友人がやって来る。店の入り口でわたしを探す。わたしは軽く手を挙げる。それから、お花、と思う。友人の背景にお花が飛んでいる。そんなふうな感じがする。昔の少女マンガみたいに。そもそも、待ち合わせのためのメッセージの文体が変わっていた。
これはあれですね。恋ですね。
そう思ってそう言うと、わかるうー? と彼は言う。照れ隠しの語尾が犬のしっぽみたく揺れてる。
ごめんね髭面のおじさんの恋バナ聞かせて。でも話すね。
おう話せ話せとわたしは言う。おじさんでもおばさんでもおじいさんでもおばあさんでも好きなようにやったらいいのよと言う。髭だって好きに生やすといい。
「おじさんなのに」という含羞を、わたしは嫌いではない。あんまりよくない感じの規範を内面化しているな、とは思うが、それはそれとして、「自分はこうでありたいと思ってやってきたのに、どうしてもそのようにいられないほど重大なことが自分に起きた」と思って、そうして自分の中の決まりごとからはみ出す、その様相は、味わい深いものである。格好をつけるのは、いざというときそこからはみ出すためだもの。
読んでいる小説などから推測するに、彼はとてもロマンティックな人物であり、しかし、そのロマンと本人の属性の相性があんまりよくなくて、人気があるわりに恋愛が長続きせず、それでもがんばって恋愛して結婚して、四年で離婚した。そうしてそれを「結婚に失敗した」と言っていた。
離婚は失敗ではないだろう。
わたしはそう言ったのだが、彼は「僕のは失敗だったんだ」と言い張った。
話を聞くだに、彼が結婚していた女性にはさまざまな要望があって、そのすべてをかなえなければならないと強く思っていて、彼女が決めた期限のあいだに子どもができなかったことが決定打になって離婚を申し入れた、ということだった。
そこまで愛されてなかったんだよ。彼はそのように話した。自分は彼女が「結婚」に求める条件を満たさなければ破棄される程度の存在だったのだと。
そうかなあとわたしは思う。単に相手の気が変わってあんまり好きじゃなくなっただけかもしれないのに、と思う。
でも言わない。
彼は離婚後、一人で楽しそうに暮らしていて、ときどき会っても浮いた話はしなかったのだが、四十代の半ばになって久しぶりに「恋バナ」をしたいのだと言う。
よかったなあ、とわたしは思う。
彼は有名な学校を出てよく知られた組織で響きの良い肩書きをもらっているので、若いころには彼の属性を好きな人が山ほど寄ってきた。わたしなどは「肩書きもモテのうち」と思うのだが、彼はロマンティストであるからして、属性を真っ先に見られることに納得がいかないらしかった。
そうして「この人は肩書きめあてじゃない」とのめり込んだ相手と恋愛して結婚して別れたので、「僕はもういいです」などと言っていたのだけれど、このたび何やら素敵な出会いがあったとのことで、よかったなあと思う。
いい年なので、と彼は言う。浮かれたくないんだけど、でもよく考えたらいい年だから浮かれていられるのかもしれない。相手も、自然に子どもができる年齢でもないし欲しいとも思っていないと、うん、そのように言っているんだよね、僕もそれは正直必要じゃないし、知り合った段階でお互い一人で生活してるから、何かしてあげなくちゃいけないってこと、ないし、理想の家庭みたいな夢ももう持ってないからさ、ただ浮かれてるだけなんだ。
よかったねとわたしは言う。
わたしは思うのだが、若いころの恋愛にはロマンの割合が意外と少ない。恋愛が結婚や出産と緊密に結びつくとされている年齢にあってそれを撥ねのける意思もとくにない場合、生活という要素がくっついてくる。自分が生活に求める条件をクリアした上でロマンをやろうとするから苦労するのである。
そうして、若いというのは、可能性があるということだ。だから多くの人は「恋愛」とか「結婚」とかのハコに大量の仕切りを作ってラベルを貼る。こういう人でなくては、こうしてくれるのでなくては、自分もこれくらいするのでなくては、何年後かにはこうなっていなくては。
タスクに次ぐタスク。大変である。
それに比べたら一人で楽しく生きているおじさんとおばさんの恋愛は楽ちんなのかもわからない。
よかったねとわたしは言う。それから、友人とその相手の人が「こうでなくては」合戦はほどほどにして(ゼロということは、たぶんないから)、ぽわぽわ楽しんでくれますように、と思う。