サンタクロースはいないんだよ。
部屋の隅にわたしを呼び、小さな声で、彼は重要な事実を告げる。そうか、とわたしは重々しくうなずく。そうだったのか。知ってるくせに、と彼は言う。わたしは彼の母親と同級の友人で、彼が生まれた時からばっちり大人である。だからわたしはその事実をとうに知っていると、彼は判断している。妥当な判断である。
それが、そうでもないんだ。
わたしもひそひそ声で言う。わたしだって、サンタクロースはいないと思ってた。でも大人になったら、かえってそのあたりがよくわからなくなってね。毎年じゃないけど、突然プレゼントをもらうことがあるんだ。うん、今でも。大人なんだけどな、何だろう、バグかな?
わたしはこの家のクリスマスとお誕生日会(子どもの一家だけ、あるいは子どもの友人を招いておこなうホームパーティとは別に開催される、親戚などが来る会)に毎回呼ばれている。赤の他人なのに。
でも子どもにとって参加メンバーが親戚かどうかはあんまり関係がないみたいだ。子どもが生まれた時分に友人一家が引っ越したマンションの近くにわたしが住んでいたので、親戚より頻繁に一緒に過ごしていた。そんな経緯でわたしは「いて当然」のメンツに数えられており、しかるべきイベントに参加しないと後で子どもにめちゃくちゃ怒られるのだ。
いつまで怒ってくれるんだろうと思う。
だってもうこの家の子どもはサンタクロースがいないことをわかっていて、なおかつ「サンタさんからのプレゼント」という名目の贈り物を平気で受け取る、そういう年齢になったのだ。
そうかそうかと、子どもの親である友人が笑う。
そんなことを言っていたのか。親には言わないんだよ、もう信じていないという合意はなんとなく形成されているんだけど、お伽噺を演出していた親に子どもなりに気を遣っているんだろう。プレゼントが減るのも嫌なのだろうし。
それであなたは何とこたえたの。
そうか、嘘はつかないんだね。
そう、わたしは子どものための嘘をつかない。嘘が下手だからである。わたしは実際のところ、「サンタクロースがいないとは言えない」と思っている。といっても、恋人がサンタクロースとか、そういうのではない。
なんか、もらえること、あるじゃん。わたしはそのように言う。理不尽な贈り物を、理不尽なかたちで、なぜだかもらうこと、あるじゃん。世界のバグみたいに。あの理不尽に比べたらサンタクロース説のほうがよほど合理的な説明をしていると思う。運が良いって言うけど、運って何だよ。意味がわからない。未検証という点ではサンタクロースと変わらない。しかも細部の詰めが甘い。反証可能性が担保されていない。
友人が笑う。いいじゃないか、サンタクロースでも運でも縁でも魔法でも人間の善性でも、好きな名前をつけたらいい。あなたは、ときどき枕元に突然プレゼントが置かれているような人生を過ごして、「世界が理由もなくわたしに良くしている」と思う、こんなのバグじゃないかと思う、何かのしかけがないと説明がつかないと思う。
そう思っている人はけっこういる。そうしてわたしはそういう人たちを好きだよ。同じような境遇で「理不尽に奪われている」と思い続けるよりよほど楽しそうじゃないか。
友人の家から帰る。いま現在、友人一家は以前のマンションよりいくぶん郊外に家を建ててそこに住んでおり、わたしのご近所さんではない。コンビニエンスストアのドアの横には駆け込み需要にこたえるためのクリスマスケーキを積んだワゴンが出ていて、サンタクロースの扮装をした店員が商品のひとつに「売り切れ」の札をつけている。
あの人にもサンタクロースはいるのだろうと思う。
わたしもサンタクロースの扮装をしてアルバイトをしたことがある。十六から十八の冬のことだ。そのころはまだ、サンタクロースはいないと思っていた。生育歴の問題で幼いころにもサンタクロースの夢を見た経験がなかった。サンタクロースは養育者に愛された子どもにだけ与えられる特権的な物語だと思っていた。きれいなお話ですねと。
その後わたしは十年ばかりかけて、サンタクロースのお話を仮説のひとつとして採用するに至る。世界にさんざっぱら良くしてもらって、その理由がまったく理解できず、さまざまな仮説をかき集めるはめになったからである。
自宅に戻って確定申告の準備をする。わたしはもちろんサンタクロースでもあるので、寄附の控除の手続きをするのである。