卒業生が研究室訪問にやってきた。大学院進学を考えているというのである。
わたしが勤めているのはいわゆる研究大学ではなく、大学院進学者は少ない。たいていの院生は資格取得のために進学して、修士号を取って出ていく。
そんなだから、一度就職してから進学相談に来る卒業生は、実ははじめてなのだった。在学中から優秀だったが、就職してから自信がついたようで、ますます元気になっていた。進学は正社員身分のまま、自分のお金でしたいのだそうだ。
あなたは、うちじゃなくてよその院を外部受験するのがいいね、とわたしは言った。無理に今年受験する必要はないのだから、英語の点数をためておくと良い。
卒業生はその回答もある程度想定していたようで、候補の大学院のプリントアウトを出した。それらについてあれこれ話してから、卒業生は言った。先生個人は博士課程までを視野に入れて大学院進学することについてどう思いますか。先生ご自身が進路を選んだときの決め手とか知りたいです。
わたしはいくぶんためらって、それから正直に回答した。当面の食い扶持のために進学したんですよ、わたしは。
わたしが学部四年生のときの就職状況は荒野だった。就職氷河期というやつである。それで世をすねていたら教官が何人かやってきて、「大学院生はバイトの時給がいい」と言う。「都会のなるべく有名な大学の院生になれば食える」と言う。さらに、「研究者になれば経費で旅行ができるよ」と言う。
そんなうまい話があるかと思ったが、当面の食い扶持が稼げるのは魅力的だった。受験料も安かったので余所の大学院を受験した。
院生になってみると、たしかにアルバイトの時給は良かった。ティーチング・アシスタントとリサーチ・アシスタントで一人暮らしの家賃くらいは出た。あとは家庭教師をやって、当時人手不足だったSE的な仕事を、民間の会社からもらっていた。特段に技術力があったのではない。「できますか」と言われて「はいできます」と言ってからできるようになればいいのである。夜と休日にしか働かなくても楽々食べられて、遊ぶ金まで残るのだから、学部時代よりずっとラクだった。
博士後期課程に進んでからは、近隣のあちこちの大学の非常勤講師と技官のような仕事を兼務した。非常勤講師の給与は一般的には低いのだが、知名度が低いとされる私学の中にはかなり割高なところがあり、わたしには嬉しいことだった。その代わり情報処理実習ひとクラス二百人をアシスタントなしで担当するなどしたが。
仕事をくださいと言えばもらえたのは、たぶん貧乏だったからである。人さまの情けで働き口をもらって、それを悪いと思ったこともなかった。学費は大学院進学以降全額免除だった。
一般的には、来年度仕事があるかどうかもわからない状態で働き続けるのは耐えられないことなのだそうだ。先だって同業者がそういう投稿をしてバズったというので話題になっていた。わたしは少し驚いた。そういうのぜんぜん平気だったからである。
苦労してでも研究者になりたかった、というわけでもない。博士課程を出たあとに無関係の仕事をするのもいいねと思っていた。不景気の年に学部を出て、就職先がないから好きなことをして割高なバイトで生活しながら様子を見て、それをずるずると続けていただけなのだ。設備がなくてもできる研究領域の、しょぼしょぼした研究テーマなので、何なら私費でやるのもいいと思っていた。
民間のエンジニア系職種より授業をするほうが向いているなと思って、あちこちの教員公募に応募して、運良く就職した。
それだけである。
今は割高なアルバイトがあるかわからないし、学費も値上がりしているし、そうするとよけいに、食い扶持を稼げる人にしか進学を勧められないなと思う。あと資産家のおうちに生まれて家族がお金出してくれる人とか。
もちろん、その意見はまちがっているという人もいるだろう。わたしみたいなのではなくて、もっと優秀で、もっと情熱的に研究をしていて、もっと大学教員にふさわしい人がたくさんいると。
いるのだろうと思う。
わたしはそういった事情をあれこれ脳裏に思い浮かべながら、ごにょごにょと言う。院生しながら自分で食えそうな見通しがあって、なおかつある程度研究に向いている人なら、進学するのもいいんじゃないかと思う。でもその意見が偏っているという自覚はあります。研究能力と食い扶持を稼ぐ能力は別だから。
じゃあわたしはOKですねと、卒業生が笑う。ほかの人の意見も聞くようにと、わたしは言う。まあ誰に何を言われても好きにするんだろうけど。