傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

信仰への介入に関する個人的な基準

 わたしが近ごろ信仰について考えているのは、他人の信仰にどの程度介入するかに悩んでいるからである。この場合の「信仰」は伝統宗教新宗教にかぎらず、科学的根拠なしに人に何かをさせる、超越的存在を(暗黙理にでも)想定した言動をさす。
 典型的なものは「親が陰謀論にはまった」「極端な排外主義者になってしまった」というケースである。現在四十代であるわたしの親世代が高齢になり、新しいメディアを使って人を引きつけようとするいろいろな企みに対抗しきれなくなった結果だろう。わたしの父親も一時期危なかった。
 他人の信心は尊重したい。したいが、ではそのために自分の父親が延々と隣国ルーツの人を罵るYoutubeを閲覧している生家を許容しようと思うだろうか。これがお父さんの最近の信仰なんだね、とうなずくことができるだろうか。わたしにはできなかった。だからわたしは父親と対立した。母親には「ことを荒立てないでほしい」と言われたが、「人生には荒立てるべきことがあるのだ」と宣言しておおいに荒立てた。生家につくなり激怒して自分の家に帰ったりした。滞在二時間の帰省であった。それがわたしの「信仰」のありかたなのである。
 父親はそのうち「眼が悪くなった」という理由でモニタをあまり見なくなったそうで、少なくとも表面上は、元に戻った。わたしの説得が功を奏したとかではない。単に眼が疲れて飽きただけだ。ありがとう、父の老眼。

 占いやスピリチュアルにはまるケースもあって、こちらは同世代でよく聞く。わたしの直接の知人も二人そちらに行った。いずれも女性である。
 最初は「不思議なものが好き」という程度だった人が、しだいによくわからないことを話すようになり、それ以外の話がどんどん減って、しまいには交友関係をやっていられなくなる。「やっていられません」と言うべきなのか、その占いなり何なりに対する苦言を述べるべきか、けっこう悩んだ。
 盆正月に戻る、自分が育った家のリビングで排外主義コンテンツが流れているのではない。昔の知り合いが変なこと言っているだけだ。わたしがそういう人のいる場に行かなければ良いだけの話である。
 わたしはそのように判断した。
 一人は中学校のクラス、もう一人は高校の部活で一緒だった人なのだが、中学校のほうはたまに開かれていた同窓会を欠席してLINEグループを抜けた。高校のほうはその人自身が集まりから外れていった。
 これは彼女たちの信仰を尊重した結果といえるだろうか。わたしにはわからない。

 あなた三十代のころから同じような悩みあったじゃない。
 友人がそう言う。あったっけ、とわたしは訊く。
 あったよ。当時のあなたの受け入れられない「信仰」は殴る夫やよそで結婚している男にすがりつく女たちのものだった。
 わたしは少し驚く。そしてつぶやく。そうか、あれも信仰か。そして、わたしは「人間は殴られているべきではない」というような信仰に自覚的でなかったんだね。そうか。
 当時のわたしは自分の信仰に対する客観性がなく、「殴る男なんか悪いに決まってるんだから離れればいいだろう」と思っていた。
 殴る男なんか悪いに決まっている。そしてその相手と離れるかどうかはその人の自由である。殴られる女の話に耐えられないなら、わたしのほうから離れるしかない。だって世の中には、「男のいない女」になることを死にもの狂いで避けているように見受けられる女性たちがいて、彼女らはそれを愛と呼んでいて、ひとつの関係が終わっても同じような関係を繰り返し持つのだ。そして彼女たちにとって、たとえば殴る男との関係は同性の友人関係などよりずっと大切で崇高なものなのだ。
 今はそう思う。それが「彼女たちを尊重する」ことなのかは、まだわからないけれど。

 放っておくしか、ないのかねえ。
 わたしが尋ねると、友人はあっけらかんと言う。わたしは、「信仰」に遣うお金がその人の手取りの10%未満なら、放っておく。あなたのお父さんみたいに、単に飽きてやめることだってあるし。
 わたしはかなり驚く。手取り?
 友人はうなずく。そうだよお。お金って、だいじじゃん。あと、身ぐるみ剥がそうとする集団じゃなく、持続可能な集金をしようとする相手なら、まだマシじゃん。10%以上は取り過ぎ。あとはたとえば、子どもが犠牲になっているな、とか思ったら、けちつける。けど、この年になると、子どもがもう大きいか、いないかでしょ。だから取るカネで判断すればいいかなって。