傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

ヒマだから死について考える

 年に二回、わたしがいる意味がほぼない会議に出る。わたしには何の役割もなく、しかし一応は出るのである。直属の上司と一緒に出るのだが、上司にだって発言の機会はほぼない。別の人たちが準備してきた書面を読み上げ、皆で承認する。しかし実際には先に各自が別の会議で承認しており、その内容に変更はないのである。
 どの会社にもこういう会議ってあるんだろうなと思う。万が一何らかの変更があって、それを公式に止める機会がないと大変だから、わたしくらいの職位の人間までまとめて呼ばれるのだろう。
 でもたぶんそんなことは起きない。起きたら対処するが、その準備として必要なのは片耳と脳の片隅のみである。ヒマだ。また長いんだこの会議。そして手元にあるもは資料を表示するための会議専用のタブレットのみ。付属の資料を読み込もうとすると、議題が終わるたびに議事次第に切り替えられ、担当者の読み上げのあいだ、対象となる資料以外は表示することができない。
 ちなみに議題にはしばしば「別紙参照」が含まれる。参照させてほしい、別紙を。なんなら「資料なし」とだけ書いた紙(?)が表示される。文字が少なすぎる。四文字。四文字で何をしろというのか。わたしは文字列さえあればだいたい退屈しないので、時間に応じた文字数の文書さえあれば退屈な会議もウェルカムなのだが、それがもらえない。

 そうなるとまずは今夜または明日ないし明後日の晩ごはんについて考える。それが終わると今月の休日の予定について考える。それが終わるといま現在検討している買い物について考える(今回は自宅作業用のデスク。リモートワーク導入からずっとほしかった)。
 でもそんな考えごとはだいたい通勤路を歩いているときにやっているので、一瞬で終わってしまう。
 さて、とわたしは思う。会議、まだあと一時間はあるな。死について考えるか。

 わたしがそのように話すと、同僚はやや驚き、カジュアル、と言った。死について考えるのってそんなにお手軽な暇つぶしなの?
 子どものころはお手軽じゃなかった、とわたしは言う。とても怖いのに、死ぬということに否応なしに引きつけられて、すごく切実な動機でやっていた。でも四十何年生きたらねえ、もう怖かあないよ。生きてりゃ死について考えるからね、死についての想念は飼い慣らした野生動物みたいなもんよ。けだものだから油断はしていないけど、長年一緒に暮らしてて、もう家族みたいなもんよ。
 それならあなたは死ぬまで退屈しないね。文字通り死ぬまで。
 そう言われて、そうかも、とわたしは言う。頭の中ですることがゼロになることはない。少なくとも死については考えるから。もっとも、歩いているときや泳いでいるとき、寝る前なんかには、もっと現実的なことや、逆にもっとファンタジックなことや、あるいは抽象的なことが浮かんできて、それについてぼんやり考えている。死について考えるのは、身体が拘束されているときが多い気がする。
 そっかあ。
 同僚は言う。この同僚は「ふだんものを考えていない」のだそうだ。いくらなんでもそんなことはないと思うのだが、本人の認識としてはそうなのだ。「一人で内省する能力がない」と言っていた。ではいつものを考えているのかといえば、人としゃべっているときと、考える材料が目の前に資料としてあってアウトプットもできるとき、たとえば読書をしていてメモするものが傍らにあるとき、などだそうである。
 見ないとわかんない、と言う。迷子の子どもの顔して言う。なんもわかんなくなる。
 しかも読書はとくに好きでもなく、会話のほうがずっと好きなのだが、そんなに友だちがいないから、しょうことなしに本を読んでいるのだという。
 でも結局、読んだ本についても話したくなっちゃう。一冊読んだらもうだめ。話さないとそれ以上わかんなくなる。家族だって話し相手になるから作ったんだ。
 同僚はそのように言う。
 一人でいると頭の中がぐにゃーってなって、うわーってなって、ダメになる。その状態を「さみしい」って呼んでる。昼は仲良くしてくれる同僚をつかまえて仕事の話をして、夜は家族に仕事以外の話をして、休日は友だちに話をして、そうじゃないと身が持たない。
 いいね、あなたは、ひとりでも、ものを考えられて。ひとりで内省する力があって。今日の会議みたいな場でも、平気だし。

 世の中にはいろんな人がいるものだなあとわたしは思う。この同僚は、わたしなどから見たら、社交的で読書家で、友だちも多そうで、ご機嫌な人なのに。