筋トレを減らして走ろうかな、と思う。
中年期の身体メンテナンスとして週二回ほどマシントレーニングを続けて二年ほど、ふだんは一人でやっているのだが、トレーナーに状態を見てもらった。そうしたら、「特別なスポーツをするのではない中年女性としてはじゅうぶんな筋力があり、バランスも悪くない」とのコメントを得た。
そしたら筋トレ減らそうかな、と思った。だって筋トレが楽しいと思ったこといっぺんもないんだもん。老化して筋力が落ちたからしょうがなくやってて、なんなら「加齢にともなう税」って呼んでるんだもん。ほら昔あったじゃん税を労役で払うやつ。そんで他の運動をしたい。もっと楽しいやつ。
他のって、何を。
そう思って、ないかも、と気づいた。
ときどき区民プールで泳いでいて、これは端的に気持ちいいから好きなのだが、飽きてもいる。もともと泳ぎが大の苦手で、大人になるまでクロールができず、平泳ぎ一辺倒だった。今でも九割平泳ぎである。そりゃ飽きる。
運動の手持ちのカードが貧弱すぎる。このままで長い中年期を健康に過ごせる気がしない。
同世代の友人の中にはヨガをやっている人が幾人かあるが、わたしはヨガとはあんまり気が合わない。ヨガそのものではなく、ヨガに付随するさまざまなイメージと気が合わないといったらいいだろうか。いや、おしゃれで素敵だと思うんですよ。ただね、わたしの個人的な指向として、その周辺に疑似科学とかある種のスピリチュアルとかの気配がちょっとでもすると、「うへえ」ってなっちゃうんです。ヨガに罪はないです。
他の友人たちにどんな運動をやっているか尋ねてみると、「これまでもしてこなかったし、これからもしない」との堂々たる回答、「散歩をしている」という枯れた回答があった一方、なんかすごく運動している人もいた。キックボクシングで他人とスパーリングするレベルにまで達していたり、わりと難易度の高い山に登ったりしているのだ。いつのまに。
山登りをしている幼なじみが言う。
そしたら走ったらいいじゃん。わたしもしょっちゅう登るような時間はないから、ランで体力づくりしてるよ。あなた、走ることについては才覚があるはずでしょう。ていうか、他に才覚のある運動はないでしょう。球技は全滅、スキーやスケートもだめ、ダンスに至ってはこの世の終わりを連想させる。しかしどこまでも走る。メロスのように。そういう子だったでしょう。
言われて思い出した。
走ることはある時期までのわたしにとってあまりに当たり前のことで、「やっていた」というほどのトレーニングを受けたこともなくて、だから「運動」のバリエーションに入れるのをすっかり忘れていたのである。
中学校から陸上部に所属したのはどこかの部活に入らなければならなかったから、そして学校の体力測定の結果「陸上部で中長距離を走れ」と言われたから、さらにお金がかからなかったからである。一足きりの自分の靴だったスニーカーと体育で使うジャージで学校のトラックと河川敷を走っていた。文字どおりただぼけっと走って、たいしたフォーム矯正もされなかった。そんなに熱心な顧問ではなかったのだ。それで東京都大会まで行った。電車賃がかかるのが、少しいやだった。
そうして部活動が義務でなくなると、そのことをすっかり忘れた。
大人になって考えてみると、これはたしかに価値ある能力である。それで将来が開ける種類やレベルの能力ではないので、子どものころはどうでもよかったのだが、もうとうに大人で職があるから将来は開かなくていい。
友人が言う。
人よりうまくできることをやるのは楽しいものですよ。
友人が山登りをはじめたのは年をとってから才能が開花した叔母の影響なのだそうである。彼女の叔母は特段のスポーツ経験のないまま五十代の終盤を迎え、疫病流行下で退屈して登山をはじめ、あっというまに冬山だの山小屋連泊だのをやるようになり、先だっては剱岳から元気に帰ってきたそうだ。還暦を迎え余暇にまかせて百名山の九割を踏破、その間すり傷以上の怪我をせず、高山病にもなったことがない。
才能、と彼女は言う。それが大げさなら、素質。
叔母にそんな素質があるなんて周囲も本人もわからなかったの。なんていうか、夢のある話だけど、そこまでじゃなくても、すでにできるとわかっていることをやるのも、いいもんだと思うわよ。わたしは思うんだけど、若いころに誰にも見つからなかった、見つかってもすっかり忘れていた才能に戻って楽しむのは、年をとった人間の特権なんだよ。だってもう才能を使って何か役に立つことをする必要がないんだから。