二日間の小旅行から帰ると、がじゅまるが死んでいた。
植物というのはこんなに見るからに「死んだ」状態になるのだなと、私は思った。もっとゆっくり死ぬものだと思っていた。二日前には枯れた葉を一枚取り、いつものように水をやって、それから出かけた。そのときはたしかに生きていた。
私がそのがじゅまるの鉢を手に入れたのは十二年ばかり前のことである。
大学の卒業を機に転居する先輩が食器やコーヒーメーカーをくれて、「ついでにこれをもらってほしい」と言うので、そのまま持って帰った。てのひらに乗る小さい鉢で、邪魔になるものでもなかったし。
私は大学三年生の終わりで、本来なら就職活動をする時期だったが、その就職先が、徹底してなかった。「希望の会社に就職できない」という話ではない。求人がないのである。日本にはそのような何年かがあった。
私はもともとフリーターのような学生だったので、「大学院に行けば時給が上がる」と聞いて行くことにした。時給が上がれば遊ぶ金が増える、と思った。
私たちの世代の多くがそうであるように、私もまた、時代の犠牲者として前後の世代よりずっと職に恵まれなかった、それはまあそうなのだが、ただし、私という個体は、その中にあっても、あんまり将来のことを考えていなかった。貧すれば鈍するというが、私の場合は、大学入学の段階から貧していて、ずっと日銭を稼いで暮らし、その結果おかしな自信がついて、「どうあっても食ってはいける」「だから好きにやろう」と思うようになっていたのである。こういうのも鈍の一種だろうか。
たぶんそうなのだろう。
野垂れ死ぬ気はしなかった。
がじゅまるは、そのような気分の象徴だった。
わたしは自活をはじめた十八から二十一の年までは、自宅に決して生き物を置かなかった。自分ひとりをどうにかできないかもしれない、野垂れ死にするかもしれない人間が自分以外の生命をなぐさめにするものではないと、そう思っていたのである。今にして思えば肩に力が入っていて、ずいぶんと可愛らしい。
その可愛らしさが変容したあたりで、その植物はやってきた。
二十二の私は、野垂れ死ぬことへの不安を払拭していた。いわゆる将来への希望はないがそれを悲しいとも感じず、洞窟みたいな安アパートで寝て起きて何か食べていればそれだけでわりと幸せで、人に殴られたらすぐに殴り返せるよう無意識に準備している、そういう人間に仕上がっていた。荒野で暢気に暮らす原始人みたいだった。がじゅまるは私がそういう人間になったことの、しるしのようなものだった。
しかし十年も経てば人間は「生き延びる」フェーズを終える。
就職難は過ぎ去り、私も同世代の友人たちもそれぞれのタイミングで職を得る活動をし、それなりの待遇を得ている。もう「生き延びる」ではない。「生きる」、できれば「よりよく生きる」をやる時期である。
私はその状況に対し、小さい不適応を起こした。
状況にかかわらず生活をきっちりやるタイプだったのに、どうにもそういう気になれず、食事をおろそかにした。旅行先はどんどんマニアックな場所になり、一人旅が増えた。しょっちゅう引っ越しをし、窓を採寸してカーテンを作るのが面倒で掃き出し窓につんつるてんのカーテンをかけ、小窓は段ボールで塞いでいた。
それからさらに十数年経った今からすると、そうたいした荒れ具合でもないと思うのだが、当時はそのような自分に狼狽したものである。
がじゅまるが死んだのはそんなときだった。
私は当時住んでいた自治体の規則にしたがってがじゅまるの本体と鉢をわけ、鉢を不燃ゴミに出した。本体は可燃ゴミである。
最後まで、てのひらに乗る、小さい木だった。鉢を変えたら大きくなるのかなと思ったこともあったが、植え替えに失敗したら枯れるのじゃないかと思って、怖くてやらなかった。それはそれで寿命を縮めるかもしれないと思いながら、しなかった。
がじゅまるはとても丈夫で、長く私の目を楽しませた。引っ越しのときにはいつも、ビニール袋に入れて手で提げて連れて行った。
私はどんなに大切にしていたものでも、捨てると決まればそのままゴミ袋に入れていた。しかし、と私は思った。これは生き物だ。生き物が死んだのだから、宗教的な儀式をしたほうがよい。
私はきれいな紙袋に枯れた木を入れ、リボンを巻いてラッピングした。可笑しくなってちょっと笑った。リボンは金色で、なんだかおめでたかった。
その後、どうしてか私は、「よりよく生きる」をやろうとする自分自身と、うまく折りあいをつけられるようになった。