住んでいる自治体の粗大ゴミ回収受付のウェブサイトを開く。少し前にリニューアルしてスマートフォンでも申込みがしやすくなった。しかしわたしはこうした作業はPCでおこなう。近ごろ老眼が出てきてスマートフォンでの細かい操作にストレスを感じるのである。
ログインする。スクロールする。いくつかの事項に同意する。粗大ゴミの品目を選ぶ。このたびはベッドである。買い替えのさいに引き取ってもらおうとしたら、希望の商品がウェブ販売限定で引き取りのサービスがなかった。それで区のサービスに申し込んでいる。ついでにパートナーが自分の部屋に置きっぱなしにしていた古いゴミ箱も、「そういえば捨てたい」というので手続きする。
新しいゴミ箱はこの家に引っ越してきたときに買っていたはずである。使わない物品を、なぜ何年もおきっぱなしにしているのか。というか、そもそも引っ越しのさいに不要品を持ってくるのはなぜなのか。わたしにはわからない。しかし、彼には彼の空間を好きに使用する権利があるので(なぜなら住宅ローンを半分払っているから)、とくに文句はない。
手続きが済むと、二人で共有しているGoogleカレンダーに排出日を設定し(運び出しは二人でやるのだ)、費用をGoogleスプレッドシートの家計簿に計上する。
彼は珍しい動物を見るときの顔でわたしを見る。ウッキウキだあ、と言う。わたしは架空のスカートの裾をつまみ、くるりと回って自分のご機嫌ぶりを示す。
そう、わたしはゴミ捨てが好きである。
不要と判断したものをできるかぎり早く、もっとも安価に処分する。そして不要品のスペースに家賃や住宅ローンを支払わない生活をする。それがとても好きなのである。
粗大ゴミを出すのはめったにないことなので、「捨て欲求」に火がついてしまい、そのまま自分のクローゼットをあけ、春夏物を前に出す。わたしのクローゼットは、元押し入れだったのを前後二段にポールを渡して収容量を増やしたもので、その一間に所持品の九割五分が入っている(残りは仕事用のデスクと玄関のコートかけ)。クローゼットの奥側のポールに季節はずれの衣類を置き、季節が来たら入れ替える。それがわたしの衣替えである。五分で終わる。
五分間の衣替えをする。
すると、前年の秋には「まだ着るかもしれない」と思っていた服の中に、あきらかにくたびれているものがある。気分でないものがある。
服は生き物だと、わたしは思っている。服は明確に死ぬ。他の誰かにとっては着られる状態だったとしても、わたしにとっては「死んだ」とわかる。
そいつらをゴミ袋にぼんぼん詰め込む。月に一度の古布の回収はいつだったかな、それまで玄関に置いておこう。
リビングのソファに座る。玄関にようすを見に行った家族が「なるほど服の入れ替えか」とつぶやき、わたしの顔を見て、「ツヤツヤしている」と言う。わたしは気分が上がると顔がツヤツヤするたちである。
いいことではある、と彼は言う。リビングや寝室がすっきりして僕も助かっている。元の状態がすっきりしていると散らかさないようにしようと思うからね。僕のものまで捨てる手続きをしてくれるのも助かる。
しかし、きみ、と彼は言う。
人間は所有物を自分の延長のように感じる存在でもあるのですよ。自分を際限なく拡張しようとするのも病的だけれど、常に最小にしようとする指向性も、ある種の不健康さを感じさせる。
おっしゃるとおりですねとわたしは思う。でも言わない。あまり意味をなさないたぐいのほほえみだけを返す。
わたしは、その気になったら今の生活をすぐに捨てられる、あるいは自分の意思で自分の存在を消す、「そのようにする自由がある」という安心感を撫でまわすために、ものを捨てる。「いま死んでも後の始末は簡単だ、安心、安心」と薄く感じる、それが気持ちいいのだ。
わたしの本来の指向性としては、一切ものを持たないのが良いのである。しかしそうもいかないので、いざとなったら便利屋さんに頼んで一日で処分してもらえるくらいの量なら所有することにしている。分譲マンションを買う気もまったくなかったのだが(だってすごく大きいじゃないですか)、わたしがいなくなったらわたしのローンの支払いがチャラになってマンションはパートナーのものになる、だからまあいいやと思って買った。それなら賃貸に住むのとそこまで変わらないもの。
死にたいのではない。毎日楽しい。健康に気をつけて長生きするつもりだ。
しかし、それはそれとして、わたしは自分がなくなる可能性を常に感じているし、それに恐怖しながら、望んでもいる。