傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

首に値札がついていない場所

 いつも首から値札を下げて生きていると思っています。

 わたしがそう言うと先輩はわたしの語尾が消える前に口をあけ、それから閉じ、わたしが首をかしげて待っていると、もう一度ひらいた。そうして、この業界にいるからかねえ、と言った。
 わたしたちの業界では常に、個人の業績にある種の評点がつけられる。転職にあたってはそれがものをいうし、同僚同士でも相手の「点数」がわかる。任期つきのポジションも多いので、中年になっても「点数」に生活を直接に左右される人間が少なくない。
 そうでしょうかとわたしは言う。ほかの仕事だって誰かとの競争で雇用を手に入れるものだと思うけど。えっと、うちの業界でも、業績が高ければいいのではないという話ですか? たしかに、ポジションとのマッチングがいちばん大切だけれど、でもそのマッチングだって、点数化できるでしょ。今回のテストの基準、みたいな感じで。対人能力にも点数がつく。その合計でわたしたちの「値段」が決まる。そうじゃないんですか。
 先輩はため息をつく。そういう見方をすれば、そうだけどね。うーん、そうだな、そういう殺伐としたものの見方を隠しもしない人間は、「点数」が下がるよ。
 わかりましたとわたしは言う。

 まさか、プライベートでもそんな感じじゃないだろうね。
 先輩が小さい声で尋ねる。わたしは「言わないほうがいいのかな」と思って、なんだか面倒くさくなり、言っちゃうことにする。
 はい、そんな感じです。
 先輩は眉をへんなかたちにして、結んだ口をもごもごさせる。

 わたしはわたしの伴侶が「もっといい人がいたから」と言って家を出て行く可能性はいつでもあると思っている。わたしにもあると思っている。わたしは彼をたいそう好きだし(もう長いこと一緒にいるのによく飽きないよなと自分でも思う)、共同生活に満足しているけれど、それが絶対だとは思わない。新しい相手への欲望もないけれど、それが死ぬまで続く保障があるとも思わない。家族解散にともなう膨大な面倒ごとをなぎ倒すほどの「もっといい人」がいたら解散を希望するのは自然だと思う。彼も、わたしも。
 それは自分独自の点数表を持っていて、そこに相手をあてはめて、今のところいちばんいいから一緒にいる、ということではないのか。

 理屈じゃない、唯一無二の相手、ということはないの。代わりのきかないただ一人の人だと。
 先輩が尋ねる。
 いいえ、とわたしは言う。彼はわたしにとって、超レアではあります。出会えてラッキーだし、大切な人です。でも唯一無二とは思わない。彼という人はこの世にただひとりだけれど、彼以外がわたしのパートナーにならないということはない。唯一無二なんて、幻想だと思います。とくに恋愛経由の関係で起きやすいタイプの幻想。運命とかそういうやつ。あるわけないと思う。ひとりひとつずつ運命の相手が設定されている理由なんていっこもないでしょう。幽霊と同じで、信じたい人は信じたらいいし、人類に広く必要とされてきた文化的な装置だとは思う。でも弊害もある装置だというのがわたしの意見です。そしてわたしには必要ないです。
 そうか、と先輩は言う。そしたら、自分だけが稼げなくなったり、家の役に立たなくなったりしたら、点数が下がって、別れることもやむなしと思うの? 年をとって容姿が衰えた自分より魅力的な女性が、いや失礼、女性とはかぎらないけど、素敵な人があらわれて、彼と恋に落ちたら、「そうか」って思うの?
 わたしはちょっとびっくりする。そしてこたえる。そんなの、当たり前じゃないですか。

 「彼はそんな人じゃない」と言ってほしかった。先輩はそのように言う。なんか、すいません、とわたしは言う。先輩はカップルとかに幻想を持っている派なんだなと思う。他人の幻想を毀損してはいけないなと思う。でも訊かれたから答えたので、この場合はわたしも悪くないよな、とも思う。
 友だちも仲の良い同僚も、きみの中では、そういう感じなんだろうねえ。
 先輩が遠い目をしてつぶやく。もうしょうがないので、そうです、とわたしはこたえる。親しい友だちにわたしより優先したい別の友だちができたらわたしを疎遠にするのは当たり前である。相手の採点基準の中でわたしの価値が下がったら扱いが変わる。それ以外に何があるのかと思う。長年の付き合いというのも「点数」のひとつで、その配点がやけに重いのもあんまり好きじゃないなと、そう思う。
 先輩は目を合わせずに言う。おっしゃるとおり、カップル幻想なんていろんな意味で正しくはないよ。それでも僕は、首に値札のついていない場所は、あると思うよ。