服が嫌いである。
ファッションが嫌いなのではない。着るものを選ぶのは楽しいことだと思う。買い物も楽しむ。しかしその頻度は、おそらく非常識なまでに低い。
正確に言うなら、長時間にわたって服を着ている状態が嫌いなのである。
職場で許容される範囲の服を選んで八時間以上それを着るのは週に二日程度が望ましく、週に四日以上は苦痛である。休日に着飾ったら、外出は昼だけまたは夜だけがいい。通しで外にいるならうんと楽な格好でないとだんだんしんどくなってくるのだ。あと、メイクって五時間くらいたったら落としたくなりませんか? 私はなる。
身体に布とかがいっぱいついている状態が好きじゃないのだ。だからそれらの布などについて考えて選んで買うエネルギーも年に一、二回しか湧いてこない。
もっとも快いのは適切な気温湿度の中で全裸でいることなのだが、私にだって羞恥心はある。同じ空間に自分以外の人間がいたら自分に布をかけておかなくては落ち着かない。だから全裸生活は一人暮らしの自宅でしか実現できない。そしてある時、それは私の人生から消失した。
私は長らく、交際した相手との生活は半同棲を限度として同居を必須とする結婚などのオファーは断り、だからだいたい三年くらいで別れていたのだが、その理由だって、半分は「全裸可能環境を維持したいから」であった。しかし、全裸環境を捨てででも別れたくない人があらわれてしまったら、これはもうしかたない。そう腹を決め、それから、愛のために自由を犠牲にするとは、私もたいしたロマンティストだなあ、と感心した。
そのようにして私の純粋な自由は失われ、まぶたの裏にうつる遠い青春のきらめきとなった。
私はそうした環境の変化に合わせて綿や麻でできていてブラジャー(ああ、あの理不尽な拘束具! 夏場なんて不快な汗取りパッドでしかない)をつけなくてもOKな部屋着を探した。世の中には一枚で身体のラインをそれなりに隠してくれる楽な部屋着を売る企業がある。その事実だけでも私のような人間が大勢いることが推察され、心が慰められる。みんながんばろうな。
中学生の時分に資料集か何かで貫頭衣の図版を見たときのことを、私はよく覚えている。これがいい、と思った。これ着て登校したい、と。
そのころから「でかい布に穴あけたやつをかぶって生活したい」と思っていたのである。弥生時代の貴婦人の貫頭衣だとまだちゃんとしすぎている。もう少し身分の低い人はマジで穴あけただけの布だったと思う。私はそっちがいい。そうして暑いときには頭から水かぶって犬みたくブルブルして、それで済ませたい。そう思っていた。現在の部屋着のコンセプトは、この中学生のときの想像に近い。
職場についても同様である。とにかく四六時中まともな格好で職場にいなければならない仕事をしたくなかった。週に何日かの自宅作業が許される、あるいは楽な格好でいられる日がある職場が良い。
そんなわけで、多少給料が下がってもいいからそういう職場がいいと思って(もちろん他の条件、それこそ給与が上がるとかも含めてだが)、何回か転職して今に至る。そのように話したら、友人から「窮屈な格好をしなくていい時間を確保するためにカネを払っているようなものじゃないか」と言われた。
私は真顔で「カネを払えば原始人みたいな格好でいられるなら、払う」と言った。職場を選ぶよりカネを払うほうがずっと手軽だ。そちらのほうがいい。
友人がアホや、と言って笑い、それから、年間いくらまでなら払うか、と訊くので、五十万円、と回答した。足元を見られてもっと出せと言われれば百万くらい出しちゃうかもしれないけど、と思いながら。
給料より結婚より楽な格好するほうが大事だなんて、アホやねえ、と友人は繰り返す。この人はこの語を口にするときだけ、出身地のアクセントを使う。それから言う。
でも人生ってそういうものかもね。「絶対に地元から動きたくない、引っ越しすれば給料が上がるとしても動きたくない」みたいな条件なら珍しくない。自分の譲れない条件を自覚しているのは良いことですよ、あなたのはアホみたいな条件ではあるけども。
友人はそう言って笑い、それからちょっと黙って、もう一度口をひらく。
他人から見てアホみたいな条件を堅持するのは、それほどアホなことでもないかもしれないな。冬期うつの気がある人が日照時間の少ない土地に住むとか、どうやっても朝起きられない体質の人が8時出勤の会社に勤めるとか、そういうのが、本人の自覚もなしに人生をひどくそこなうことだって、ありそうだもの。