インターネットにものを書いている人間ばかり数人で顔を合わせる機会があった。私はそうしたつきあいに疎いので、彼らに会うのは久方ぶりのことである。
うち一人が離婚したという話をはじめた。SNSでちょっと書いたけど、とその人は言った。えっと、いいかな、語っちゃっても。
私の目はその人からすぐに逸れた。その人の話に興味がないのではなかった。ただ私は、その人をより強く見る、もう一人の目に掴まれた。
彼は穏やかに頷きながら、目の奥に異様な色を宿していた。
私にはそれが空洞に見えた。育てる状態が整っているのに子の入っていない胎内みたいな、
男の人で、ティピカルな母親像にあてはまるような部分も見当たらな
そういうわけなんですよ。
離婚話が結ばれ、何人かが発言したあと、彼は控えめに声をかける。
では元の奥様と、また会う機会もあるんですね。
ええまあと、訊かれた人が苦笑する。紙切れの上で離婚したって、そんなにすぐに全部なかったことにはならないです。はは、わたしがこんなだから、結局のところ、心配してくれてるんですよ。
そのせりふを受けて、そうですかと彼は言う。いかにも「複雑な事情で別れた二人だけれど、憎みあっていなくてよかった」というような表情を浮かべている。その目の奥の、あの空洞は消えていた。
つまんなそう。
そう思ったら、彼はぬうと私に目を向けた。マキノさんともずいぶんご無沙汰していました。最近、いかがですか。
他の人はあと二組にわかれて話し込んでいる。私は彼を見て、言ってみる。相変わらずです。お好きそうな話のひとつふたつあれば、よかったんですけれど。
僕の好きそうな話?
彼は目を三日月のかたちにして訊きかえす。それってどんな話ですか?
喪失の話です、と私はこたえる。
私はけっこう長いあいだ彼の書くものを読んでいて、その嗜好は以前から感じていた。彼はちょっと変わった視点で世の中を見、あるいは周囲の人の話を聞いて、それらを題材に軽妙な雑記を書いているのだが、ときどきそこに、私が「喪失の話」と呼んでいるタイプのものがまぎれこむ。そしてその種の話は、彼の書くものの中で、特別に力があった。私は、ほんどそれを見つけるためだけに、彼の最初の書き物までさかのぼって読んだものである。
失われるものはさまざまだ。故郷の景色が理不尽に消える話。笑って手を振って別れたばかりの陽気な友人が誰にもわからない理由で故意にも思える死を迎えた話。ネイティブのように話していた日本語を唐突に話せなくなる、アメリカ出身の老いた親戚の話。たった一泊二日の旅から帰宅したら、十年をともにした観葉植物がもうずっと前に死んだような様子で枯れていた話。
なくす話が、お好きですよね。
私はとても小さい声で言う。さっきの離婚の話は、実は、なくしていなかったから、つまんなくなっちゃったんじゃないですか。
彼は笑う。そうしてやっぱり小さい声で、そんなことないですよと言う。でもまあ、あの語りは、後半、いかにも「なくしてない」って感じが強く出ちゃってて、それが好ましいほどには自己欺瞞を感じなかった、つまり本当はなくしていてもそれを認められていない感じも、あんまりしなかったので、ええ、まあ、好みドンピシャでは、ないです。
彼は言う。
僕は悲劇が好きなのではないです。人が傷ついていれば好ましいというのではないんだ。たとえばマキノさんだって相当しんどい目に遭っている。
うん、マキノさんはね、推測するに、生育歴上、いろんなものを与えられず、適当にサンドバッグにされてきた人でしょう。
立派だね。
僕は好きじゃない。
僕が好きなのは、素晴らしいもの、美しいものを、
いい性格をしている、と私は言う。いい趣味でしょうと彼は言う。それからちょっと信じられないことを言う。でも他の皆は、僕のもっと別の文章を良いと言いますよ。もっと洒落たのや、もっとエモいのがあって、そっちのほうが全然バズってます。
私はびっくりする。それから言う。「エモい」はもう古いって、こないだ若い子に聞きました。