうの友人は二階建ての二階を住居にしていて、一階が仕事と犬のための空間なのだ。「犬もわたしも一人の時間が必要なタイプだからね」と彼女は言う。贅沢である。
しかしお金持ちではないのだという。実際のところ、彼女は身なりにかまわないたちで、部屋のようすもどことなく荒涼としている。一階にはピアノとキーボードとPCがあって、本人は「ピアノの先生だよ。大手の教室に雇われているんだ」と言うが、そのほかに作曲やアレンジ、演奏の仕事もあるようだ。芸術家である。
仕事部屋の隅のPCを見ながら、AI使ってる、とわたしは尋ねる。
使っている、と彼女はこたえる。でもまだそれほどではない。わたしがやっているようなサービスでは、人間に教わる、人間に作ってもらう、人間に手をかけてもらうことを重視する人が、まだ多いから。今のところ、本来の仕事に付随する事務的なやりとりや社交をAIにやらせたいと思っている。つまり社会を。
社会を、とわたしはつぶやく。社会を、と彼女もくりかえす。彼女の声は低く、愛想のすべてを置き忘れてきたようなトーンなのに、ひどく明瞭に聞こえる。声楽もやっていたのか、今度聞いてみようと思う。
昔から、面倒でね。
人の気持ちがわからないということはないよ。自分が周囲と比べてどこがどれだけ変わっていて、どこがどれだけ変わっていないかも、わかっている。でもいちいちその差を慮るのは疲れる。
自分にとって重要な人間が、この世にどれほどいる? コストを投下して個人として扱いたい人間なんて、そんなにいやしないだろう? わたしには都度、三、四人しかいない。
パターン化した会話で問題ないんだよ、大半の相手の、大半のシチュエーションではね。わたしがものを考えて心を動かす必要はない。状況と文脈を押さえて自分の立場を反映した返答を生成すればいい。大半の人間はそれで満足する。だって、彼らもわたしを重要視していないからね。
人間のコミュニケーションの大半は、相手が人間じゃなくてもいいんだよ。
昔からそう思っていた。
生成AIには、今はテキストでのコミュニケーション内容を出力させている程度だけれど、そのうち音声もやれるようになるだろう。早くそうなってほしいと思っているし、仕事上のコミュニケーションと義務的な社交の大半を代替してくれたら最高だと思っている。
「社会」が嫌いなの、とわたしは尋ねる。
わたしがAIにやらせているのは文字どおり機械的な作業である。それで浮いた労力をどこに回しているのかといえば、たぶん対人に回している。わたしは顧客にも上司にも部下にも以前より細やかに対応している。そうして、早く仕事を終えて帰れるぶんの時間を家族や友人との関係に投下している。
そのように話すと、彼女は笑って、そこだけが別の生き物のように動く、不気味で美しい手でもってわたしを指し示し、社会性がある、と言う。生成AI時代に求められる人材だ。人間にしかできない仕事、ワーク・ライフ・バランス。
わたしはそのことばに反応しない。もう一度たずねる。
「社会」が嫌いなの?
彼女は言う。
好いたり嫌ったりする価値を感じない。わたしが生きるための条件を提示してくる「環境」だと思っている。カネを稼いで冷房を買って部屋を冷やすように、対象を理解して働きかければ改善できる環境。わたしにとってはね。そうして、浮いた時間は犬とごろ寝してピアノを弾いて、そのとき一緒にいたい人とそのときしたいことをして過ごすよ。つまり、動物をやる。