Kは忙しい。Kは十歳のふたごの母親である。フルタイムの職を持ち、家事子育ては結婚相手と等分におこない、多くの友人と定期的な会合を持ち、かねてより「少なくとも年二回は家族とじゃない、友だち同士での旅行をしたい」と言っていた。
端的に言って無茶である。
しかし、Kのこの目標がかなわなかったのは子どもたちがゼロ歳の年のみだった。「あの年は一回しか友だちと旅行できなかった」とKは言うのだった。わたしはあきれて言ったものだ。決してトラブルのない出産ではなかったのだし、家も建てていたから、いつにもまして忙しかったでしょう、旅行どころじゃなかったんじゃないの。わたしがそのように言うと、Kは目を眇め、志の低いやつだ、みたいなしぐさをするのだった。
この人は、仕事をしていようが、出産で身体にダメージを負おうが、小さい子どもを育てていようが、個人としての生活を、なんというか、ほとんど高貴と感じられるような、強固な決意をもって守るのである。
私的な時間の確保のためにKが実行したのは親密圏の編集である。これはわたしの言葉遣いであって、Kに言ったら「変なことば」と笑われた。
Kは人生のさまざまな場面で知り合った友人たちを同じ場に呼び、うまくいったらメンバーを増やす、という手法をとった。わたしはKにとって学生時代の友人だが、そこに、たとえば職場で知り合った友人を呼ぶ。頻度は以前よりずっと低いが、学生時代の友人同士だけで遊ぶ場もなくさない。
結局、わたしたち学生時代組は、Kの(学生時代以外の)友人五名、うち二名の子ども、それにKの妹および妹の子どもと、ときどき行動をともにするようになった。もちろん常にフルメンバーなのではない。さまざまな組みあわせがあり、わたしがいないときもある。去年の夏には合計十五名で伊豆の旅館に泊まった。誰かが「バスを借りればよかった」と言った。わたしは笑って、それから海岸で遊ぶ同行者たちを見回し、「あながち冗談でもないな」と思った。大人九人子ども六人もいると、もう「団体」である。
可処分時間が減っても友だちづきあいをあきらめたくない、その気持ちはわかる、とわたしは言った。そしたら友だち同士を一緒にしちゃえば時間が圧縮できる、その理屈もわかる。わたしも新しい遊び仲間ができて楽しい。でも自分が同じように友だち同士を会わせるかっていうと、そういう気にはならない。「会ってみたら気が合わないこともあるよなあ」「だとしたら悪いよなあ」とか思う。そうやって気を揉んだことない?
わたしが尋ねると、ない、とKは断定した。「右を向いても左を見てもわたしの好きな人ばかり」としか思ったことない。
すごい、とわたしはつぶやいた。王じゃん。王のメンタルじゃん。
Kの理屈はこうである。
みんな大人なんだから、知らない人がいる場に誘われても気が向かなかったら来なきゃいい。来て、「あの人とは合わない」とか「子どもがいると面倒」とか思ったら、気に入る条件がそろってるときに来たらいい。それだけ。
王である。
このように大勢の人が来るとき、Kは自分の結婚相手をメンバーに加えない。「あの人もたまには子育てを休んで自分の友だちと遊んだらいい」と言う。
わたしはKではない学生時代の友人を幾人か思い浮かべる。
彼女たちは結婚式にわたしを呼んで以降、ほとんど必ず、自宅で夫とともにいる状態でしか、わたしに会ってくれなくなった。ほとんど、というのは、ときどき「来週、夫がいないからうちに来てくれない?」と呼ばれるイベントが発生するのと、一度「たまにはレストランで」と言われていそいそと出向いたことがあるからだ(もちろんレストランにも当然のようにその人の夫がいた)。
彼女たちとは自然と疎遠になった。
わたしは彼女たちが「家庭」を優先するのがいやなのではなかった。彼女たちがわたしに「会いましょう」と言うときにデフォルトで夫同伴であることが、どうにもいやだった。だって彼女たちの夫は、わたしの友だちではなかった。話していて楽しい人たちでもなかった。
「結婚ってそういうものだから」と彼女たちのひとりは言った。わたしは「あなたの結婚はそういうものなんだね」とこたえた。
あの人たちも王国をやっていたのだろうと思う。自分のルールで運営する自分の領域にゲストを呼んでいた。でも彼女たちの王国は居心地が悪く、Kの王国は居心地が良い。Kの結婚相手がいるときだって問題なく居心地が良い。Kの結婚相手と友だちになったのでもないのに。
さて、とKは言う。わたしたちの今年の旅行はどうしようか。もちろん大人だけのやつだよ。